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世界史の目

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第165話


北魏の興亡・後編

Vol.164北魏の興亡・前編はこちら

 439年、第3代太武帝(たいぶてい。位423-452)によって華北統一に成功した北魏(ほくぎ。386-534)。第4代南安王(なんあんおう。位452)、第5代文成帝(ぶんせいてい。位452-465)、第6代献文帝(けんぶんてい。位465-471。拓跋弘。たくばつこう。454-476。前帝の長子)を経て、第7代皇帝として、献文帝の長子の拓跋宏(たくばつこう。467-499)が即位した。これが孝文帝である(こうぶんてい。位471-499。高祖。こうそ)。即位時、帝は5歳であった。そのため、当分は祖母の馮太后(ひょう。文明太后。ぶんめい。441-490。皇后位456-465。文成帝の皇后)が政務を執った。この間に北魏の内政は大きく発展した。官僚俸禄制(484)をはじめとして、土地政策の均田制(485。妻・奴婢・耕牛にも給田)、村落政策の三長制(486。5家を1隣、5隣を1里、5里を1党とし、隣長・里長・党長の三長を設置)の三大政策が施行されたのである。これは、官僚の安定化をもたらすための俸禄制、豪族の大土地所有を抑制させるための均田制、戸籍と税収を確実に把握するための三長制であり、皇帝の中央集権化をさらに促進させることになった。

 490年に馮太后が没し、その後孝文帝の親政が始まった。馮太后の偉業を受け継いだ孝文帝はその完成を目指すことで、北魏建国から行われていた漢化政策のピークを現出した。その第一弾が洛陽遷都である(493)。かつての後漢王朝(ごかん。東漢。25-220)と(ぎ。220-265)が置いた漢人王朝の代表的王都を、孝文帝は周囲の反対を押し切って首都として定め、"胡"寄りの平城から"漢"寄りの洛陽へ南遷を果たしたのである。翌494年にはその洛陽南方に流れる伊水(いすい)に沿って、龍門石窟(りゅうもんせっくつ。造営期494-520。2000年世界遺産登録)の造営が始められた。

 洛陽遷都後の孝文帝の漢化政策の第二弾は改姓である。"拓跋"であった鮮卑の国姓を一文字の"元"と中国風に改めた。そして第三弾は習俗の胡服・索髪(そくぱつ。お下げ髪の結い方)・胡語(鮮卑語)の禁止などを断行した。
 官吏任用制度では、貴族制度を強化するため、主に南朝で採用されていた九品中正(きゅうひんちゅうせい。九品官人法)を部分的に取り入れた。中央から任命された中正官が、地方の官僚推薦・候補者を九等分された官品(一品官~九品官)に評価して中央がそれに応じて任命する制度である。これにより北朝の貴族制度が確立された。
 また漢民族との通婚も許した。鮮卑の民族的兵力、および身分維持には限界があると察した孝文帝は、鮮卑と漢人豪族と吸収させることにより、鮮卑の地位・身分を擁護する目的であった。
 このように孝文帝の漢化政策は、過去のどの皇帝よりも急進的に行われることによって、鮮卑民族の中国化が急速に浸透していったが、鮮卑の血を捨てきれない功臣や守旧派の支配者層は、華美で柔弱な漢風ではなく依然として質実剛健な胡風を慕った。このため、新しい官僚体制になじまず、不満の声も噴出した。

 洛陽遷都を果たした493年、孝文帝は長子の元恂(げんしゅん。482-497)を皇太子に立てた。元恂は父帝が実行した洛陽遷都と漢化政策を快く思わず、彼は平城に逃れた。さらに元恂が謀反を企てたとして孝文帝の怒りを買い、皇太子の位を落とされた上、497年、殺害された(自殺説もある)。この事件にあるように、北魏の全盛期を現出した孝文帝であったが、洛陽遷都と漢化政策の行き過ぎによって明らかに国勢は下降線をたどっていた。その背景として、旧都平城の縁辺、つまり北方の辺境に守備隊である六つの鎮(ちん。軍団のこと)が太武帝時代から配置されており、近衛軍として優遇されていたが、洛陽遷都後は当然洛陽の守備隊が優遇され、六鎮に所属する兵士は不快であった。

 孝文帝も元恂が没したその2年後に崩御し(499)、次の子・宣武帝(せんぶてい。位499-515)も父と同じ33歳で崩御、9代目・孝明帝(こうめいてい。位515-528)の治世になると、六鎮の不満は遂に爆発した。実は北魏では外戚の専横を避けるため、皇太子を立てると生みの母は死を賜うという風習(子貴母死制度)があったのだが、前の宣武帝の代で廃止となっていた。このため、孝明帝が幼くして即位したことで、孝明帝の母である胡太后(?-528。こたいごう。霊太后。れいたいごう)は死を賜うことなく生き残って摂政として権勢をふるい、宦官の台頭をゆるすなど、政局・朝廷は混乱していた。これが六鎮の怒りを誘発させて、523年から7年間、大規模な武力反乱が続いた(六鎮の乱)。

