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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第205話


ペテロ、パウロ、そしてアウグスティヌス

 ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の属州ユダヤ(6-135)。ナザレのイエス(B.C.7/B.C.4?-A.D.28?/A.D.30?)は、彼を"救世主(メシア)"と認めないパリサイ派などのユダヤ教徒らによってメシアを僭称する神への冒瀆者・反逆者とされ、ユダヤ属州総督ポンティウス=ピラトゥス(任A.D.26-36)に告発された。結果、イエスはイェルサレム郊外のゴルゴタの丘で、十字架に磔(はりつけ)となって刑死したが、三日後にイエスが弟子の前に復活し、イエスが神の子キリストであるという信仰が生まれた。使徒による布教が行われ、イェルサレムに最初の教会が成立して以降、2世紀半ば頃(1世紀終わり頃?)までのキリスト教を原始キリスト教と呼ぶ(期間は諸説あり)。

 イエスの十二使徒の第一、ペテロ(?-A.D.64?)はガリラヤ地方(イスラエル北部)の出身で、本名シモンといい、"ペテロ"はイエスに付けられた渾名であった(ギリシア語で"岩"を意味する)。イエスが捕らえられ、十字架による磔刑に処される間際、イエスがペテロに言った言葉があった。
 "よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。"とイエスが言うと、
 "たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。"と言い、弟子たちも同様のことを言った。その後大祭司によるイエスの裁判で、ペテロは大祭司の中庭で、イエスの裁判の成り行きを見届けるために、下役たちと一緒に座っていた。イエスの処刑が決まったとき、大祭司の女中のひとりが下役になりすまして中庭で座っているペテロに対し、
 "あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった。"と言ったが、ペテロは皆の前でそれを打ち消し、"あなたが何を言っているのか、わからない。"と言って入口の方に出て行った。すると別の女中がペテロを見て、
 "この人はナザレのイエスと一緒だった"と言ったが、ペテロは再びそれを打ち消して"そんな人は知らない"と誓って言った。
すると周囲も、"確かにあなたもイエスの仲間だ。言葉遣いであなたのことがわかる。"といって責めたが、ペテロは"その人のことは誰も知らない。"と激しく誓って述べた。この直後すぐ、鶏が鳴いたので、ペテロはイエスの言葉、"今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。"を思い出し、外に出て激しく泣いたという。『新約聖書』の「マタイによる福音書・第26章」の一節であり(対話部分は同章より引用)、死をも怖れないペテロがイエス復活の証人として、揺るぎない使徒として生涯、キリスト教の布教に捧げ、、イェルサレムに教会を建設し、この地を拠点に伝道を始めた。ペテロを中心に使徒たちは福音(神の国の到来、イエスの救いの言葉など)を伝えるためユダヤ地方などパレスチナ、古代ギリシア、小アジアなど各地を巡回し、各地にキリスト教信者の共同体である教会がつくられていった。のちにローマ帝国のテオドシウス帝(大帝テオドシウス1世。位379-395)が380年にキリスト教を国教化するが、この年までに建てられた教会を初代教会という。

 ペテロらの尽力でキリスト教の伝道が広まる中で、パリサイ派のユダヤ教徒サウロ(?-A.D.64?)は、ダマスコ(ダマスクス)のキリスト教徒を見つけ次第、男女の別なく縛り上げて、イェルサレムに連行するため、34年頃のある曇天の日、ダマスコへ向かった。その途中、天からサウロに向けて光が射し込んだ。そして光の中から、
 "サウロ、サウロよ。なぜ私を迫害するのですか。"と、サウロへの呼び声が聞こえた。
 "主よ、あなたはどなたですか。"とサウロが尋ねると、
 "私は、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町に入って行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう。"と返答があった。声の主はイエスであった。
 直後、サウロは光で目が見えなくなり、同行者たちに今の状況を尋ねたが、光が射し込む間、同行者たちは何も言えずに立っていた状態で、声は聞こえたが、声の主は見えなかったという。失明したサウロは茫然としながらも、同行者たちに手を引かれてダマスコに向かった。三日間、何も見えず、何も食べられず、飲むこともできなくなった。

