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世界史の目

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ギャラリー

第121話


民の雄叫(おたけ)
秦王朝の興亡・その3~

  1. 仲父・呂不韋~秦王朝の興亡・その1はこちら
  2. 煌々たる上帝~秦王朝の興亡・その2はこちら

 始皇帝(しこうてい。位B.C.221-B.C.210)の統一事業による民衆への酷使により、彼らによる政府・王室への非難が徐々に聞こえ始めた王朝(しん。?-B.C.206。首都咸陽)。始皇帝崩後、丞相(じょうしょう。行政の最高責任者)の李斯(りし。?-B.C.208)・宦官の趙高(ちょうこう。?-B.C.207)らは自らの身の安泰をはかり、当初帝位継承者であり、始皇帝だけでなく重臣、また民にも期待を寄せられていた長子扶蘇(ふそ。?-B.C.210)を謀略によりひそかに処刑、匈奴征伐や長城修築に功があった将軍蒙恬(もうてん。?-B.C.210)を殺害、暗愚な末子の胡亥(こがい。B.C.229?-B.C.207)を二世皇帝として即位させた(位B.C.210-B.C.207)。

 二世皇帝は趙高のもとで、権勢をふるった。長城の修築や道路整備、大宮殿、阿房宮の竣工を急ぐなど、土木事業はこれまで通り大規模に行われ、異民族侵入に対抗するため徴兵の数を増やした。ところが、始皇帝の崩御、扶蘇や蒙恬の死罪、また彼らの息のかかった権力者に対する粛清が民衆に知られてしまうと、これらの労役に苦しんだ民衆の不満がついに爆発し、翌B.C.209年、中国史上初めての農民反乱が勃発した。これが陳勝・呉広の乱である(ちんしょう・ごこうのらん。B.C.209-B.C.208)。

 首謀者である陳勝(陳渉。?-B.C.208)は河南省出身で、他人の農地を耕作する日雇い農民(傭耕)であった。しかしこの頃から帝国に対する革命精神の兆しがあり、"燕雀(えんじゃく。小さい鳥)いずくんぞ鴻鵠(こうこく。大きい鳥)の志を知らんや(→小人物にどうして大人物の大志がわかろうか)"と前進的であった。
 その後、同じ農民出身の呉広(?-B.C.208)らと同様に、北辺を守備する兵卒として徴発された。始皇帝崩後のB.C.209年、陳勝と呉広は、徴発された約900人の農民からなる守備兵を、期日までに河北の漁陽(北京北部の密県)へ運び込む仕事を補佐するよう指示された。秦の法律により、到着日を定められた陳勝と呉広を含む兵卒は1分たりとも遅刻は許されず、仮に遅れた場合は、どんな事情があろうとも斬罪であった。

 しかしその道中で大雨に遭い、道が水没したため、到着日までに間に合わないことが決定的になった。陳勝と呉広は、どうせ斬罪に処されるのならと、革命を実行に移す絶好の機会として、計画を練った。
 この時点では、まだ始皇帝の崩御、そして国民に人気のあった長子である扶蘇や将軍・蒙恬の死、嫌われていた二世皇帝の即位は民衆には知らされていなかった。しかし補佐役の陳勝と呉広は、官吏である引率の隊長からは知らされていた。そこで陳勝と呉広は、農民兵をあらゆる方法で洗脳させて、2人に対して威厳を抱かすことに成功、そして2人は引率の隊長をそそのかし、ついに彼を斬り殺した。

 このとき、陳勝は農民兵たちの前で、どうせ死罪ならば、永遠に自らの名を残して死するべきであると説き、"王侯将相(おうこうしょうしょう)いずくんぞ(しゅ)あらんや(→王・諸侯・将軍・丞相にどうして血筋・家柄の種別があろうか、ありはしない)"と演説、農民上がりであっても高い地位にのぼり、国を治めることができると、強い雄叫びを上げた。この雄叫びは農民兵の士気を促せ、陳勝に従う意を決した。陳勝は未だその死を知らされていない扶蘇の名を借りた。
 こうして、陳勝・呉広の反乱が始まった。河南省の陳(ちん)を拠点とし、国号を張楚(ちょうそ)とし、陳勝が王になった。これに呼応したかのように、秦の圧政に苦しんでいた各地方の民衆は郡県の役人(守・令)を襲った。陳勝は呉広を仮王にして各地の諸将を統率、の首都である咸陽(かんよう)に向かった。行く先々でぶつかる地方官や軍人を斬り捨てていく張楚の軍は、すでに10万に達しており、かつての戦国・(そ。?-B.C.223)において、民に人気のあった名将・項燕(こうえん。?-B.C.223)の末子・項梁(こうりょう。?-B.C.208)や、項燕の孫の項羽(こうう。B.C.232-B.C.202)、江蘇省出身の遊侠(ゆうきょう)だった劉邦(りゅうほう。B.C.256?/B.C.247?-B.C.195)らも各地で挙兵した。

 しかし、10万の兵を動員しておこそうとした張楚の軍は、次第に内紛の渦に巻き込まれ、それに乗じて、ついに秦の反撃が始まった。秦の将軍である章邯(?-B.C.205。しょうかん)が任務について以降は、帝国軍の士気が上がり、反乱軍を次々と敗退させていった。こうした中、張楚では、呉広が部下のクーデタにより殺された。張楚の拠点である陳に進軍する章邯軍の勢いを見た陳勝は、大軍を率いて章邯と会戦するも自身の部下が次々と撃退され、戦局が劣勢に転じた。そして陳勝は形勢不利とみた陳勝の御者によってついに殺され、反乱はB.C.208年、わずか半年で終戦となった。これで陳勝たちの咸陽陥落は、まぼろしとなった。
 陳勝・呉広の乱は終わったが、これに呼応した各地の反乱はその後も頻発した。かつての戦国時代で割拠した旧国の王族や末裔が、王を擁立して独立気運を高めていき、反乱を起こし始めた。中でも楚は再興熱が大いに高まっており、楚の項梁は、秦に滅ぼされた楚を再興させるべく、楚軍を指揮し、連戦連勝を重ねた(劉邦の軍も合流している)。しかしこの項梁も章邯に討たれ陣没、結果項羽が楚軍の大将となった。

 農民反乱によって全土が荒廃する中、宮中では新たな動揺が走り始めた。即位したばかりの二世皇帝の治世に、暗雲が立ち籠めていく。


 陳勝・呉広の乱はその後の中国王朝史において、非常に重要な事件でした。王朝の衰亡期には必ずといってもイイほど農民反乱がつきものですね。新王朝(しん。A.D.8-23)の赤眉の乱(せきび。18-27)、後漢(ごかん。25-220)の黄巾の乱(こうきん。184)、(とう。618-907)の黄巣の乱(こうそう。875-884)、(げん。1271-1368)の紅巾の乱(こうきん。1351-66)、(みん。1368-1644)のと李自成の乱(りじせい。1631-45)、(しん。1616-1912)の白蓮教徒の乱(1796-1804)と太平天国の乱(1851-64)といった、歴史を彩った農民反乱は、すべて陳勝呉広の乱がルーツとなっています。

 今回の学習ポイントですが、今回の目玉である陳勝・呉広の乱は絶対覚えましょう。"王侯将相いずくんぞ、種あらんや"の言葉と意味も覚えて下さい。扶蘇、趙高、二世皇帝らは受験には登場しませんので覚えなくて結構です。

 さて、最終章となる第4部、ついに秦王朝の崩壊が訪れます。ご期待下さい!