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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第197話


運命の来臨

 メキシコと中央アメリカ一帯では、B.C.3千年紀末にトウモロコシ栽培を主に集約農耕が成立して以降、この地域独特の高度な都市文明および農耕文化が興亡を繰り返し、やがて統一宗教を唱える中心地、いわゆる祭祀センターを持つ文化が形成された。これら諸文明・文化を総称してメソアメリカと呼ばれた。詳しくは、現在のメキシコの中央部および南東部、そして中米の北西部が中心である。
 B.C.2千年紀、メキシコ湾岸地方に、メソアメリカ最初の文明であるオルメカ文明(B.C.1200年?-B.C.500?)が興った。中米初の都市文明である。"オルメカ"とはナワトル語で"ゴムの国の人"を意味する。祭祀センターとなったベラクルス州のサン=ロレンソやタバスコ州ラ=ベンタでは、巨石人頭像(オルメカ・ヘッド)やヒスイの加工製品が残され、ジャガーを神聖視する宗教で彩られた。数字や絵文字も残したとも言われている

 紀元前後、現在のメキシコシティから北東へ約50kmの地点にはテオティワカン文明(B.C.150頃-A.D.750頃)が興った。"古代都市テオティワカン"として世界遺産登録(1987登録)されたこの都市文明は、盛時(200頃-550頃)に面積20平方キロメートルの領域を誇り、人口は10万に達したとされている。テオティワカンとは"神々の都市"を意味し、人類創造神および農耕・平和・文化を民に授ける神ケツアルコアトル("羽根のある蛇"の意)、天水(雨)の神トラロック("大地に座るもの"の意)など、その後のメソアメリカ文明の主神を張る神々がこの文明で登場する。交易品である土器や石造品がメソアメリカ一帯に伝播し、当時におけるメソアメリカの中心的存在であったとされている。
 テオティワカン文明で特筆すべき所は、ほぼ南北5キロに走る大通り("死者の大通り")に沿って建造された太陽のピラミッド(【外部リンクから引用】)や月のピラミッド(【外部リンクから引用】)をはじめとする建造物であり、これら以外にも宮殿、神殿、その他居住物などが計画的に設置され、また下水道などの社会インフラも整備されるなど極めて高度な文明であった。しかし干ばつなどの自然災害で機能が崩れ、やがて衰退していった。
 テオティワカン崩壊後のメキシコ中央高原には"優れた工人"を意味する名のトルテカ族による文明(トルテカ文明。6C?/7C?-10C?/12C?)がおこった。現メキシコ・イダルゴ州にある遺跡"トゥーラ=シココティトラン"で知られるが、11世紀にあったとされる"トルテカ帝国"の伝説的要素など、謎の部分も多い。10世紀以降はこの地にチチメカ族が北方から侵入、勢力を拡大していった。

 メキシコ南東部から現在のグアテマラやベリーズに至るユカタン半島一帯には、マヤ文明が栄えた(B.C.3C-A.D.16C)。"マヤの都市国家"とも呼ばれるその名が示すとおり、統一国家を持たず、首長制の機能を持つ多数の都市国家が興亡を繰り返した。水中鍾乳洞などの泉(セノーテ)の水の恵みで大いに発展し、マヤ文字と呼ばれる独特の象形文字を発明、正確な天文暦を作成するが、金属器(青銅器・鉄器)を持たず、家畜の風習がなかったのも特徴的である。都市パレンケ(メキシコ南東。1987世界遺産登録)をはじめ、ユカタン半島北部にある都市ウシュマル(1996世界遺産登録)・都市マヤパン・都市チチェン=イッツァ(1988世界遺産登録)などの建設、"ティカル"と呼ばれた階段ピラミッド(マヤの神殿。現グアテマラ。1979世界遺産登録。【外部リンクから引用】)の建造、ゼロの概念と二十進法の発展などがあり、また軍事・貿易・諸産業も高度・巧妙であったとされ、16世紀まで続いた。