 ダマスコには、アナニヤというキリスト教徒がいた。ある日、アナニヤは幻の中に"アナニヤよ"と呼ぶ声を聞いた。声の主はイエスである。
イエスは"立って、’真っ直ぐ’という名の路地(直線通り)に行き、その路地にあるユダの家でサウロというタルソ(現トルコ中南部のタルスス。タルソス。ローマ帝国の属州キリキアの州都であった)の人を尋ねなさい。サウロは今祈っています。そこにアナニヤが入ってきて、手をサウロの上に置いて再び目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである。"と伝えた。アナニヤはサウロがイェルサレムでの行い、つまりキリスト教徒への迫害を行った酷い人物であると多くの仲間から聞いているため、イエスの言葉に理解を示さなかったが、直後にイエスは"あの人(=サウロ)は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、私の名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう。"とアナニヤに向かって発した。

 アナニヤはイエスに言われた通り、直線通りのユダの家に入り、そこでサウロの上に自身の手をおいて、"サウロよ、あなたが来る途中、現れた主(=イエス)は、あなたが再び目が見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです。"とサウロに話した。すると、たちまちサウロの目から鱗のようなものが落ちて、元通り目が見えるようになったという("目から鱗が落ちる"の語源)。そこで彼は立って洗礼を受け、食事を取って元気を取り戻し、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごし、すぐさま諸会堂でイエスのことを伝え、イエスこそ神の子であると説き始めた。サウロはこのイエスがキリストであることをダマスコのユダヤ人に説き伏せたという。サウロは回心してキリスト教徒パウロとなったのであった。

 パウロの改宗は34年頃の話と思われる。『新約聖書』の「使徒行伝・第9章」に記された内容で、"パウロの回心"として有名である(対話部分は同章から引用)。異邦人(ユダヤ人以外の民族)の伝道を重視したパウロは、イエスの福音はすべての人に無差別に伝えられたものだと古代ギリシア・ローマ一帯に伝道を始めた。パウロは、イエスの十字架での磔刑を、神の子として人間の身代わりとなって人間の罪を贖い、神への信仰によってのみ救いが得られると説いたのである。

 キリスト教は新興宗教として信者を増やしていったが、多神教を否定し、当時多数派のユダヤ教徒と対立を深めるだけでなく、"皇帝よりもキリスト"を礼拝していたことで、当初は治世に浸透しない教徒として忌み嫌われることも多かった。こうした中、64年7月のローマ大火が発生する。時のローマ皇帝は第5代皇帝・ネロ(帝位54-68)であった。ネロはローマ大火以後、被災地に"黄金宮(ドムス=アウレア)"と称された宮殿を建設したことから、宮殿の建設地確保のために、ネロが放火したとの疑いが出たことで、当時拡大していたキリスト教徒に責任を擦り付けて、彼らを火刑に処すなど大弾圧を行った。これがローマ帝国における最初のキリスト教徒への迫害であり、ペテロ、パウロもこの迫害で殉教したと伝えられている(ペテロ、パウロ殉教)。ペテロはイエスと同様の頭部が上になる十字架刑に相当しないと言い、自らの要望で頭部が下になる、逆さ十字架にかけられたとされている(この逆十字を"聖ペテロ十字"という)。

 ネロの迫害以後も、数度にわたってキリスト教徒への迫害が行われたが、3世紀半ばまではどれも長期にわたるものではなかった。このため、キリスト教は根絶されることなく維持され続け、信徒も増加し続けていった。教会などでの礼拝では、イエスの言葉や使徒の書簡などが読まれ、その教義も多くの人たちに知られていった。これらは、2世紀初めにかけて、ローマ帝国内で公用語として広く用いられたギリシア語のコイネーで書かれた『新約聖書』として成立し(キリスト教の正典として公認され、まとめられたのは397年のカルタゴ教会会議においてである)、ユダヤ教の『旧約聖書』とともにキリスト教の経典となった。

