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世界史の目

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ギャラリー

第189話


戦間期のドイツ社会主義・後編
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 ドイツ革命が勃発した1918年11月、政権を取り仕切ることになったドイツ社会民主党SPD)。臨時政府宰相として党首フリードリヒ=エーベルト(1871-1925。党首任1913-19)が就任し、ドイツ共和国樹立宣言1918.11.10。ドイツ共和政)を行い、翌11日には休戦協定(ドイツ休戦条約)がパリ北東のコンピエーニュの森で調印され、第一次世界大戦(1914-18)は終わった。

 共和政が開始された11月10日、ドイツ社会民主党は、独立社会民主党USPD)に協力を求めたことで、かつての社会民主党内の左右両派が集う連立政権が樹立された。しかし、急進的極左派で独立社会民主党に所属するスパルタクス団は、この政権の在り方を拒絶し、革命後全国各地に自主成立した、兵士や労働者からなる評議会・レーテを支持基盤・活動拠点に据えようとした。しかし、革命で政権を握ったのはあくまでも社会民主党であり、レーテも革命政権はドイツ社会民主党であるとしてこれを支持したため、社会主義革命政権を目論むスパルタクス団は重要な支持基盤を失い、革命の機会を逸した。またエーベルトは復員兵士を中心に結成した志願兵組織(フライコーア。ドイツ義勇軍)を使って共産主義者の武力活動の鎮圧を行った。このフライコーア結成によってエーベルト率いるドイツ社会民主党の向かう先、つまり社会主義革命を目標に行われる武力活動をつぶすことが明確に打ち出されることになった。

 こうした状況から1918年12月29日、連立政権内では左右両派の対立は当然のことながら避けられず、独立社会民主党は政権を離脱を表明した。さらに独立社会民主党はその後左右両派(つまり政府寄りか反政府寄りか)に分裂して、やがて衰退の方向へ向かった、同党に属していたエドゥアルト=ベルンシュタイン(1850-1932)、カール=カウツキー(1854-1938)らはその後社会民主党に戻った。
 そして、スパルタクス団を率いるカール=リープクネヒト(1871-1919)、ローザ=ルクセンブルク(l1871-1919)、フランツ=メーリング(1846-1919)、クララ=ツェトキン(1857-1933)は12月30日、ベルリンで大会が開催され、独立社会民主党からの離脱を表明すると同時に、新党「ドイツ共産党KPD)」の結党を発表した(党成立は1919.1.1。結党当初の名は"ドイツ共産党・スパルタクス団")。

 共和政となった議会は帝国議会から憲法制定議会(人民代理委員会)へと変わったが、スパルタクス団のローザ=ルクセンブルクは、現状の共産党に支持母体が弱いこともあり、国民議会選挙(国会選挙)が重要である主張していた(ローザは民主主義と革命双方の実現を目指していた。いわゆるルクセンブルギズムといわれるものである)。しかし共産党全体の見方としては暴力を用いてでも"革命"を重視することであり、国会選挙の不必要性を打ち出した。結局国会選挙の棄権が党内で可決され、武力クーデタで政権を倒し、労働者のための社会主義政権をおこすことが目標として定められた。

 独立社会民主党は連立政権を離れたが、これを拒否した独立社会民主党員がいた。ベルリンで警察を取り仕切っていたエミル=アイヒホルン(1863-1925)という人物である。政権内における極左派の人物で、自身が編成した軍隊も抱えており、極左派、とりわけ極左勢力の労働者や社会主義者にとっては大きな拠り所であった。しかしエーベルトの右派政権を取り仕切る社会民主党にとって、極左派で革命的なアイヒホルンは要注意人物であったため、独立社会民主党離脱にともない、アイヒホルンは社会民主党から解任通告を受けた(1919.1.4)。これによって極左勢力は翌5日から首都ベルリンを中心に、20万人規模に及ぶデモを行った(1919.1.51919年の蜂起)。

