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世界史の目

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ギャラリー

第114話


ビルマ人王朝の興亡

 イラワジ川エーヤーワディー川)は、ヒマラヤ山脈を源泉として、現ミャンマー連邦を縦断し、アンダマン海に注ぐ、サンスクリット語で"象の川"を意味するとされている川である。このイラワジ川流域には、数々の王朝が興亡を繰り返してきた。

 ミャンマー南部(下ビルマ地方)やタイ沿岸部に古くから先住民として定住していたのが南アジア語系(モン=クメール語族)のモン人で、B.C.3000年からB.C.1500年の間にビルマに移り住んだとされている。南部の現在バゴーと呼ばれる場所は元来ペグーと呼ばれ、モン人の一大拠点であった。インド・マウルヤ朝(B.C.317?-B.C.180?/B.C.321?-B.C.181?)のアショーカ王(阿育王。位B.C.268?-B.C.232?)の使者により上座部仏教をはじめ古代インド文化を受容し、また、のちにタイ北部のハリプンチャイ王国(7-13C)、中部のドヴァーラヴァティー王国(6-11C)といった強力国家を建国したことでも知られる民族である。
 イラワジ川の流域には、モン人以外にも有力民族が定住していた。この民族とは紀元前には中流域中心に定住していたチベット=ミャンマー系のピュー人(トゥリチュル)で、プロームを都に驃(ひょう)を建国(7C)、仏教を導入(8C)して、シュリクシェトラ等の遺跡を残した。こうして、ミャンマー北部のピュー人、南部のモン人の両勢力が古代のイラワジ文明を彩っていった。

 雲南地方にはチベット=ビルマ系王国・南詔(なんしょう。?-902)が興っていたが、南詔は832年にピュー人を、835年にはモン人を次々と襲撃、それぞれの拠点を陥落させた。そして、南詔に服属していたシナ=チベット語族のビルマ人ミャンマー人)が南下を繰り返し、イラワジ川中流域に都市パガン(現バガン)を建設(849)、同地の点在した村々を統合してビルマの王国の基礎であるアリマンダナプラ王国を創始、パガンを中心とするビルマ人王朝は徐々に強大化していった。

 パガンに転機が訪れたのは、1044年に即位したアノーヤター王(アニルッダ。位1044-77)の時である。アノーヤターは、イラワジ川沿いだけの国家ではなく、モン人が拠点とする下ビルマのタトン王国や、東部にいるタイ系のシャン人を制圧して、ビルマ人王朝の拡大と統一を考えていた。また、当時のパガンでは大乗仏教の一派、"アリー派"があったが、これを嫌って上座部仏教に関心を寄せていた王は、上座部仏教が普及していたモン人のタトンに着目、タトン僧により上座部に帰依、さらにタトンを征服する(1057)とともに、パガン内のアリー派を一掃して国家を上座部仏教国に仕立て上げた。
 アノーヤター王は、タトンの王、要人を含め僧侶、住民ら数万人をパガンに連行、パーリ語で書かれた上座部の経典も大量に持ち帰った。またこの時モン人の文字はビルマ人用に改められ、ビルマ文字となって、ビルマ語に使われた。

 結果、ビルマ人による最初の統一王朝、パガン朝(1044-1287/1299)がアノーヤター王によって誕生した。パガン朝は数多くの仏教寺院や仏塔(パゴダ)を建設(あまりにも多くの寺院を建立したので、パガン朝は別名"建寺王朝(けんじ)"という)、また灌漑農業を発展させて交易を活発化させるなど、繁栄を極めた。

 13世紀、フビライ=ハン(位1260-94。世祖)率いる朝(げん。1271-1368)による隣接諸国への侵寇、いわゆる元寇(げんこう)が盛んとなった。フビライは既に1254年、南詔滅亡後の雲南にその名を轟かせていたタイ系の大理国(937-1254。だいり)を、続いて1279年には南宋(なんそう。1127-1279)を滅ぼした強国であった。
 パガン朝では1286年、ナラティーハパテ王(タルクプリ。タヨウピイェー。位1254-1287)の時に元朝の襲来にあい、翌年王は殺されて元に征服された。この年がパガン朝の事実上の滅亡を意味する。その後、子のルイナンシャン(チョウスワー。クラワチュワー。位1287-99)が即位して王朝の残存をはかるが、フビライが生きている間は元朝に王権を握られ、フビライが没して元朝の支配が緩められて以降は、シャン人に圧せられ、結局王は殺されてパガン朝は名実ともに消滅した(1299)。