 そして、この聖書の解釈、正統な教義の論証が著述家たちによって為されていった。使徒による伝道時代以後でこうした著述家たちがキリスト教会によって認められ、自らも聖なる生活を送った。彼らが教父Church Fathers)と呼ばれた人たちである。教父は異教徒との対立や異端論争などで、キリスト教の真理を弁護する立場にあり、この弁護を行うためにギリシア哲学を取り入れ、教父哲学を生み出した。また皇帝に対して、キリスト教における弁論で証明、つまり弁証を専門とする教父を護教家(キリスト教弁証家。クリスチャン・アポロジスト)と呼び、ローマのユスティノス(100?-162?)はロゴス(古代ギリシア哲学における用語で、概念・意味・論理・定義・理性・思想・説明などをあらわすギリシア語。物事を論理的に考えて、真理を証明する)をキリスト教義に取り入れ、イエス=キリストをロゴスととらえた護教家の第一人者であった。他にもアレクサンドリア学派のクレメンス(150?-215?)やオリゲネス(182?-251)などがいた。彼らはギリシア語で著述活動を行い、ギリシア教父と呼ばれた。

 一方、ラテン語で著述活動を行った、ラテン教父もいる。2世紀に出たテルトゥリアヌス(160?-220?)がその先駆とされ、"殉教者の血は教会の種となる"の言葉を残している。その後、ローマ帝国ではコンスタンティヌス帝(大帝コンスタンティヌス1世。位306-337)のミラノ勅令(313)によってキリスト教が公認されると、4世紀後半にはローマ教皇に仕えて聖書のラテン語訳(ラテン語訳された聖書を"ウルガータ"という)を行ったアンティオキア教会の司祭ヒエロニムス(340?-420)や、キリスト教国教化の勅令を出すテオドシウス帝に強い影響を与えたミラノ教会の司教アンブロシウス(340?-397?)が出て、キリスト教の発展に尽力した。他には教会改革・イングランド布教・異端排斥・教権維持・典礼整備などを行ったローマ教皇グレゴリウス1世(位590-604)もラテン教父の1人とされている。

 ヒエロニムス、アンブロシウス、グレゴリウス1世はいわゆる"四大ラテン教父"に数えられる。あと1人は、4世紀末期のキリスト教世界における最大の神父と呼ばれたアウレリウス=アウグスティヌス(ヒッポのアウグスティヌス。354-430)である。397年から翌398年にかけて書かれた全13巻の自伝『告白)』では、若い頃に演劇鑑賞や女性との遊蕩に耽り、その後マニ教(善なる光と悪なる暗黒の二元論が基盤の宗教)に狂信したが、マルクス=トゥリウス=キケロ(B.C.106-B.C.43)のストア哲学新プラトン主義(ネオプラトニズム)に感銘を受けて、真理追究に関心を持つようになり、司教アンブロシウスの影響を大いに受け、その後キリスト教に改宗したと記述されている。386年、ミラノの自宅にいたアウグスティヌスが、隣家にいる子どもたちから歌声のようなもの"取りて、読め(Tolle, lege)"が聞こえてきたので、手元にあった聖書を取った。そして『新約聖書』に記されている、パウロの「ローマ人への手紙」の第13章の13節と14節の部分を読んだ
 "宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬みを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス=キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない(同章から引用)。"
 あらゆる精神的遍歴の末、アウグスティヌスがキリスト教にたどり着いた瞬間であった。人は神に向けてつくられているため、神のもとへたどりつくまでは安らうことはできないという冒頭が記されたこの『告白録』には、このキリスト教への回心、そして翌387年の母モニカ(331-387)の死とともに洗礼を受けたことなどを告白したアウグスティヌスの前半生が書き綴られた。 