 独立社会民主党やドイツ共産党はこのデモを支持し、社会民主党政権の批判を行った。また新聞局が占拠されたり、社会民主党支持者が襲われる等武力による過激さが増大化した。アイヒホルンも解任は不当として警察庁に居座った。ドイツ共産党・スパルタクス団のカール=リープクネヒトは左派政権樹立の革命にむけて同1919年1月8日に独立社会民主党とともに革命委員会(Revolution Committee)を設立して、全国のレーテにゼネストを呼び掛けてエーベルト政権を脅かした。
 革命委員会が呼び掛けたゼネストは約50万人規模で行われたが、肝心の独立社会民主党とドイツ共産党・スパルタクス団との間では、当然のことながら左右両派の対立が依然としてあったことで、意見がまとまらずにいたため、レーテを構成する兵士や労働者たちは業を煮やしてデモから撤退したり、エーベルト政権支持に戻るなどして、独立社会民主党とドイツ共産党・スパルタクス団との関係は破綻、革命委員会は崩壊した。しかしあくまでもエーベルト政権の転覆を目的としたドイツ共産党・スパルタクス団は依然としてデモ・ゼネスト・武力闘争を強行する極左勢力を支持した。

 今回の事件で、ドイツ共産党・スパルタクス団の暴力革命による社会主義政権樹立という恐怖を、エーベルト政権は完全払拭しなければならなかった。政情安定と社会民主党の威信回復のため、エーベルト政権は極左勢力を壊滅することを決め、政敵をドイツ共産党・スパルタクス団に集中し、1919年の蜂起の名称を"スパルタクス蜂起"と呼んでフライコーアの召集を行い、1月8日、エーベルトは革命派の徹底鎮圧を命令した。

 1月8日に始まったスパルタクス蜂起の鎮圧は1週間ほど続いた。デモやゼネストは武力で鎮圧され、占拠地は次々と開放されていった。多くの抵抗する共産党員や労働者が降伏・逮捕されるか、無抵抗・無惨に殺されていき、各地のレーテも衰退していった。それだけでなく蜂起に参加していない市民も巻き添えに遭い、多くの命が失われた。そして15日、蜂起を主導したスパルタクス団のカール=リープクネヒトと、もともとは蜂起に反対していたローザ=ルクセンブルクが、ベルリンでフライコーアによって逮捕された。

 1月15日、カールとローザは、ベルリンのエデンホテルに連行され、そこで何時間にもわたって激しい拷問・尋問を受けた。そしてカール=リープクネヒトは後頭部を撃ち抜かれて処刑され、身元不明者の遺体と共に死体安置場に放置され、ローザ=ルクセンブルクはライフルのストック(床尾。銃床をいう)で撲殺され、付近の運河に投げ込まれた。これによってドイツ共産党・スパルタクス団は"ドイツ共産党"の呼称が使用され、スパルタクス団としての活動は停止した。ドイツ共産党としても政府からは危険分子として武力活動を抑えられ、路線修正を余儀なくされた。フランツ=メーリングは2人の虐殺から2週間後、失意の内に没した。

 極左勢力の主導者の2人が虐殺されたことで、スパルタクス蜂起鎮圧は終了した。国内で数千人の犠牲者が出たと言われている。1月19日、国会選挙が行われたが、共産党の国会選挙排斥運動も虚しく、社会安定を切に願う多くの国民は投票に向かい、結果80%以上の高投票率を記録した。2月6日に開催される議会については、ベルリンがまだ混乱状態であったため、かつて社会民主党がエルフルト綱領を採択したテューリンゲン州(現・州都エルフルト)が選ばれ、当時州都であったヴァイマル(ワイマール)にある国民劇場で行われることになった。この1919年2月6日に開催された議会をヴァイマル国民議会と呼ぶ。

 このヴァイマル議会で、改めて共和政の仕切り直しが行われ、エーベルトが共和国初代大統領に指名され(エーベルト大統領就任。任1919-25)、8月には当時最も民主的憲法とされたヴァイマル憲法の制定が行われた(1919.8ヴァイマル憲法制定)。行政では社会民主党と中央党が中心となる連立政権(ヴァイマル連合)による共和政が敷かれることになった(ヴァイマル共和政)。こうしてドイツ共和国はヴァイマル共和国(1919-33)として生まれ変わったが、大戦の敗戦国としてヴェルサイユ条約(1919.6.28調印。1920.1.20発効)を背負わなければならず、前途多難な幕開けであった。

