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世界史の目

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ギャラリー

第207話


突厥(とつけつ)

 匈奴(きょうど)が衰退した内陸アジア。3世紀半ば以降のモンゴル高原ではトルコ系(テュルク系)の鮮卑(せんぴ)の活躍が最も目立ち、特にその部族の拓跋部(たくばつ)は中国にも進出して国家を形成した。5世紀、中国進出を果たした鮮卑にかわって、モンゴル系遊牧民の柔然(じゅうぜん。蠕蠕。ぜんぜん)がでて、初代可汗(カガン。ハン。柔然の称号)である社崙(しゃろん。ハン位402-410)の時、トルコ系遊牧民族の高車(こうしゃ)を圧迫してモンゴル高原から駆逐、高車を支配下に入れてモンゴル高原や天山東部一帯を支配した。この高車は、B.C.3世紀からA.D.5世紀に活動したトルコ系民族の丁零(ていれい)のことで、特にモンゴル高原に侵入した丁零を中国では高車と呼び(特に4世紀頃から6世紀頃までの中国での呼び名)、高車は丁零の後身として位置付けられる。
 柔然の活動期、内陸アジアでは5世紀中頃に勃興した民族系統不明(イラン系が有力だがトルコ系説も)の遊牧民族エフタルも活発化し、西方面はササン朝ペルシア(226-651)と東西交易路をめぐって争い、南方面は北インドのグプタ朝(320-550?)を圧迫して衰退させるなどの強力な勢力として周囲に恐れられた。

 そして6世紀半ば、柔然の支配から独立し(552)、アルタイ山脈西南部においてトルコ系のある大遊牧国家が興った。6世紀半ばにこの大遊牧国家を建設したトルコ系民族を突厥(とっけつ。とつけつ)と呼ぶ。
 突厥誕生に関しては、"アセナ"と呼ばれる伝説が残っている。『史記』や『隋書』など、当時の中国史書に記載された内容によると、このトルコ系民族の先祖は、敵対する勢力との激しい闘いの末敗れ、少年アセナが一族の中で唯一生き残ったが、敵軍に両足を切られて動けなくなっていた。そこへ、一匹の雌狼がアセナを助け、介抱した。その後も狼はアセナに肉を与えて養い、アセナもその場を離れることはなく、やがてアセナと雌狼は交わり、雌狼は身籠もった。しかしアセナは敵対勢力に生存を疎まれ殺されてしまった。このため狼はすぐさまその場を離れ、ボグダ山(天山山脈の主峰)に逃げ込んで10人の男児を出産した。子ども達はアセナの遺志を受け継ぎ、それぞれ妻を持って子孫を作り、一族は繁栄したという伝説である。
 突厥は、高車の後身として登場したトルコ系民族の鉄勒(てつろく。6C-7C)の一部族として構成されていた。かつてのトルコ系の丁零という名の原音は、テュルク(Türk。トルコの正式な呼び方。"トルコ系"の語も正式には"テュルク系"を使用する。後述)を中国側が漢字"丁零(あるいは勅勒。ちょくろく)"として音写したとされており、その発展形であるトルコ系の鉄勒の原音も同様、中国側が音写されたといわれている。そして突厥もまた原音"テュルキュト"が中国側で漢字"突厥"として音写されたといわれている。また突厥が拠点としたアルタイ山脈が兜の形に見えることから、"突厥"の名は"兜"を意味するともいわれている。彼らは柔然の支配下におかれたとき、アルタイ山脈西南部で服属奴隷として製鉄業や鍛鉄業を営んでおり、ここからも兜との関連性が窺える。

