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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第210話


我が胸を撃て!!・その3

~二つのイタリアと独裁者の最期~

  1. その1・ファッショ誕生はこちら
  2. その2・"侵略、同盟、参戦、そして独裁の終焉"はこちら

 連合軍のシチリア上陸(1943.7.10)によってイタリアの軍隊が壊滅状態となった1943年7月ファシスト党ベニート=ムッソリーニ首相(ベニート=アミルカレ=アンドレア=ムッソリーニ。1883.7.29-1945.4.28。首相任1922.10.31-43.7.25)の辞任が決まり、ムッソリーニは逮捕、幽閉された。イタリアの政権はピエトロ=バドリオ(1871-1956)に委ねられ(バドリオ政権。首相任1943-44)、ファシスト党は解散した。ナチス=ドイツアドルフ=ヒトラー(1889-1945)は同盟国イタリアの政権交代に警戒感を抱き、イタリア北部に軍を進駐、同盟関係維持も微妙になった。事実、バドリオはドイツとの同盟関係を維持しつつも、連合国との休戦交渉を行おうともしていた。こうしてイタリア戦線では、連合軍の勝利はほぼ確実であり、あとはとどめを刺すのを待つばかりとなった。

 1943年9月3日、バドリオは連合国側との秘密交渉において休戦交渉に入ったが、連合国はイタリアの首都ローマを無防備都市状態であると宣言(9月3日)、イタリア半島担当の連合軍司令官であるイギリス軍人ハロルド=アレキサンダー(1891-1969)の指揮のもと、連合軍はイタリア半島に上陸した(イタリア侵攻。1943.9)。しかも、連合国軍の総司令官を務めたアメリカ軍人ドワイト=アイゼンハワー(1890-1969)は8日、バドリオ政権の了承がないまま、イタリアが無条件降伏したことを表明したため(イタリア新政府無条件降伏1943.9.8)、ヒトラーはバドリオを見限り、同盟関係は破綻、北イタリアに進駐していたドイツ軍はローマ入城に取りかかった。これによりバドリオはイタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世(サヴォイア家。イタリア王位1900-46)とともに首都ローマを捨て、連合国軍の占領地域にある南イタリアのブリンディジアッピア街道終点)に遷都して新政府(亡命政府)を樹立、政権を維持した。これによりミラノ、フィレンツェなどローマ以北はドイツ軍に占領された(ドイツ軍の北イタリア占領。1943.9.10)。イタリアと連合国との講和は両軍にはあまり浸透せず、その後もイタリア半島では戦闘が続いた。

 この頃、ムッソリーニはイタリア中部のアブルッツォ州にあるアペニン山脈のグラン=サッソのホテル"カンポ=インペラトーレ"に幽閉されていた。ヒトラーは、同盟相手のイタリアが連合国側についた今、ファシズム勢力を維持して枢軸を建て直すためにはムッソリーニ復権を計画してナチスとの連携をつくるしかないと考えていた。バドリオ政権と国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世が連合国の手に落ちたとなれば、ムッソリーニは遅かれ早かれ連合国に引き渡されるだろう。そうなる前に、ムッソリーニを救出するしか方法がなかった。
 9月12日、ヒトラーは空軍大将のクルト=シュトゥデント(1890-1978)や親衛隊(Schutzstaffel。SS)のオットー=スコルツェニー(1908-75)らに命じて、遂にムッソリーニ救出作戦(グラン=サッソ襲撃作戦。アイヒ作戦、柏作戦などの呼称がある)を敢行した。渾身の調査によってムッソリーニの幽閉先が遂に判明され、襲撃隊には空軍の降下部隊とスコルツェニーらSSの少数精鋭らによって、コマンド部隊が編制された。

