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世界史の目

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ギャラリー

第193話


(しん)

その1 西晋の中国統一

 中国三国時代(220-280)。三国の(ぎ。220-265)の武将であり、数々の軍功をあげた有力な権臣・司馬懿(しばい。司馬仲達。ちゅうたつ。179-251)は、249年クーデタをおこし、魏の皇族を抑えて首都洛陽(らくよう)を制圧した。魏の政権を掌握した司馬懿だったが、251年に病没、息子の司馬師(しばし。208-255)が実権を引き継いだ。255年、司馬師が没するとその弟である司馬昭(しばしょう。211-265)が家督を継承し、司馬一族の権威を守った。

 260年、魏の元帝(げんてい。曹奐。そうかん。帝位260-265)の治世となった。263年、司馬昭には元帝に命じられて、(しょく。蜀漢。しょくかん。221-263)の征討に乗りだし、同年蜀を滅ぼした(蜀滅亡263)。この軍功によって、司馬昭は翌264年、晋王(しんおう)を授爵した。しかし司馬昭は265年に病没したため、晋王の爵位は長男の司馬炎(しばえん。236-290)に譲られることとなった。

 265年に晋王となった司馬炎は、王爵だけでは飽きたらず、皇帝の座を狙った。彼は多くの有能な腹心と共謀し、元帝に禅譲を迫った。当時20歳の元帝はこれを受け入れ、同年に退位した。曹操(そうそう。155-220)によって基礎が築かれ、子の曹丕(そうひ。187-226。文帝。ぶんてい。帝位220-226)によっておこされた魏の華北支配は、全土統一することなく、わずか45年で終わった(魏滅亡265)。
 司馬炎洛陽を都に、(しん)を建国した。この国家名は歴史的に複数存在するため、便宜上、西晋の呼称が使われる(せいしん。265-316)。 

 西晋を建国した司馬炎は初代皇帝・武帝(ぶてい。帝位265-290)として即位した。一族に王位を与えて各郡に封じ、律令制度を導入した(268)。そして国力は減退しながらも三国の中で最後まで残っていた江南の(ご。222-280)の討伐に乗り出して、280年、遂に首都建業(けんぎょう。現・南京)を陥落させ、呉を滅ぼした(呉滅亡280)。これにより、武帝は中国統一を達成(西晋の中国統一280)、220年に統一王朝・後漢(ごかん。25-220)が滅んでから60年間、常に群雄割拠の状態だった中国が、遂に一国家として統一したのであった。

 天下統一を成し遂げた武帝は、魏の曹操が採用した軍屯民屯制屯田制の代表。辺境軍人の食糧自給のために設置する軍屯、小作農民による収穫の5~6割を徴収する民屯で構成)を、魏滅亡と共に廃止したが(266)、これに代わる土地制度・税制の改革に迫られていた。魏の時代には、軍屯民屯制の他に戸調式(こちょうしき)という、戸ごとに絹や綿といった現物税を課していたが、絹は2匹・綿(まわた)2斤であった。武帝はこの税制を受け継いで丁男(ていだん。成人に達した男性。律令に則った21~60歳の男性)のいる戸に絹3匹、綿3斤を課した。
 さらに武帝は戸調式をもっと有意義なものにするため、土地所有法も細部にわたって改められた。男子1人につき占田(せんでん)を70畝(ほ)、女子1人につき占田30畝、丁男には課田(かでん)を50畝、丁女(ていじょ)には課田20畝、官吏に対しては占田10~50頃(けい。1頃は約100畝)と土地所有の最高限度等を決めて、大土地所有の抑制をはかった。この土地制度を占田・課田法と呼び、後の均田制(きんでんせい)の前身となった。しかし実態はいまだ謎の部分が多い。