 アセナが遺した子孫の一氏族とされたのが阿史那氏(あしな)で、アセナの名に由来するとされる。阿史那氏の始祖は一族を率いるトメン(土門。吐門。ブミン)という称号を用いて一族をまとめ、柔然の支配下でありながら突厥の中核をなす氏族としてその勢力を確立した。
 5世紀末に柔然の支配下にあった高車が反乱、独立したのに乗じて、同じく柔然の支配下にあった突厥も抵抗をはじめたため、柔然は宥和策をとって突厥に鉄製品貿易を認めたため、突厥は6世紀初に西魏(せいぎ。535-556)との通商によって栄えていく。
 この頃の柔然は敕連頭兵豆伐可汗(ちょくれんとうへいとうはつカガン。位520-552)の治世であったが、6世紀半ばになると突厥の阿史那氏土門の勢いが活発化し、552年、とうとう柔然の敕連頭兵豆伐可汗を自殺に追いやることに成功した。これにより柔然はいっきに弱体と化し、可汗の太子や有力官僚たちは北斉(ほくせい。550-577)に亡命した。その後の柔然は少数の残党によって勢力は保たれたが長くは続かず、555年に滅亡した(柔然滅亡。555)。一説によると柔然の残党勢力はその後西走してハンガリー一帯に遊牧可汗国家を築いた民族、アヴァール(6-9C)になったともされているが、確証されていない。

 柔然を弱体化させたこの阿史那氏の土門は、柔然からの独立達成と帝国建国を宣言、自ら初代突厥可汗に即位し、伊利可汗(いりカガン。位552)となった。阿史那氏による突厥帝国(突厥可汗国。552-582)の誕生であり、552年は現在のトルコ共和国(1923.10.29- )では、突厥帝国の建国年がトルコ建国の年とされている。

 しかし伊利可汗はまもなく没し、次に可汗に即位した子(弟?)の乙息記可汗(いっしょくきカガン。2代目突厥可汗。位552-553)も程なくして病没した。その直後に即位したのは乙息記可汗の弟である木汗可汗木杆可汗とも。むかんカガン。ぼくかんカガン。3代目突厥可汗。位553-572)であった。木汗可汗は即位後間もなく首都をウテュケン(現モンゴル国ウランバートル西方のハンガイ山脈か?)に定め、オルホン川(現モンゴルで最長の河川)流域を支配していった。また6世紀半ばにエフタルをササン朝と挟撃してこれを滅ぼし(エフタル滅亡)、その後も鉄勒、トルコ系の堅昆(けんこん。キルギス。クルグズ。当時の名は契骨。けいこつ)、そしてモンゴル系の契丹(きったん)など周辺民族を次々と敗退・服属させ、モンゴル高原を中心とする中央ユーラシアを支配して強勢を誇った。中国とは朝貢関係を保ち、西魏滅亡後も次に興った北周(ほくしゅう。556-581)と安定した関係を維持した。木汗可汗の治世は突厥帝国の歴史の中でも全盛期であった。

 木汗可汗没後、弟が即位して他鉢可汗(たはつカガン。タトバルカガン。佗鉢可汗とも。4代目突厥可汗。位572-581)となった。他鉢可汗は兄とは異なり、北周と対立していた北斉と関係を持つようになった。この時、北斉の僧が可汗と会見し、鎮護国家の思想が伝わったことで、一時的であるが突厥の仏教伝来が実現した。北斉滅亡後も他鉢可汗はその残党と手を組み、北周と対立したが、その後北周とは和睦した。

 他鉢可汗没後は内紛が起こり、新王朝・(ずい。581-618)の圧迫もあって、583年、アルタイ山脈を境に東突厥(ひがしとつけつ。583-745)と西突厥(にしとつけつ。583-742?)の両勢力に分裂した(583突厥の東西分裂)。東突厥はウテュケンを拠点としてモンゴリア東部方面を、西突厥は西域(せいいき。さいいき)方面をそれぞれ支配した。

