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世界史の目

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ギャラリー

第206話


ソロンの改革

 ギリシア人一派のイオニア人ポリスアテネアテナイ)では、B.C.8世紀半に王政から貴族政となり、貴族は最高統治役職アルコンを選んで統治するようになった。アルコンには執政役、神祇役、兵部役の3名と司法役の6名、計9名から成り立ち、すべて貴族の中から選ばれ、その経験者はアテネのアクロポリス近くにあるアレオパゴスの丘(軍神アレスの丘)で開催されるアレオパゴス会議(アレオパゴス評議会)を構成した。アルコンの任期ははじめ終身、ついで10年、B.C.7世紀以来1年任期となったが、アレオパゴス会議では、アルコンを経験した名門の者が終身議員となり、行政・司法双方の管理を貴族権力でもって独占した。ローマの元老院(セナトゥス)に相当する重要な評議機関であり、アテネ貴族の大きな牙城であった。
 アテネでは植民市との活発な交易で商業が発展し、また小アジアのリディア王国(B.C.7C-B.C.547)で使用された世界最古の貨幣鋳造技術がギリシアに伝わると、アテネの経済がより一層促進された。この結果、平民から富裕層を生み出し、武具を自弁で購入して重装歩兵に参加するようになる一方、経済発展に伴い貧富の差が激化し、多くの貧困層をも生み出すことになった。元来"貴族政"とは"優者の支配"の意味があり、君主が無力あるいは存在しないことにより、君主政ができない政治形態であったが、こうした経済発展の結果によって生まれた貧富の差の拡大は貴族政治を揺らがせることになり、社会不安を嘆き、経済安定を願う平民(とりわけ貧困層)が、貴族政治に対して不満をあらわしたり、独裁権力を狙って貴族政治の既存体制を潰そうとする野心的な貴族があらわれた。

 B.C.7世紀半ばのオリンピア競技に参加し、2種目に優勝したアテネの貴族キュロン(生没年不詳)は、アテネの独裁権力を狙い、アテネ西方のポリス・メガラ(コリントス地峡北部)の権力者だったテアゲネス(B.C.7C半ば~後半の人物)の娘と結婚し、オリンピアの祭典のあったB.C.632年頃(B.C.628?)、テアゲネスの支援を得てアテネのアクロポリスを占領した。アテネの全権を掌握したキュロンであったが、キュロンの独裁は、他の貴族だけでなく平民にも支持されず、直後にアルコンのメガクレス(生没年不詳)が市民軍を率いてアクロポリスを包囲、キュロンはアテナ神殿に逃げ込んだが逃げ切れず殺害されたと言われている。独裁権力を手中に収めようとしたキュロンの計画は、のちの僭主政治僭主(tyrannos)はポリスの貴族議会を抑えて独裁権力をふるう者。"暴君(tyrant)"の語源)の原型をつくった。しかしこれを機に、平民による貴族政への批判がおこり、平民と貴族の対立が激化した。

 こうした中で、貴族ドラコン(B.C.650?-?)がB.C.7世紀後半にでて、貴族の私法や刑法など従来の慣習法の整備に取りかかった。B.C.621年からその翌年にかけて開催されたオリンピア競技(第39回)の期間中、新法を制定し、ギリシアで最初の成文法(ドラコンの立法)をまとめあげた。この法はポリスの公権力による秩序維持を目的に作られたもので、殺人犯の国外追放や、貴族間の私的な復讐の規制、貴族の慣習による有利裁判の規制など、平民の貴族に対する不快感の鎮静に役立つものであった。この功績で彼は"立法者"と呼ばれたが、貴族にとってはかなり厳格な成文法となり、例えば借金返済不能におちいると債務奴隷身分に落とされる法律もあった。厳格さ故に貴族の中から不満が噴出し、平民の要求・請願は到底かなえられるものではなかった。このため、貴族と平民との対立はその後も続いた。

 借金返済不能により債務奴隷に転落するのは貴族だけでなく、もちろん平民も同様である。どちらかといえば、貧困層がもっとも債務奴隷になる確率が高いわけで、とくにB.C.6世紀初め頃から目立ち始めた、貧農が自身の身体を抵当に借財を借りる方法が広がると、借財返済方法として収穫6分の1を債権者に毎年貢納するような状態が深刻化した。こうした貧農層をヘクテモロイ(6分の1の意味)と呼び、その増加がいちじるしくなった。奴隷は他のポリスと売買されるため、結果的に返納できないヘクテモロイの増加は債務奴隷の増加とアテネ農民層の衰退をあわせて引き起こし、アテネ中小農民の没落も起こりえない状況であった。

 このアテネの状況に対して改革を実施したのがソロン(B.C.640?-B.C.560?)である。サラミスをめぐりメガラとの戦争が相次いでいたアテネであったが、アテネの市民たちは幾度との戦争で士気が下がっていたのを、ソロンが彼らを鼓舞したことで、アテネに勝利をもたらし、民衆より名声を得たとされ、B.C.594年にアルコンの執政担当に選出された。ソロンは貴族と平民の調停者として、すぐさま改革に乗り出した。