 国家安泰とみられた西晋であったが、武帝は国政に関心を示さなくなった。女子の婚姻を禁止してすべて皇帝の後宮に入れ、さらには滅ぼした呉の後宮から大量の女性を自身の後宮に入れるなど、女色へ耽溺する有様であった。さらに武帝は羊の引く車に乗り、羊が止まった場所にいる女性と遊楽に耽った。また宮女が皇帝を求める際には、羊が好物である塩を部屋の上がり口に盛りつけておく風習もできた(いわゆる"盛り塩"の由来とされているが諸説ある)。

 また皇太子の司馬衷(しばちゅう。259-306)も暗愚で、夫人は武帝の名臣である賈充(かじゅう。217-282)の娘、賈南風(かなんぷう。257-300)であり、彼女も残忍な性格だった。彼女は自身の地位を守るためなら平気で人殺しや詐欺を行った。武帝は次期皇帝の暗愚に憂い、政治文書の作成を司馬衷に命じたが、賈妃の謀略で頼める人物に代筆させてこれを切り抜けた。

 官制においても九品中正によって任用された高級官人への賄賂などがはびこり、皇族である諸国の王侯においても皇帝の無為無策に呆れ果てた。また一方で干ばつなど国家的天災も相次ぎ国民は窮状に瀕し、しかも北方から匈奴(きょうど。南匈奴)や鮮卑(せんぴ)など、後の五胡(ごこ)とよばれる民族の侵入に悩ませられていた。中国統一を成し遂げたものの、乱世の時代にあって人口はさほど伸びず、戸調式や占田課田も順調とはいかずに、重い負担を逃れて逃亡したり、有力貴族の家に小作人(佃客。でんかく)として逃げ込む農民が増加し、財政的にも頭打ちであった。結局侵入する五胡の内地定住に対して西晋は黙認する状態で、彼らにも労働力供給、兵力補充、租税徴収を求めていったのである。

 こうした中、武帝が56歳で崩御(290)、子の司馬衷が恵帝(けいてい)として西晋2代目皇帝として即位した(位290-306)。賈妃は賈皇后(皇后位290-300)となった。恵帝はほとんど国政に関心を示さなかったため、賈皇后が武帝の皇后一族および支持者を一掃して実権を握った。この時、司馬一族の諸国王侯を利用したことにより、国家はさらなる混乱を迎えるのであった。 


 この時代はいろいろなアングルで過去にも紹介いたしましたが、司馬一族の晋国をメインに登場させたのは今回が初めてです。毎度のことながら、中国史は長くなりますのでシリーズ物にさせていただきます。今回は西晋が誕生して統一するまでをご紹介しました。魏晋南北朝時代(220-589)のまっただ中、西晋の国家統一という偉業を成し遂げた司馬炎の生涯が今回の中心になりました。

 ただ私が受験生の時、司馬炎(武帝)は三国時代を終わらせて天下を統一したヒーロー、しかも名前に"炎"がつくぐらいなので非常に勇敢でかっこいいというイメージがあったのですが、本編にあったように統一後の内容はあんまりヒーローと呼べるような姿ではないです。せいぜい均田制の前身である占田・課田政策ぐらいでしょうか。

 さて、今回の受験世界史の学習ポイントです。司馬炎の西晋の建国年と統一年はそれぞれ265年、280年です。先に言ってしまいますが滅亡年である316年と合わせて、"向こう(265やれ(280一路西進(316。西進→西晋のダジャレ)、"で私は予備校時代に覚えました。あと、首都洛陽も重要です。先程の占田・課田や、税制の戸調式もおさえる必要があります。かつて北魏(ほくぎ。386-534。Vol.164,165)を扱った時に魏晋南北朝時代の土地制度を表にまとめておきましたので(詳細はこちら)、チェックしておきましょう。

 武帝が没し、暗君恵帝と恐ろしき賈皇后の時代に突入しました。司馬炎が各地に封じた一族である王侯たちの運命が大きく左右される時が来ました。そうです、あの壮絶な内乱の勃発です。次回に続きます。