 7世紀、中国では隋に代わって(とう。618-907)の時代が到来した。東突厥は630年、頡利可汗(けつりカガン。位620-630)の時、唐軍の猛攻によって可汗による政権が瓦解した。ここまでの東突厥の時代区分を突厥第一可汗国時代という(583-630)。ただ東突厥の滅亡は免れ、唐の羈縻政策(きび。唐の周辺異民族をとりしまる都護(とご)のもとで、中央から都護を派遣し、在地の異民族族長に自治を許した間接統治政策)の下で東突厥は存続、639年には可汗号も認められて復活、唐の羈縻政策下で4代続いた。
 一方の西突厥では内部分裂と再統一を繰り返しながらも可汗政権を維持するが、657年に唐の羈縻政策下に入った。この政策下では、西突厥は弥射家(みじゃ)と歩真家(ぶしん)の2両統が同時に西突厥可汗に即位して共同統治した。

 東突厥は682年、阿史那氏の骨咄禄(こちとちろく。生没年不詳)が9つの鉄勒による部族連合トクズ=オグズ(九部鉄勒。"九つの姓"の意)を攻めて功をあげ、頡跌利施可汗(イルティリシュカガン。位682-691)として即位した。頡跌利施可汗の治世では羈縻政策下からの脱却をはかり、唐から独立を果たして再興に成功、再びモンゴリアを支配するようになった。東突厥における突厥第二可汗国時代の到来であった(682-745)。頡跌利施可汗は唐朝を相手に果敢に戦い、彼の病没後即位した弟の遷善可汗(カプガンカガン。位691-716)も契丹を討ち、則天武后(そくてんぶこう。帝位690-705)の武周政権(ぶしゅう。690-705)と対立するなど強勢をふるった。
 遷善可汗没後、即位したのは頡跌利施可汗の長子である毘伽可汗ビルゲカガン。位716-734)である。弟の闕特勒(キョル=テギン。685-731)に軍事面を任せ、頡跌利施可汗時代に活躍した暾欲谷(トゥニュクク。生没年不詳)を高齢ながら有力者であり、阿史那氏の良き理解者と評価して宰相に任じ、暾欲谷の娘は毘伽可汗の皇后となった。この治世では契丹、鉄勒諸部をおさえ、唐朝とは安定した関係を維持し、突厥第二可汗国時代の盛時を現出した。

 一方、西突厥では、阿史那氏の政権は弥射家と歩真家の勢力下に続いていたが、弥射家は7世紀末に途絶えた。8世紀半ばの742年(?)、歩真家から出た阿史那昕(あしなきん。位740-742)も中央アジアのトルコ系遊牧民の突騎施(テュルギシュ)に暗殺され、西突厥の版図はすべて突騎施によって占領、阿史那氏の西突厥は完全に滅亡した(742?。西突厥滅亡)。その後、突騎施は8世紀中頃に分裂して、領域はアルタイ南西のトルコ系遊牧民であるカルルク族に支配されたが、この突騎施およびカルルク族の支配した時代を西突厥の存続ととらえることもある。

 西突厥が滅亡した頃、東突厥も衰退へ向かった。734年に毘伽可汗が没すると、その後は内紛が頻発し、阿史那氏の烏蘇米施可汗(オズミシュカガン。位742-744)の時に鉄勒からでた部族、回紇部(かいこつ。ウイグルのこと)や西突厥を滅亡に導いたカルルク族などが干渉し、混乱を極めた。烏蘇米施可汗は回紇やカルルク族に殺され、弟が白眉可汗(ビャクミカガン。位744-745)として即位するも、回紇の氏族、ヤグラカル氏からでたクトゥルグ(骨力裴羅。?-747)が可汗号を称し、ウイグル帝国(東ウイグル可汗国、回鶻(かいこつ)可汗国とも。744-840)を建国して東突厥を圧迫した。そして745年、クトゥルグは最後の阿史那氏となった白眉可汗を殺害し、阿史那氏を滅ぼすと同時に、東突厥を滅亡させ、突厥第二可汗国時代を終わらせたのであった(745。東突厥滅亡)。