 まずソロンが施した改革はセイサクテイア(Seisachtheia。重荷下ろし)で、借財の帳消し令である。債務免除と債権放棄を決めて、債務奴隷と化した民衆を解放し、身体を抵当に借財を借りることを禁止した。
 次におこした改革はティモクラシー(Timocracy)で、ソロンの最も有名な改革、"財産政治"である。内容は、身分階級を土地・財産の4階級に分け、階級別に見合った参政権をあらためたというものである。第1等級は年間500メディムノス以上の穀物を供給する土地を持つ階級層(500メディムノス級という)、第2階級は年間300メディムノス以上の騎士階級、第3階級は年間200メディムノス以上の自作農民階級、第4階級は年間200メディムノス以下の労働者・小農民階級で、1・2階級は貴族が占め、3・4階級は平民が占める。第1~3階級は参政権の行使と重装歩兵参加ができ、またアルコンをはじめとするとする重要官職に就くことができるが、第4階級には民会や法廷への出席のみ与えるにとどまり、官職に就くことはできなかった。しかしこの改革で全市民が裁判に参加でき、官人に対して弾劾することが可能となった。階級が決まると、各階級から100名選出して、400人評議会を設置した。
 他にも、ドラコン法の改正、度量衡の改正、奢侈の禁止、農産物保護(オリーブ油以外の農産物輸出の禁止)などを行う大改革(ソロンの改革。B.C.594-B.C.593)となったわけだが、ソロンは平民と貴族の調停者とまでは至らなかった。借財の帳消しで破産した債権者が増加し、貴族層や有産市民層から不満が噴出、また第4階級に関しても彼らの要求(土地・資産の再配分など)が応えられなかったとして他階級と対立するなど、貴族と平民の闘争は解消されなかった。さらに、貴族政治の改革だけに、貴族が直接関わる制度であったため、貴族間の対立も生まれ、商人を基盤とする海岸党、地主を基盤とする平野党らがそれぞれ対立する貴族たちをリーダーにたてるなど、かえって社会不安を招いた。この時ソロンと同じく名門の出で、対メガラ戦で名声を得たペイシストラトス(B.C.600?-B.C.527)は、貧困層の無産市民らを基盤とする山地党を結成している。

 ソロンの改革が下火になると、ソロンは見聞のためアテネを離れて、エジプト、キプロス、リディアなど各地を転々とした。この頃アテネではペイシストラトスが非合法手段でアクロポリスを占領、実権を掌握して僭主となり、僭主政治を始めていた(B.C.560)。彼をよく知るソロンは大いに嘆き、引退ののち没したとされている(ソロン没。B.C.560?)。ただしペイシストラトスはソロンの改革をすべて批判しているのではなく、ソロンの創始した国制を尊重して農業保護と発展を捨ててはいなかった(ペイシストラトスは国外にいるソロンに対し、手紙を送るなどして帰国を熱望したとされている)。彼は第4階級とされた小農民や手工業者などの下層市民層を保護し、貧農に土地を再配分するなど、貴族政治を抑えた善政を行うことによって、平民階級の発展を促したのであった。僭主政治の出現によって貴族政治は崩壊し、のちのアテネ民主政の途を開くきっかけとなっていった。

 生前、ソロンは自身の改革思想を詩編にした。これが現存する中でアテネ最古の文学作品であり、現在における貴重な歴史文献となっている。


 今回はギリシアの七賢人の一人とされているソロンの改革を中心に、久々のアテネ・ポリスをご紹介しました。ペルシア戦争(B.C.500-B.C.449)やペリクレス(B.C.495?-B.C.429)登場の以前のお話で、アテネ貴族政からアテネ民主政への発展に向けての、大きな過渡期(とくにその過渡期の前半)が今回の内容です。

 さっそく受験世界史における学習ポイントを見てまいりましょう。貴族政治が主だったアテネで、まずリディアから鋳造貨幣が伝わり、貨幣経済がおこります。商工業の発達と相まって富裕民も多く出ます。彼らは自弁で武具を買い、重装歩兵軍に従軍するようになり、発言力も増えていきます。一方で、これらが上手くいかない平民は貧困と化して、債務奴隷に転落していきます。平民のこうした格差が引き金となり、貴族政に反し、貴族と対立していくようになります。こうした中で、まずドラコンが登場し、貴族のこれまでの慣習法を整えるも上手くいかず、そこで、ソロンの登場です。受験では、ソロンの名前、調停者、財産政治、負債帳消し、債務奴隷禁止あたりが重要です。難関大では財産政治の説明ができるようになれば尚更良いでしょう(財産に応じて身分を4階級に分けるなど)。

 年代では、ドラコンの立法(B.C.621)、ソロンの改革(B.C.594)が重要ですが、ドラコンはB.C.7世紀末、ソロンはB.C.6C初で知っていてもよろしいかと思いますが、難関大ではしっかりと年代は知っておくべきだと思います。

 他には、官職名のアルコンや権力者のキュロンなどもいちおう用語集に載っていますので、注意はしておいた方が良さそうです。最後に登場した僭主政ですがペイシストラトスは世界史Bでもメジャー級の人物ですので、覚えましょう。ちなみに僭主政治は50年続き、あとのクレイステネス(B.C.6C後半の人)の陶片追放政策(オストラシズム。僭主出現防止策。市民に陶片による投票で国外追放者を決める制度)につながっていきますが、その50年続いた僭主政治で、ペイシストラトスの跡を継いだ子ヒッピアス(B.C.6C後半-B.C.5C前半)も、難関大でたまに問題文などで見かけることもあります。書かせる問題ではないですが、彼はペイシストラトスのような善政ではなく、文字通り暴君化したために、B.C.510年に国外追放処分を受けます。こうした原因で陶片追放が行われるのですが、ヒッピアスを知らなくともこの辺りはしっかり流れを知っておく必要はありますね。
 ちなみに、クレイステネスは陶片追放以外にも部族制度の改革を行っており(デーモス制度といいます。これも用語集に登場しています。これまでの4部族から10部族に編制すること)、近年入試頻度数も上がっていますので注意が必要です。