 弱体化していたドイツ共産党は、左右分裂した独立社会民主党の左派勢力を合流させて党員を7倍に膨らませ(35万)、勢力を維持した。そして、第二インターナショナルに代わるコミンテルン(1919-43。共産主義インターナショナル。第三インターナショナル)の加盟を果たした(1920.10)。スパルタクス団としては解散したがカール=リープクネヒトやローザ=ルクセンブルクと共にリーダーシップを発揮していたパウル=レヴィ(1883-1930)がその後共産党を主導した。レヴィはカール=リープクネヒトの暴力革命論ではなく、ローザ=ルクセンブルクの主張するルクセンブルギズム、つまり武力ではなく議会を通じた、民主的な革命による社会主義実現を主張する人物であった。これによりヴァイマル共和国の議会参加は果たされたが、党内では当時のスパルタクス蜂起の勢いを再現しようと奮起する党員も多く、スパルタクス団過激派との対立も発生を余儀なくされ、コミンテルンの要求する政党活動(暴力革命路線を要求した)にも受け入れられなかったため、レヴィは党内をまとめあげることができず、主導者を辞退した。この結果ドイツ共産党ではスパルタクス団が行った暴力革命路線による活動が復帰した。
 この経緯にはハンガリー革命(1918-19。オーストリアからの独立を実現させるべく、ロシア革命に倣っておこされた革命)をおこし、短命ながらハンガリー=ソヴィエト共和国(ハンガリー共和国。1918.11樹立)を樹立した共産主義革命家ベラ=クン(1886-1937。クン=ベーラ。共和国首相任1919.3-19.8)が、コミンテルンの要請で、ドイツ共産党指導者として派遣されたことも大きい。

 ヴェルサイユ体制に包まれたヴァイマル共和政はその後不安定な情勢を解決することができず、国民も政権不支持に動く傾向となった。これに乗じてスパルタクス団の蜂起を忘れない精神でもって、革命の機会を常に探る共産党は労働者など無産階級を中心に支持を着々と増やしていった。1930年の国会選挙では第三党にまで成長した。しかし、第一党は社会民主党だったが、第二党に躍り出たのは、1920年以降着実に勢力を伸ばしている国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチス(ナチ党)であった。

 その後ヴァイマル共和国を倒してその後のドイツを救ったのは、アドルフ=ヒトラー(1889-1945)の率いるナチスのファシズム政権であった(ヒトラー政権。首相任1933-45。総統任1934-45)。一方の共産党はヒトラー内閣が成立して最初の国会選挙(1933.3)で、国会議事堂放火事件の疑いがかけられ党の有力者であったエルンスト=テールマン(任1925-33)は逮捕され、拷問・尋問に耐えつつも独房に監禁されて実に11年目の1944年、銃殺され即座に遺体は灰にされた。同国会選挙では第三党は維持したが、得た81議席はヒトラー政権では認められず、、共産党は非合法政党として全81議席は取り消され、党員は逮捕・亡命を余儀なくされた。スパルタクス団結成に加わったとされるクララ=ツェトキンはソ連に亡命し、祖国を憂いながら、失意の内にモスクワで没した。

 選挙後開かれた議会で、全権委任法1933.3)が施行され、議会そのものの権力がヒトラー政府にも委ねられたことをうけて、共産党は解散、革命はおろか再結党の夢は断たれた(ドイツ共産党解党)。第二次世界大戦(1939.9.3-1945.8.15)後、ドイツ共産党は、東ドイツドイツ民主共和国。1949-90)で社会主義統一党(SED)の結党でようやく生まれ変わることができたのだが(結党はソ連占領地区時代1946年で、東ドイツ成立より前)、皮肉にも戦間期に大いに政争を繰り広げ、圧倒的に打ち負かされた相手、ドイツ社会民主党との合同政党として誕生したのであった。しかし、その旧社会民主党勢力は徐々に旧共産党勢力に吸収されていき、スパルタクス団時代とは形態・思想・行動が全く違えども、後継政党による共産主義政権としてようやくながら実現するのであった。


 どうしてもこの時代の共産主義政党がメインになると、思想や登場人物の主張が難解で、非常に堅苦しいお話になってしまいます。いちおう近代におけるドイツ政党の話としてお読みいただけたらと思いますが、どうでしたでしょうか?