 突厥は対外戦争における功労者に対し、戦没の追悼として石人像を製造した。石人像は多数造られ、どれも独特の表情や容姿でデザインされた。また早くから文字を使用し(突厥文字と呼ばれる。アラム文字ソグド文字などに由来するとされている)、これらは8世紀に作られた碑文などに刻み込まれた。突厥碑文で有名なものは、イェニセイ川上流域で発見されたイェニセイ碑文、そしてオルホン河畔で発見された毘伽可汗時代のオルホン碑文などがあり、これらは現存するトルコ語最古の貴重な資料として、現在でも深く研究されている。


 今回は久々に遊牧民族を取り上げました。トルコ系民族でも非常に勢力の強かった、突厥をご紹介しました。中央アジアの遊牧民族は入試必須項目ですが、タテの歴史はなかなか教科書や用語集では把握しにくいところですね。
 中央アジアに勃興したトルコ系民族の祖先の伝説にはなにかとオオカミが絡んでいます(狼祖伝説)。モンゴル民族では"蒼き狼と白き牝鹿"伝説はあまりにも有名ですが、トルコ系では本編でも登場した高車や丁零などにも突厥と同様の伝説があり、「"狼の血族"は"強い一族"の証」というのがあったのでしょう。伝説と言えば、聖徳太子(574-622)は突厥出身であるという説があるそうです。真相はわかりませんが非常に興味深いですね。

 さて、今回の受験世界史の学習ポイントを見ておきましょう。まず本編でもありましたが、"トルコ系民族"という用語についてお断りしておきます。現在トルコ共和国と区別するため、本当は"トルコ"という語ではなく、歴史用語として"テュルク(Türk)"という言葉を使用します。ただし受験世界史の関連もあり、高校世界史むけの用語集では"テュルク"よりも"トルコ"を使用しているので、本編及びここではあえて"トルコ"を使用しました。

 内陸アジアの5世紀は柔然、6世紀は突厥、8世紀はウイグルです。今回は突厥がメインなので、メインはあとに回してここでは柔然とウイグルを。柔然関連ではモンゴル系であること、モンゴルの君主号"ハーン"のもととなった可汗を使用したこと、6世紀半ばに突厥に滅ぼされたこと、アヴァール人と同一民族の説があることなどが重要です。
 ウイグルでは、トルコ系であること、マニ教を信仰したこと、東突厥を滅ぼしたこと、キルギスの襲撃で弱体と化したこと、ウイグル文字を使用したことなどが重要ですが、中でも最も有名なのが、唐の安史の乱(あんし。755-763)でしょう。唐の王室を援助して反乱を鎮め、勢力を上げたことです。受験でもここでウイグルを書かせたり選ばせたりする要注意分野です。

 さて突厥ですが、突厥では、トルコ系であること、突厥文字を使用したこと(突厥はモンゴル高原の遊牧民族では最も早く文字を使用した民族です)、オルホン碑文をのこしたこと、6世紀半ばにササン朝と協力してエフタルを滅ぼしたこと(この時のササン朝はホスロー1世の時。位531-579)、6世紀終わりに東西分裂すること(後述)、東突厥も西突厥も唐に服属したことぐらいでよろしいかと思います。突厥の可汗も多く登場しましたが、出題されることはまずないと思います。
 突厥の東西分裂は583年ですが、用語集によっては582年の表記もみられます。6世紀末と覚えておくのが無難でしょう。西突厥の滅亡も用語集によっては、唐の羈縻政策下に入った657年を滅亡ととらえたり(7世紀半ばとの表記もあり)、742年(741年?)の西突厥の阿史那氏滅亡年を滅亡ととらえたり、場合によっては突騎施やカルルクの支配時期といった、その後のトルコ系遊牧民族の支配までをとらえる場合もあります。一方東突厥の滅亡年も最後の阿史那氏の可汗(白眉可汗)がウイグルに殺害されて滅亡した745年以外に、クトゥルグがウイグル帝国を建国した744年を滅亡年ととらえている場合もあります。いずれにしても大学受験の世界史ではここまでくわしく問われることはありません。