 アウグスティヌスは391年、ローマ帝国属州である北アフリカのヒッポ教会の司祭に、5年後の396年に同地で司教に任じられ、異教徒との論争や、正統教義の一本化に努めるなど、終身その職務を全うした。410年の西ゴート族のローマ侵入を契機に、神に守られたキリスト教の大国ローマ(当時は西ローマ帝国。395-476)が、異教徒(西ゴート族は当時異端とされたアリウス派のキリスト教徒だった)によって、一時的にせよ首都を攻め落とされたことで、キリスト教への非難が急激に沸き立った。そこで、アウグスティヌスは、神への愛に基づいてつくられた"神の国"が、地上のローマ帝国などの、罪深い人類の高慢な自己愛によってつくられた"地の国"をはるかに超越したものであり、平和な"神の国"と、戦争を繰り返す"地の国"との闘争で歴史が作られていき、そして、その闘争は"神の国"が勝利をもたらし、永遠にこれを維持することで、人間は神と教会を信仰することで平和を取り戻すことであると論証した。人間が原罪(生まれながらの罪)から救われるには、神の無償の愛と恵み、つまり神の恩寵が必要なのである。これが、413年から427年にかけて書き記された、アウグスティヌスの全22巻の渾身の力作、『神国論(神の国)』である。

 417年、アウグスティヌスは『三位一体論』を完成させた。神は、実体(サブスタンシア)は一つだが、"父"なる神、"子"なる世に現れたキリスト、神の愛を伝える"聖霊"という三つの位格(ペルソナ)を持つことによって永遠に存在するという教義である。これは"三位一体"の名付け親テルトゥリアヌスが最初に論じたもので、その後325年のニケーアの公会議で三位一体を主張するアタナシウス派によって、三位一体を正統な教義として認められ(これにより対立していたアリウス派は異端となる)、そしてアウグスティヌスの『三位一体論』によって、神学的な論証でもって三位一体が明確に定義づけられたのであった。

 その後も北アフリカのヒッポで活動を続けていたアウグスティヌスであったが、折しも民族大移動時代にあたり、当時の西ローマ帝国(395-476)は属州を次々とゲルマンに奪われ、その勢力は大きく縮小化していった。ローマ領北アフリカも、ガイセリック王(389?-477。位428-477)率いるゲルマン一派のヴァンダル族の侵入が429年頃から激化し、ヒッポも包囲された。ローマの勢力はヴァンダル族を駆逐できる力が残っておらず、北アフリカ属州はヴァンダルのなすがままであった。アウグスティヌスはヒッポの行く末を憂慮しながら、翌430年に病没した(アウグスティヌス没430)。その後北アフリカはヴァンダル族に占領され、大都市カルタゴも439年に征服、同地にはヴァンダル王国(439-534)が誕生し、ガイセリック王の後を継いだ子フネリック王(位477-484)の時、北アフリカのカトリック教会は一時激しく迫害された(フネリック王没後、和解成立)。

 ペテロ、パウロら使徒の遺した基本教理、そしてアウグスティヌスで完成した教父哲学は、のち中世における西ヨーロッパ神学の活動や発展に大きな影響を与え、神学は中世西欧学問の代表となり、聖書およびアウグスティヌスの思想などを論拠として用いられる、スコラ学が発展することになるのである。キリスト教は分派し、闘争を繰り返していきながらも、現在でも世界規模で信仰され続け、その教義は常に継承し続けているのである。


 今回は妙に倫理内容も大いに入ってしまいましたね。実は初期のキリスト教関連の歴史は、これまであまり触れていなかった内容でしたが、遂に205話にしてメインの登場となりました。
 私はキリスト教の大学出身でしたので、『新約聖書』を持っていましたから、今回の内容にあわせて、再度読んでみました。個人的にはキリスト教信者でもありませんし、学生時代においても大学受験の世界史程度の知識のみでそんなに関心はなかったのですが、まさか『新約聖書』がここでこれほどまでに役立つとは夢にも思いませんでしたね。