 パガン陥落後の、下ビルマではペグーを中心にモン人(ペグー朝。1287-1539)が、上ビルマではパガン北東のアヴァを中心にシャン人(インワ朝。1364-1555)がそれぞれ、勢いを再び盛り返した。この間ビルマ人はその中間に位置し、シッタウン川(バゴー山脈の西側がイラワジ川、東側がシッタウン川)上流のタウングー(トゥングー)に逃れ、初代王ティンカバー(位1347-58)のもとで国家を建設、4代目王ミンチーニョウ(位1486-1531)の時に台頭、その子ダビンシュエティー(位1531-50)が王に就くと、王はその後モン人のペグー朝を滅ぼして、ペグーに遷都した(1538)。再度のモン人併呑に成功した、ビルマ人王朝・トゥングー朝1531-1752)の誕生である。
 2代目バインナウン王(位1550-81)の時、シャン人のインワ朝をも滅ぼして勢力を強めていったトゥングー朝は、1568年に王朝版図を最大とし、ヨーロッパ商人の来航とともに海上交易を促進させて繁栄したが、ビルマ人はモン人に対して、常に融和策でもってしか統一できず、3代目ナンダバイン王(位1581-99)は融和策を捨てて逆にモン人を圧した。このためモン人の離反が相次ぎ、反乱が勃発、ナンダバイン王も殺され、トゥングー朝は危機的状況に陥ったが、弟のニャウンヤンがアヴァで即位後(位1597-1606)、トゥングー朝を再興させ、その後モン人勢力の強いペグーからアヴァに遷都した(1635。1597年の再興後のトゥングー朝をニャウンヤン朝ともいう。インワ朝とニャウンヤン朝がともにアヴァを都としたため、これら2つをまとめてアヴァ朝と呼ばれることがある)。
 しかし17世紀になるとトゥングー朝は、オランダやイギリスの進出をうけ、また明清時代の中国の侵入もあって弱小化、18C半ばに独立したモン人・ペグーの逆襲にあって、1752年3月、遂に首都アヴァを陥れられて滅亡した。

 トゥングー朝をモン人によって壊滅させられたビルマ人はイラワジ川西岸のシュエボー(コンバウン)において、再々度のビルマ人による統一王朝の構築を画策していた。中心となったのはアラウンパヤー(1711-60)というシュエボーの首長で、シャン人を引き入れて再統一を宣言、コンバウン朝を開基(アラウンパヤー朝1752-1885)、アラウンパヤーは初代王になった(位1752-60)。アラウンパヤーは、翌1753年アヴァを奪回、1757年、遂にペグーを陥れモン人を再び支配下に入れた。拠点を失ったモン人はアラウンパヤーのビルマ人同化策を余儀なくされ、モン人はアラウンパヤーの差し向けた軍によって次から次へと虐殺されていくのであった。経典などの書物は焼き払われ、寺院などの建造物は破壊されていき、モン人の母国語・慣習は厳禁となった。この間アラウンパヤーは、モン人の住む漁村ダゴンを占領後、同地を"戦いの終わり"を意味するラングーンと命名した(1755。1989年にラングーンはヤンゴンと改称する)。
 3代目シンビューシン王(ミエドゥー。位1763-76)の時にはタイの統一国家・アユタヤ朝(1351-1767)を滅ぼすほどの強力となり(1767)、その強さは乾隆帝(けんりゅうてい。位1735-95)が統治する中国・清朝(しん。1616-1912)にも伝わった。乾隆帝は既に行われていたビルマ遠征をさらに強め、1769年、やっとのことでコンバウン朝と朝貢関係を結ぶこととなった。

 その後のコンバウン朝では、5代目マウンマウン王(位1782)が、シンビューシン王の世子を殺し即位したが、その同年、叔父であり6代目として即位するボードーバヤー王(位1782-1819)に殺害されるという、王室内による内紛が相次ぎ、安定しなかった。さらにボードーバヤー即位直後にはアヴァ郊外のアマラプーラ遷都もあり、再度によるモン人の反乱も頻発、王朝勢力は徐々に下降線を辿っていった。1790年、コンバウン朝は遂に清朝の属国となった。

 コンバウン朝の大転落は、インド方面の進出であった。窮地からの脱出先として、インド東北部のアッサム地方に目をつけたのである。同地にはタイ系のアホム王国(13C-19C初)があったが、ボードーバヤー王の治世下による1817年、ビルマ軍はアホムに侵寇、同地方を支配下に入れた。しかし、アッサム地方をビルマと同様に着目していたヨーロッパ列強がいた。イギリスである。そもそもインドはイギリス領であり、イギリスの干渉を余儀なくされたコンバウン朝は、遂にイギリスと交戦、近代兵器を巧みに操るイギリス軍の前に完敗した(第一次イギリス=ビルマ戦争1824-26)。これによってコンバウン朝はアッサム・アラカンなどインド国境付近の領土を失った。また9代目パガン王(位1846-53)の時、イギリスの挑発で第二次イギリス=ビルマ戦争が勃発(1852-53)、ビルマ大敗で遂にラングーン、プロームなど含む下ビルマが占領され、パガン王は王位を退いた。

 10代目ミンドン王(位1853-78)の時、コンバウン朝はマンダレー(イラワジ川中流域)に遷都した(1858)。マンダレーは現在でもヤンゴンに続く現ミャンマー第2の都市として発展している都市で、1874年に市街が碁盤の目状になっている。またインドや中国との交易路の要所であり、商業が繁栄した。ミンドン王はイギリスとの戦争を教訓に、税制改革・産業活性化(科学技術導入)・富国強兵策を推進した。しかし次の11代目ティーボー王(位1878-85)の治世下、このマンダレーも窮地に陥ることとなる。