 本編では突厥やウイグル以外にもトルコ系民族が登場しました。まずは丁零。大学受験用の世界史用語集にも登場しますが、この民族もTürkの音訳です。この丁零の後身が高車で、柔然に支配されていましたが、5世紀末に反乱を起こして独立し、柔然が弱体化するきっかけとなります。丁零も高車も6世紀頃まで勢力を保ちます。高車の後身が鉄勒で、これもTürkの音訳です。7世紀まで勢力を保っています。

 最後に補足を書かせていただきます。突厥は東西分裂の経緯があまりにも難解でしたので本編には載せませんでしたが、興味を持たれた方は以下の内容も読まれてもよろしいかと思います。当初は本編に入れようと思っていた箇所ですが、非常に複雑であったために外させていただきました。突厥可汗国はきれいに東西真っ二つに分裂したのではなく、まず西が独立して西突厥になり、その後東も東突厥として独立しましたので、一時的には西突厥、突厥、東突厥の3勢力が存在することになります。もちろん大学受験の範囲では突厥は東西真っ二つに分裂したと思えばよいのでこの辺りの経緯は全く無縁の内容ですが、よければどうぞ。


 東西分裂の経緯とは、木汗可汗の子・大邏便(たいらへん。生没年不詳)の勢力と、乙息記可汗の子である摂図(せつと。?-587)に支持された他鉢可汗の子・菴羅(あんら。生没年不詳)の勢力との可汗後継者争いに始まる。この決着は摂図に支持された菴羅が5代目突厥可汗位に即位して終わるのだが(位581)、菴羅は後継者争いに負けた大邏便側の圧迫に対応できず、菴羅はやむなく可汗位から退き、摂図が沙鉢略可汗(さはつりゃくカガン。イシュバラカガン。位581-587)として6代目突厥可汗に即位することになった。沙鉢略可汗は大邏便に対し、阿波可汗(あばカガン。位581-587)の称号を与えて内紛を抑えようとしたが、結果的に582年(583年?)、阿波可汗は突厥から離れることになった。これが西突厥で、突厥は西突厥が独立した形で分裂したのであった。
 西突厥に独立された突厥では、587年に沙鉢略可汗が没し、弟が7代目突厥可汗に即位するもすぐ可汗位を沙鉢略可汗の子、都藍可汗(とらんカガン。8代目突厥可汗。位587-599)に譲った。しかし内紛が絶えず、都藍可汗の兄(弟?)の染干(せんがん。?-609)は都藍可汗と対立して染干自身も自称・東突厥可汗を主張した(染干は突利可汗(テリスカガン)と自称した)。その後隋と結んだ染干は、隋より東突厥の初代可汗位とする啓民可汗(けいみんカガン)を賜った(位587-609)。これは隋による、突厥勢力を弱らせるための離間策であった。隋の後押しによって啓民可汗は優勢となり、結果都藍可汗は陣没(599)、これでもって突厥可汗国は8代で滅亡(突厥可汗国の完全滅亡。599)、東突厥と西突厥の2国に勢力は分立したのであった。阿波可汗は西突厥の、啓民可汗は東突厥のそれぞれ初代可汗となった。
 7世紀、中国では隋に代わって(とう。618-907)の時代が到来したが、東突厥では同じく阿史那氏出身の始畢可汗(しひつカガン。位609-619)、西突厥では阿史那氏出身のの射匱可汗(しゃきカガン。位611-618)がそれぞれ強勢を誇った。東突厥では唐への朝貢が始まるが、唐建国直後に始畢可汗は病没して、弟の処羅可汗(しょらカガン。位619-620)が即位するもほどなくして没し、その弟が頡利可汗(けつりカガン。位620-630)として即位した。

 (本編)7世紀、中国では隋に代わって.....、に続く


(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。阿史那"昕"(あしな"きん")→日へんに斤。回"紇"(かい"こつ")→糸へんに乞。