 14世紀頃から、チチメカ族の系統を引き、ナワトル語(現在メキシコでも使われている)を話すアステカ族(彼らは"メシカ"を自称。)がメキシコ中央高原にでて、彼らが信仰する守護神のウィチロポチトリ神(太陽神や軍神、または狩りの神として信仰された。ナワトル語で"ハチドリの左足"の意)の予言に導かれて、メキシコ盆地(メキシコ中部。メヒコ州東部)にあるテスココ湖畔に定住した。

アステカ族はウィチロポチトリ神の予言に、蛇をくわえた鷲がサボテンに止まっている場所に町を建設し、ここを根城にせよという信託を受けた。1325年(1345説もあり)、アステカ族はテスココ湖中に浮かぶ小島に目を向けると、実をたっぷりとつけ、石から生えていたサボテンに蛇をくわえた鷲が止まっているのを目撃した("蛇をくわえた"には諸説あり)。テスココ湖は南北にのびる大湖であったが、彼らの目撃した小島は同湖の南北の中心地点にあった(東西ではやや西岸寄り)。アステカ族は神の予言に導かれるように、湖上に浮かぶ島をテノチティトラン(ナワトル語で"石のように固いサボテン"の意)と名付け、アステカ族の首都として建設した。これがアステカ文明の始まりであり(1325?-1521)、このサボテンにとまった、蛇をくわえた鷲の光景はのちのメキシコ合衆国の国旗および国章となる。

 1375年にアステカは"トラトアニ"という王の称号を用い、アカマピチトリ王(位1375-95)の即位でもって王国の形態をとり、4代目イツコアトル王(位1427?/28?-40)の頃に"アステカ帝国アステカ王国)"を名乗った。この時、他の有力都市テスココ(東岸)とトラコパン(西岸)がアステカの首都テノチティトランと同盟を結んだ(三都市同盟)。

 第6代皇帝アシャヤカトル王(位1469-81)の時、アステカのシンボルとなる「暦石(太陽の石。カレンダー・ストーン)」と言われる石を作った(【外部リンクから引用】)。太陽がモチーフになっており、石の中央とその周囲に合計5つの太陽が描かれている。中央の太陽は現在の太陽で、周囲に描かれた4つの太陽は過去の太陽を表し、過去のそれぞれの太陽の活動期があり、それら太陽のもとで世界を形成していたとされる神話をうんだ。この"五つの太陽"の伝説では、アステカの太陽神および平和神であるケツアルコアトル神や戦争の神テスカトリポカ神("煙を吐く鏡"の意。太陽神としても信仰された)が登場する。神話によると、アステカのケツアルコアトル神は白い顔をした男神で、テスカトリポカ神との対決で負け、東に向けてアステカを去ることになった。去り際にケツアルコアトル神は、アステカ暦において"一の葦の年(西暦1519年に相当する)"と言われた年に必ずアステカに戻ると約束した。

 この暦石をはじめとする、メソアメリカ文明におけるさまざまな社会・文化・産業は、オルメカ文明に始まり、テオティワカン文明やトルテカ文明、そしてマヤ文明を経て継承され、アステカにおいて究極を実現できたものであった。宗教儀式においても、アステカは暦学が発達していたため、太陽が消滅するとされる時期が迫ると、それを避けるために人身御供を行い、太陽の平穏化を祈った。生贄となる人たちは名誉と思い、すすんで自身の心臓をえぐり出すことを望んだという。人身御供においては、平和の神ケツアルコアトル神は人類創造の神でもあるだけに人間の生贄を反対したが、彼を追放させた戦争の神テスカトリポカ神や、アステカ族の軍神であるウィチロポチトリ神は生贄には積極的であった。よって、当時は人身御供に反対していたケツアルコアトル神が東方に去り、アステカには不在の状態であったため、人身御供は日常的に行われた。
 また軍事では、イーグル軍団(羽根を付け、鷲を模した冠をかぶって戦闘)"やジャガー軍団(文字通りジャガー姿で戦う)"などといった戦士団で構成され、高い技術と戦闘能力でもって周辺国・隣接国に脅威を与えた。このため、周囲は反アステカを掲げる勢力へ変わっていった。