 後編はドイツ共産党が結党されてから解党されるまでのお話となりました。スパルタクス団が蜂起した1919年が今回のアクセントとなりますが、そこで悲劇を迎えたローザ=ルクセンブルクは、マルクス経済学理論書『資本蓄積論』を著すなど、これまで経済評論家としても活動していた人物です。ポーランド出身でユダヤ系材木商の末娘として出生、中学生の頃から社会主義思想に目覚め、23歳のときにポーランドで"ポーランド社会民主党"を結成しています。"赤のローザ"として有名で、生涯において何度も逮捕・投獄されたことでも知られます。
 そのローザ=ルクセンブルクは、カール=マルクス(1818-83)やウラディミル=レーニン(1870-1924)、はたまた毛沢東(1893-1976)ほどのアクの強さはないものの、独自の思想(本編にも登場したルクセンブルギズム)を持った女性として、共産主義主導者の中でも特徴的にとらえられており、彼女の思想を後継する人も多くいました。

 さて、受験世界史における学習ポイントを見てまいりましょう。メインのスパルタクス団ですが、ドイツ社会民主党左派がつくった独立社会民主党の中で最も急進的な左派組織で、彼らがのちに政党化されたものがドイツ共産党です。過激な極左派、反戦、革命による社会主義政権の樹立もキーワードになるでしょう。また所属者ですが、カール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクの2名だけ覚えておけばよろしいかと思います。
 そして蜂起した1919年でこの2名は捕らえられて虐殺されます。この蜂起も知っておきましょう。その後ドイツ社会民主党によるヴァイマル共和政がしかれます。別に首都がヴァイマルにあったわけでなく、依然としてベルリンです。憲法や法律、綱領、議会、政体などは、行われたご当地の名を頭に付けるのがドイツのならわしです(例、フランクフルト国民議会エルフルト綱領、ヴァイマル憲法、ボン基本法)。さて、ヴァイマル共和政となったドイツですが、初代大統領はエーベルト、絶対覚えましょう。エーベルトの次はパウル=ヒンデンブルク(任1925-34。政党は無所属)です。これも大事。

 ドイツ共産党となってまもない頃にハンガリー革命の首謀者ベラ=クンがコミンテルンの要請でドイツに派遣された内容も本編でご紹介しましたが、クンがドイツに来た時はすでにハンガリー=ソヴィエト共和国は崩れ去り、王政にもどっていました。結局ハンガリーの共和政は5ヶ月余しかもたず、軍人ホルティ=ミクロシュ(1868-1957)により壊滅させられ王政に戻ります。ベラ=クンは旧課程には名前が載りましたが現在は載っていません。ハンガリー革命、ハンガリー共和国、ホルティの名は載っています。

 最後に、ドイツ共産党は後継者である社会主義統一党として念願の政権樹立を達成するのですが、東ドイツはこの政党の一党独裁体制でした。一党独裁というのはローザ=ルクセンブルクが批判した思想ですので、スパルタクス団から社会主義統一党へ正統な後継というのも少し疑問です。現代史ですが、ザール出身のドイツ共産党員で、その後ナチスに捕まって10年間投獄され、ナチス=ドイツ敗戦後釈放、東ドイツ成立後、社会主義統一党に入って、1976年に国家元首(国家評議会議長。第3代。任1976-1989.10.18)となり、東ドイツに独裁体制を敷きます。しかし1989年6月に起こった東欧革命で東欧の社会主義圏が次々に消滅していくと、元首も10月に辞任、18年の独裁が終わります。そして翌月にベルリンの壁が壊されていき、翌1990年8月にドイツ統一となるわけです。この元首はエーリッヒ=ホーネッカー(1912-94)と呼ばれる人物で、用語集では"ホネカー退陣"として載っています。チェックしておきましょう。