 今回は十二使徒の1人で、のちローマ=カトリック教会における初代ローマ教皇(位33?-67?)とされているペテロ、そして原始キリスト教を発展させる礎を作ち、のちのヨーロッパの神学思想に大きな影響を与えた異邦人の使徒パウロ、そして"最大の教父"と称され、カトリック教会の確立に尽力したアウグスティヌスの3名を中心に紹介させていただきました。当然、大学受験世界史でも大学受験倫理でも大いに重要な3人物ですので、必ず覚えなければならない項目です。では、今回の学習ポイントを見てまいりましょう。

 ペテロと言えば、墓所とされるヴァチカンのサン=ピエトロ大聖堂も頻出用語です。16世紀のドイツ宗教改革関連で登場しますね。ちなみに、福音を伝えた十二使徒は全員覚える必要はありませんが、倫理の用語集は十二使徒の項目で12名全員登場していますが(ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、シモン、イスカリオテのユダの12人。ユダの裏切りの後のマッテア)、全員書かせることは受験倫理分野でもほとんどないと思います。ただ、イエスの言行を記録したマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの「四福音書」や、ペテロやパウロの伝道内容が書かれた「使徒行伝」は世界史分野で稀に出題されることもあるので注意が必要です。ペテロとパウロはネロ帝の迫害で殉教したと伝えられていますが、真実かどうかはともかくとしてネロ帝の犠牲となったことは知っておいた方がよろしいでしょう。

 またパウロ関連では、キリスト教の三元徳も倫理分野では頻出項目です。『新約聖書』の「コリント人への手紙13章13節」で登場します。そこでパウロは"いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この3つである。このうちで最も大いなるものは、愛である(同書より引用)"と記しています。三元徳とは"信仰・希望・愛"という3つの徳で、なかでも"愛"を重要視しています。本編にあったように、原罪がイエスの死でもって神より許されることが神の愛そのものであり、イエスの信仰は神から正義として認められ、これによって救いが得られます。これを「信仰義認説」といって、マルティン=ルター(1483-1546)などはまさしくこの思想を主張して宗教改革を行ったのでした。

 そして教父ですが、本編に出た教父で、受験世界史に必要な人物は2名です。一人はグレゴリウス1世、もう一人は言うまでもなくアウグスティヌスです。
 まずはグレゴリウス1世関連から。ご存知グレゴリオ聖歌の名付け親で、彼も作曲に携わっているとされています。世界史ではわりと入試によく出るイングランド布教ですが、これ関わった人物もアウグスティヌスと呼ばれます。しかし本編のそれとは全くの別人で、初代カンタベリ大司教アウグスティヌス(カンタベリのアウグスティヌス。?-604?)といわれて区別されます。カンタベリのアウグスティヌスが入試には出ることはないと思いますが、キリスト教史では重要人物です。
 本編登場の教父アウグスティヌス関連では、受験世界史・受験倫理両分野で『告白(録)』と『神の国』は覚えなければなりません。受験世界史においてアウグスティヌスはこれが最も頻出用語なのですが、青年期にマニ教にはまっていたことや、北アフリカのヌミディア地方出身であることなどが、たまに難関私大などで出題されるケースもあります。倫理分野では、これらに加えて、三位一体論、神の恩寵(原罪を背負う人間は神の恩寵によって救われるという教義)、神の国と地の国の闘争、そして前にのべた三元徳なども学習しておきましょう。ちなみに受験には関係しませんが、アウグスティヌスの母であります聖モニカも有名な聖人で、DVや精神的苦痛から女性を守る守護聖人として崇敬されています。彼女の名にちなんだアメリカの都市サンタ・モニカは有名ですね。

 『新約聖書』についてもポイントを挙げておきます。成立は2世紀初めの頃でコイネーで書かれたことが重要です。ちなみに『旧約聖書』はヘブライ語で書かれています。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。冒瀆者(ぼうトクしゃ。トクのへんはさんずい、つくりは賣)。