 標高の高い場所にあるグラン=サッソのホテル"カンポ=インペラトーレ"に、コマンド部隊がグライダーでホテルに襲撃、ムッソリーニを無傷で救出、用意したヘリコプターにムッソリーニを乗せてドイツ軍陣営まで送り届け、身柄を確保することに成功した。部隊は陸路を使い、下山して帰還した。
 ヒトラーは直ちに無防備地域となったローマ以北を支配領域として、ムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国(サロ共和国。Repubblica Sociale Italiana。RSI1943.9.23-45.4.25)を北イタリアのサロ(ロンバルディア州ブレシア県。ガルダ湖畔)で樹立した。この頃のムッソリーニは胃病を患っており、政界引退を考えていたため消極的ではあったが、ヒトラーに説得されて、枢軸国の代表として協力することを約束し、解散したファシスト党は共和ファシスト党と改称して復活した。ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世が君臨するイタリア王国1861-1946)はブリンディジにて、ムッソリーニを元首とするイタリア社会共和国はサロにてそれぞれ半島に二つのイタリアが存在する異常事態となったのである。

 ヒトラーはドイツ軍をもってナチス=ドイツの安定化と、ファシズムの正統化にむけて、イタリア社会共和国をドイツの協同体国家(Stato corporativo)として位置づけた。協同体国家というのは、国家コーポラティズムとも呼ばれる。コーポラティズムとは協調主義で、協同体国家は、この理論を国家的に組み込み、工業や農業など産業別に組織された経営者協同体と、同じく産業別に組織された労働者協同体(労働組合など)の各代表が政治経済における国家的議決などにも関わらせることによって、各階級の協調が安定して為され、社会も安定する。この協同体国家構想はムッソリーニもかつて手掛けていた。1934年に22の協同体を設置し、1939年には議会を廃止して名を全国組合協同会議にかえ、議院をファッシ協同体議院としたが、イタリア王国時代ではこのコーポラティズムが充分に機能しなかったのである。しかし今回は純粋なファシズム国家が誕生したことにより大きな期待が寄せられ、ファシズムの国家理論が遂に実現できる時が来たかに見えた。
 しかし、ヒトラーによるこのコーポラティズム構想はすべて表面的で、実質のイタリア社会共和国とはナチス=ドイツの傀儡政権であった。ムッソリーニは精神的な権威のみ残され、ヒトラーと対等な指揮ができる状態ではなかったため、イタリア社会共和国内での産業はナチス=ドイツへの利潤に充てられ、軍の一部もドイツ軍に編入されるなど、被占領国の扱いであった。ヒトラーはイタリア社会共和国の完全な傀儡化を目指し、ムッソリーニの首相罷免時において、罷免に賛成した、イタリア社会共和国の要人を次々と粛清し、もと軍総司令官でファシスト四天王の1人であったエミリオ=デ=ボーノ(1866-1944)もその犠牲になった。

 とはいえイタリア軍は半数以上がムッソリーニのイタリア社会共和国につき、戦争継続を主張した。そして降伏した国王とバドリオ政権の指揮するイタリア王国を"裏切り"として位置づけ、日本などの他の枢軸国側も、イタリア王国を敵国とし、イタリア社会共和国を承認した。1943年10月になり、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世とバドリオ政権によるイタリア王国と、ナチスが支援するイタリア社会共和国との間で内戦が勃発した(イタリアのドイツ宣戦布告。1943.10.13)。これにより、日独伊三国同盟も破綻した(実質はイタリア王国のかわりにイタリア社会共和国が加盟)。また同時に反ファシズムの立場で作られた非正規軍の抵抗運動、つまりパルチザン活動も半島内で展開していった。

 その後もイタリア半島での本土決戦は続いたが、ハロルド=アレキサンダー率いる連合軍は1944年6月、ローマを攻め落とし、ローマは解放された。イタリア王国の亡命政府はローマに戻った。バドリオは首相を辞任し(1944.6.18)、国民解放委員会で委員長を務めていたイヴァノエ=ボノミ(1873-1951)が首相に就任した(1944-45)。国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世もローマ帰還を果たしたが、イタリアの惨状の責任を取り、すでに王子(ウンベルト。1904-83)に行政を預けて隠棲していた。