 第8代皇帝アウィツォトル王(位1486-1502)の時にテスココ湖の大洪水があったが、これを機に首都テノチティトランは大規模に再建された。アウィツォトル王の時がアステカ帝国の全盛期とされているが、その盛時は王の死と共に終わりを告げ、次の第9代皇帝モクステスマ2世(モンテスマ2世。位1502-20)が即位した。このモクステスマ2世の治世において、アステカ帝国の運命の瞬間が訪れるのであった。つまり"一の葦の年"である1519年、太陽の神であり平和の神であるケツアルコアトル神が復活する年を迎えるのである。

 1519年、ケツアルコアトル神が去った方向である東方において、白い顔をした一行があらわれ、アステカの領域に足を踏み入れた。アステカ族はケツアルコアトル神の化身であると確信し、彼らを迎え入れた。同年の11月8日、一行はテノチティトランに招待され、モクステスマ2世と会見した。
 モクステスマ2世はさっそく一行をテスカトリポカ神やウィチロポチトリ神の神殿に案内させた。一行は血まみれの祭壇に生贄として捧げられた心臓をまざまざと見せつけられた。人身御供に反対するケツアルコアトル神が去って以降は、テスカトリポカ神が支配するアステカの現状を見てもらう必要があったのである。

 アステカの帝政は神権政治が主だったため、皇帝即位においても神から譲り受けた帝位を戴き、また神が再びあらわれた際には帝位を返上するという考え方であった。ケツアルコアトル神の復活によって、モクステスマ2世は一行に対して帝位返上を行い、血縁のあるクィトラワク(1476?-1520)を次期皇帝として推薦した。こうして、約1週間におよぶ一行への歓待が終わった。

 しかしその白い顔の一行は、アステカの神々は悪魔であると侮辱、一行が信仰するキリスト教を主張したのである。そう、ケツアルコアトル神の化身ではなく、アメリカ大陸の征服を目的にやってきたスペイン人コンキスタドール征服者)、エルナン=コルテス(1485-1547)の一行であった。コルテスは上陸前にアステカの隣接する反アステカ勢力を味方に付けており、兵力・武器・軍船すべて準備は整っていた。
 さらには、この一行がアステカ上陸を果たした時、この状況を冷静に見たアステカ国民がコンキスタドールの侵略に違いないとモクステスマ2世に説得したにもかかわらず受け入れられなかったことで、皇帝への反感が高まっていた。また人身御供になることが名誉だと思っていた人たちからは、彼らの入城でこの儀式そのものの存亡危機に陥るため、同様に彼らを歓待する皇帝への反感が高まった。同時にモクステスマ2世の退位の呼び声も高まり、甥のクィトラワクへ譲位する動きが出てきた。

 ようやく彼らを征服者だと知ったモクステスマ2世は帝位返上を撤回して、翌1520年コルテス軍に対して攻撃を開始した。しかしすでに国民に嫌われていたモクステスマ2世は、コルテスを迎え撃つ前に、国民をなだめることができなかったのが原因で、アステカ国民の投げた飛礫(つぶて)で頭を撃たれ、1520年6月に没した(モクステスマ2世死去)。結局クィトラワクが第10代皇帝として即位したが(位1520)、この時コンキスタドールの一行によって持ち込まれた天然痘が蔓延し、クィトラワクも伝染、在位3ヶ月足らずで没した。このためモクステスマ2世の従兄弟にあたるクアウテモック(1495?-1525)が第11代皇帝として即位した(位1520-21)。

 好機と判断したコルテスは1521年4月、反アステカ勢力と連合を組み、数万に及ぶ軍兵を引き連れて攻撃を開始、同月に首都テノチティトランを包囲した。激しい攻防の末、8月にクアウテモックは捕らえられ、廃位させられ、アステカ帝国は滅亡に至った(アステカ帝国滅亡1521.8)。コルテスはアステカの財宝を探るべく、潔く死を望むクアウテモックをあえて殺さず、彼に対して下半身を火であぶるなどの激しい拷問を行った。しかし彼はそれでも最後まで口を割らず、アステカ皇帝として国家と民を守ろうとした。しかし1525年2月、クアウテモックはコルテスによって処刑され、アステカ国民の誇りであった湖上の城塞都市テノチティトランは無惨にも破壊されてしまった。