 1885年、ビルマは、植民地競争においてはイギリスとライバルであり、インドシナ半島の植民地化を進めているフランスに接近した。このためイギリスの干渉が再開、第三次イギリス=ビルマ戦争が始まり(1885-86)、マンダレーは陥落、ティーボー王はイギリス軍の捕虜となり、イラワジ川を下ってヤンゴンで一時幽閉、その後インドに流された。コンバウン朝はビルマ人の最後の王朝となり(コンバウン朝滅亡)、翌1886年、イギリスは残った上ビルマも併合し、全ビルマ併合が完了、1935年まで、イギリス領インドの1州となってしまった。ティーボー王は1916年に没するまでインドに滞在の身となった。パガン王朝によるビルマ統一から840年、ミャンマーは民族や宗教での対立を防ぐことはできたが、西欧列強をはねのけることは、遂にはできなかった。

 イギリス領ビルマはその後日本軍政下に入り(1942-45)、1948年1月4日、ビルマ連邦共和国として独立した。

参考:チェリー・ミャンマー語教室のHP([http://www.awave.or.jp/home/town/cherry/]2018.3.28追記:現在リンク切れです)


 今回は非常に難しい分野でした。ミャンマーは私が受験生だった時も"パガン→トゥングー→アラウンパヤー"の3王朝をリズムに乗って言えることで精一杯でしたね。でも東南アジア史ってのはけっこう重要なんです。私大入試では大問に出されることもありますし、私が受験した大学では、アジアの現代史が大問に出て、西アジア・東南アジア・東アジア・南アジアが混合された20世紀の偉人達と、偉業が書かれた文を結びつけるというものでしたが、あれは難問でした。モンゴルのスヘ=バートル(1894-1923)などが出題されました。ちなみにビルマからの出題はアウン=サン(1915-47)だったような気がします。

 ミャンマーといえば今年、日本でもその情勢に関するニュースが頻繁に飛び込んできました。僧侶や市民らによる反軍政デモが発生し、政権の武力弾圧によって日本人を含む多数の死傷者が発生したニュースは記憶に新しいことでしょう。同じアジア国として、一日でも早く平穏無事な日常に戻れるように祈るばかりです。

 今のミャンマー連邦の首都はネピド(ネーピードー)です。最近ヤンゴンから遷ったそうです。ミャンマーの近年の話題といえば、やはりスーチーさん(アウン=サン=スーチー。1945- )になりますね。アウン=サン氏の長女であり、軍政による圧力を受けながらも民主化運動の精神的支柱となった人物で、1991年にはノーベル平和賞を受賞しています。世界史Aでひょっとしたらミャンマーの現代史において必要事項になると思います。社会主義時代のネ=ウィン政権(任1962-81)と合わせて覚えておいた方が良いでしょう。

 さて、今回の学習ポイントです。前述の通り、"パガン→トゥングー→アラウンパヤー~♪"の3王朝をリズムに乗って覚えてください。ちなみに、今の課程だったら"パガン→トゥングー→コンバウン~♪"ですかね。タイの王朝でも"スコタイ→アユタヤ→バンコク~♪(バンコク朝はチャクリ朝、また最新ではラタナコーシン朝として出されます)"、ヴェトナムでも"李→陳→黎→阮~♪"、ジャワでも"シャシンマジャマタ(シャイレンドラ→シンガサリ→マジャパヒト→マタラム~♪)"...とかなんとか言いながら強引に王朝・王国の変遷を覚えました。ミャンマー王朝は他にも登場しましたが、他は覚えなくても良いでしょう。モン人関連でしたら、下ビルマの拠点ペグー(バゴー)や、タイのチャオプラヤー川流域に興ったドヴァーラヴァティーも知っておくと便利です。また上ビルマのピュー人の驃国は用語集に出ていますし、教科書にも登場しますので、注意が必要ですね。コンバウン朝はアユタヤ朝を滅亡させたことと、イギリス占領の項もよく出されます。コンバウン朝滅亡のきっかけとなったイギリス=ビルマ戦争は覚えておきましょう。

 ミャンマーの君主は、コンバウン朝をおこしたアラウンパヤーだけで良いと思います。アノーヤターも偉人なのですが、入試では出題されません。地形では、やはりイラワジ(エーヤーワディー)川は知っておきましょう。ミャンマーの源です。あと、ビルマ戦争を引き起こすきっかけとなった。アッサム地方も要注意。

 現在のミャンマーの民族構成は、大半はビルマ人(約69%)、その次に多いのがシャン人(約8.5%)、チベット=ビルマ族の祖とも言われるカレン人(約6.2%)と続きます。モン人はだいたい2.4%です(2003年統計)。宗教は上座部(小乗)仏教が大半、公用語はミャンマー語(ビルマ語)です。