 六鎮が反乱を起こす中、19歳の孝明帝が突然、不審の死を遂げる(528)。孝明帝には528年に皇后との間にできた女児しかいなかったため、政権維持をもくろんだ胡太后が、その生まれたばかりの女児を男児と偽って即位させたが、発覚してすぐ廃位となった。このため孝明帝の2歳の甥(元釗。げんしょう。526-528)を擁立させて幼主とした。胡太后は成人して対立した孝明帝を毒殺したとされている。このとき、六鎮の乱の平定にあたっていた将軍・爾朱栄(じしゅえい。493-530)が孝明帝より胡太后の排除を求められていた。帝の崩御を聞いた爾朱栄は洛陽を攻めて胡太后と元釗を捕らえた。胡太后は出家を望んで命を請うたが、許されず2歳の元釗とともに殺され、黄河に投じられた(河陰の変。528)。爾朱栄はこの後即位した10代目・孝荘帝(こうそうてい。位528-530)の岳父となり、実権を握って六鎮の乱を平定(530)するなど軍功をおさめた。しかし爾朱栄は、その専横から孝荘帝に疎まれて殺害され、帝も爾朱一派に殺害されている(530)ように、孝文帝崩御後の北魏は、政権略奪劇の繰り返しであり、帝位の期間も第11代東海王(とうかいおう。位530-531)、第12代閔帝(びんてい。節閔帝。せつびんてい。位531-532)、第13代安定王(あんていおう。位531-532。閔帝と並立)と安定しなかった。

 しかも六鎮の乱が鎮圧された後、北魏は爾朱一族をはじめとして軍閥の様相を呈しており、孝荘帝以後の皇帝も軍閥によって利用されたに等しかった。そこで、爾朱一族に属していた、漢人系の部将・高歓(こうかん。496-547)という人物がいた。高歓は爾朱氏から独立してこれらを滅ぼし、洛陽を攻めて閔帝および並立していた安定王を廃位させて幽閉・殺害し、北魏の最後の皇帝となる第14代孝武帝(こうぶてい。位532-534)を傀儡皇帝として立てた。孝武帝は高歓の勢威を怖れて排除を迫ったがうまくいかず、もと匈奴部族だがのち鮮卑化した宇文部出身の宇文泰(うぶんたい。505-556)を頼り、西の関中(かんちゅう。長安方面)へ向かい保護された。

 高歓は孝武帝をあきらめ、(ぎょう。河北省)を都に孝文帝の11歳の曾孫を孝静帝(こうせいてい。位534-550)として皇帝に立たせ、魏国を再興させた。これを便宜上、東魏(とうぎ。534-550)という。一方の宇文泰は長安を都に、のち対立した孝武帝を殺害し(534)、孝文帝の孫を文帝(ぶんてい。位535-551)として皇帝に立たせ、高歓の魏とは別の魏国を再興させた(西魏。せいぎ。535-556)。
 こうして北魏は東西分裂をおこしたが、軍人が皇帝を操る形式は変わらず続いた。東魏は高歓の次子高洋(こうよう。529-559)が孝静帝から禅譲を受けたので、北魏の血統が途絶えることとなった(東魏滅亡550)。帝位についた高洋は文宣帝(ぶんせんてい。位550-559)として、鄴を都に北斉(ほくせい。550-577)を創始した。高氏の王朝である。
 東魏は1代で滅んだが、一方の西魏は3代続いた。しかし西魏も東魏同様、傀儡的に皇帝が置かれたにすぎず、政権は宇文泰に握られた。556年10月に宇文泰が没すると、三男の宇文覚(うぶんかく。542-557)が西魏最後の皇帝(恭帝。きょうてい。位554-556)より禅譲を受け、同じく血統が途絶えることとなった(西魏滅亡556)。禅譲を受けた宇文覚は孝閔帝(こうびんてい。位557)として、長安を都に宇文氏の王朝、北周(ほくしゅう。556-581)を建国した(実質は宇文泰の甥が孝閔帝の陰の有力者で、孝閔帝は傀儡だった。のち対立が深まり、孝閔帝は16歳の若さで殺害される)。そして577年北周は北斉を滅ぼし華北を統一させた(北斉滅亡577)。

 北魏の統一で五胡十六国時代が終わり、北朝が始まった。しかしこの北朝も北周を最後に(ずい。581-618)に取って代わり(北周滅亡581)、隋は南朝も吸収して、中国全土統一王朝となった(589)。後漢滅亡から370年近く続いた内乱分裂状態(魏晋南北朝時代。220-589)はようやく収まり、中国大陸は1つの王朝にまとまった。 