 スペインの植民地となったメソアメリカは、この後、厳しい搾取・収奪が行われていった。アステカを征服したスペイン人はこの地を含む北米・太平洋域・カリブ海域一帯、さらにはフィリピンなどアジアの一部をスペイン王国の副王領・ヌエバ=エスパーニャとして統治することになり(1535-1821。当時の日本でも"ノビスパン"の名称で知られた)、テスココ湖は埋め立てられ、破壊されたテノチティトランの跡地では、副王領の首都シウダー=デ=メヒコが建設された。この都市はその後発展を遂げ、現在のメキシコ合衆国の首都・メキシコシティとなるのである。 


 古代アメリカ大陸文明関連は「Vol.61 アンデスの黎明」以来となりました。今回は人よりも神々が目立ったようなお話で進みましたが、やはり最後は人が歴史を作りましたね。

 本編ではアステカの暦学が登場しました。"太陽の暦石"による"五つの太陽"の伝説は非常に関心が寄せられますが、ちなみにメソアメリカ文明は太陽の存在に重きを置いたことから暦学や天文学が発展していました。今回のメインであるアステカだけでなく、マヤ文明においても5つの太陽がそれぞれ活動期をつくったという暦学があって、2万年以上のカレンダーが作られていたそうです、ちなみに5つ目の太陽の活動期が終わる、つまりカレンダーの最後の日として刻まれたのが、2012年12月21日(金)だとされており、この日を最後にカレンダーが終わっていることから、いわゆる人類滅亡の予言として連想されるようになるわけですね。ちなみにこの日は冬至にあたり、一年で太陽の出ている時間が短いというのも興味深いです。

 さて、受験世界史における今回の学習ポイントを見てまいりましょう。メソアメリカ文明全体としては、今回登場したオルメカ文明、テオティワカン文明、マヤ文明、トルテカ文明、アステカ文明は用語集に登場しますので、しっかりおさえておきたいところです。オルメカ文明のインパクトある巨大人面の遺跡(【外部リンクから引用】)は、教科書や資料集にも登場しますので、目にしたことがあるでしょう。これら文明の供給源はトウモロコシ、ジャガイモ、トマト、タバコなどの栽培で、四大文明のように大河流域でないのが特徴です。これはアンデスの諸文明においても同様ですね。
 まずマヤ文明ですが、場所であるユカタン半島の名前は覚えましょう。あとはマヤ文字、階段ピラミッド、暦学の発展などはマヤ文明のキーワードとなります。ちなみにマヤはその昔(約6550万年前)に小惑星が衝突してクレーターができ(恐竜絶滅の原因説の1つ)、これが地底湖となって天然泉(セノーテ)として地下水がわき出ており、これが文明繁栄につながったとされています。

 そしてメインのアステカ文明ですが、神々の名前や登場した皇帝名は覚えなくてもよろしいです(最後の王のクアウテモックなどは、現在のメキシコで国民的英雄の扱いを受けています)。覚えるのは、現メキシコシティの前身でもあり、アステカの首都だったテノチティトラン、アステカを征服した征服者コルテスの名前でよろしいかと思います。「Vol.61」の学習ポイントでは"メキシコ・アステカ・コルテス"と四文字つながり、アンデス関連では"インカ・ペルー・ピサロ"と三文字つながりでそれぞれ紹介しました。
 余裕があればテスココ湖上に建設されたこと、アステカ族を含む北方からの侵略勢力の総称であるチチメカ族も知っておくと便利です。

 最後に余談ですが、"アステカの祭壇"という検索語があるそうで、「絶対検索してはいけない言葉」だそうです。人身御供として臓器や生き血を捧げたという話が、現代の都市伝説的や心霊物に発展しているそうですね。世界史のロマンがこんな形で知られるのも少し寂しい気がしますが.....

【外部リンク】・・・wikipediaより