 北魏の後編です。北魏の全盛期を現出した高祖、孝文帝の登場です。でも本編でもおわかりのように、即位時はまだ幼年であったため、一連の諸政策はすべて孝文帝一人で行ったわけではなく、治世の3分の2は、養母の馮太后が行ったことです。御簾(みす)を垂らした、いわゆる垂簾聴政(すいれんちょうせい。垂簾政治)を行っていました。孝文帝は490年代の皇帝で、馮太后の死後、受け継いで親政を始めました。
 本編でもお話ししましたが皇太子をたてると生みの母親はお役御免となって死を強制されるという過酷な運命をたどりました。北魏は8代目の宣武帝までこの制度が続き、皇太子にとって生みの母は自殺させられ、常に母親は継母という状態だったのです。ただ孝文帝と継母の馮太后は良好な関係を築いていたとされていまして、太后の死に悲嘆した帝は、5日間の食事をとらず、4ヶ月間政務ができないという有様だったとされています。

 ではさっそく、今回の学習ポイントです。まず、孝文帝の治世に行われた政策を見ていきましょう。その中での均田制と三長制は必修です。内容もふまえて、絶対に覚えて下さい。実は魏晋南北朝時代は、土地制度や村落制度がかなり細かく行われ、覚える項目も多いので重要です。一覧にしておきましたので見ておきましょう。太字は要チェックです。

  1. 屯田制(とんでんせい。土地・軍事制度)【(220-265)】・・・兵による開拓・駐屯の制度。軍屯(ぐんとん。辺境)と民屯(みんとん。内地)国家財源の確保と土地兼併の抑制。
  2. 占田・課田法(せんでん・かでんほう。土地・税制度)【西晋(265-316)】・・・土地所有の限度を定めた占田、および国有地(官田)を農民に割り当てた課田に対して、生産物(絹・綿)の現物税を徴収させる(これを戸調式という。こちょうしき)。均田制の前身。
  3. 土断法(どだんほう。戸籍整理)【南朝諸国】・・・華北からの流浪民を戸籍登録。流民を安定させ、田租の確保をはかる。
  4. 均田制(きんでんせい。土地・税制度)【北魏・北朝諸国】・・・土地所有額を制限、土地の受給と回収を図る。北魏をはじめとして北朝時代では妻・奴婢・耕牛にも給田されるが、隋唐時代はされない
  5. 三長制(さんちょうせい。村落制度)【北魏】・・・5家を1隣、5隣を1里、5里を1党とし、隣長・里長・党長の三長を設置。財政確保と治安維持。

 特に均田制は北魏時代と隋唐時代とでは仕組みが違いますので覚える必要があります。唐の均田制は日本では班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)として伝わります。

 さて、親政後の孝文帝の政策ですが、すべての生活・習俗を中国風にいたします。漢化政策です。鮮卑の言語や言葉の禁止、胡服の禁止、鮮卑の姓を"拓跋"から中国風に一文字("元")とするなど、急進的な改革を行っていきます。漢化政策は北魏の一貫した政策でしたが、孝文帝のときに為されたと思ってもらって結構です。その孝文帝の漢化政策における一番の大仕事は洛陽遷都でしょう。ですので、受験世界史では、太武帝のとき平城、孝文帝から洛陽というように覚えておけばイイかと思います。

 北魏の文化では、地理書の『水経注(すいけいちゅう。著者は地理学者の酈道元。れきどうげん。469-527)』と農書の『斉民要術(せいみんようじゅつ。著者は農学者の賈思勰。かしきょう。生没年不明)』は出ます。著者はマイナーですが、用語集に出てます。セットで覚えておきましょう。余裕がなければ作品名だけで良いでしょう。また窟院の3つ目、龍門石窟が登場しました。これも世界遺産です。洛陽遷都後に造営が始められました。前編に登場した雲崗と、その前に造営された敦煌と合わせて3つ、覚えておきましょう。

 そして南北朝時代ですが、南朝は東晋のあと、宋(そう。420-479)→斉(せい。479-502)→梁(りょう。502-557)→陳(ちん。557-589)と続きます。四字熟語にして"宋斉梁陳"と呪文のように覚えて下さい。ややこしいのが北朝で北魏の東西分裂の後、東魏は北斉、西魏は北周に取って代わり、北斉は北周に滅ぼされ、最後に残った北周は隋に滅ぼされます。私は予備校時代、南朝と同様、"東斉西周(とうせい/せいしゅう)"と無理から四字熟語に覚え、最後に"しゅう"が来てるから北朝の最後は北周と、強引に自分に言い聞かせてました。長安を都にしていた方が西魏・北周で、隋では長安は改名して"大興城(だいこうじょう)"と呼ぶことから最後に残るのは北周であると覚えることも良いですね。ちなみに東魏・北斉の都は鄴(ぎょう)といいますが、まずこの地を答えさせる問題はないと思います。

 魏晋南北朝時代の江南地方の文化、いわゆる六朝文化(りくちょうぶんか)を詳しく触れたかったのですが、これはまた別の機会で紹介したいと思います。ほか、郷挙里選にとって代わった官吏任用制度、九品中正は出題頻度が高い用語です。これはよく出ます。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。"鄴"(ぎょう)→"業におおざと"、"酈"道元(れきどうげん)→"麗におおざと"、賈思"勰"(かしきょう)→"へんは脅という字の上部分の力3つ、つくりは思"