 1944年の戦闘では、もはや連合軍にはかなわず、枢軸国側は崩壊寸前であった。そしてパリ解放1944.8)をきっかけにヨーロッパでの戦局がほぼ決定した。また連合国軍の進撃だけはなく、パルチザンの徹底抗戦にも悩まされたイタリア軍・ドイツ軍は次々と敗退を重ねていった。イタリア社会共和国はもはや機能なしに等しく、ムッソリーニはドイツ軍によって第二次世界大戦で中立を保っているファシズム国家でフランコ政権(任1939-75)のスペイン(フランコ政権時代のスペインは"スペイン国"と呼ばれる)への逃亡をすすめられ、遂にイタリア社会共和国を離れた。すでにスペイン国にはムッソリーニの家族である妻ラケーレ=グイーディ(1890-1979)と、彼らの子どもたちが亡命していた。1945年になるとパルチザンの活動はより一層激化し、多くのファシスト党員やイタリア社会共和国の兵士が虐殺された。ドイツ本土もソ連軍による猛反撃をうけ、首都ベルリンが包囲された(ベルリン包囲1945.4.25)。

 イタリアのパルチザン部隊は同日である4月25日に勝利と解放を宣言した。イタリア社会共和国はこの時崩れ去った(イタリア社会共和国崩壊。1945.4.25)。ムッソリーニは4月27日、北イタリアでスイス国境にあるコモ湖付近の村ドンゴでイタリアのパルチザン部隊に所属するウルバーノ=ラザーロ(1924-2006)に身柄を拘束された。この時ムッソリーニの同行者には29歳年下の愛人であるクラレッタ(クラーラ=ペタッチ。1912-45)とその兄マルセロ=ペタッチ(1910-45)らファシスト党員がいた。クラレッタはローマ出身で、父は教皇庁に務める上流家庭の出であるが、1932年の時、つまり彼女が20歳の時にムッソリーニと出会い、これまでムッソリーニを襲った如何なる危機においても、陰から献身的に彼を支え続けてきた女性であった。ムッソリーニが断罪され、自身が連座して同等の刑が執行されようとも、彼女は彼と同じ運命をたどることを覚悟していたとされている。
 ラザーロによって身柄拘束された一行はムッソリーニの身元を隠し、スペインのイタリア領事官であると偽ったが見破られ、直後にムッソリーニの身元も確かめられた。クラレッタの兄マルセロは、護送途中に逃亡しようとして、ドンゴで射殺された。ムッソリーニは一行とともにすぐさま北イタリアのメッツェグラ(ロンバルディア州)に護送された。

 一夜明けて翌28日、ムッソリーニとその一行、15名はメッツェグラ郊外のギウリーノに移送させられ、人民裁判(法律を無視して人民によって私的に行われる裁判)にかけられ、15名全員銃殺刑の判決が下された。イタリア国民に吊し上げられた、ファシズム抹殺のための見せしめであった。
 パルチザン部隊によって処刑場に並べられたムッソリーニら一行は、即刻銃殺刑に処された。この時、最初に執行される予定だったムッソリーニであったが、銃殺寸前、身を盾にして彼にしがみついたクラレッタがまず撃たれた。命に代えてでも愛人を守ろうとしたクラレッタは、その使命がかなうことなく息を引き取った。この時ムッソリーニは、執行者に対して、
"Shoot me in the chest(私の胸を撃ちなさい)."と発し、執行者は胸を撃ち抜き、さらに銃弾を浴びせた。イタリアをファシズムの渦に巻き込んだ独裁者の、壮絶な最期であった(ムッソリーニ処刑1945.4.28。満61歳没)。その後、残りのメンバーも同様に銃殺された。

 ムッソリーニとその一行の遺体は、銃殺されたそのままの姿で、ミラノのロレート広場で逆さ吊りにされ、群衆の前に晒された。ムッソリーニの遺体は当初はミラノに埋葬されたが、最終的には出身地のプレダッピオ(エミリア=ロマーニャ州)に改葬された。偉大な指揮官を失ったファシスト党員やイタリア社会共和国の軍はその後も連合軍と戦ったが29日、遂に力尽き、連合軍司令官イタリア方面担当のハロルド=アレキサンダーはイタリア降伏を全面的に受け入れた。イタリアと連合軍との激しい戦闘はこれで終わった。
 ムッソリーニ処刑から2日後の30日、ヒトラーもまた総統官邸の地下壕で自殺を遂げ(ヒトラー自殺1945.4.30。満56歳没)、ドイツは5月2日、首都ベルリンが攻め落とされ(ベルリン陥落1945.5.2)、無条件降伏を受け入れた(ドイツ無条件降伏1945.5.7)。これで、1939年に勃発した第二次世界大戦の、ヨーロッパでの戦闘は終了した。8月14日には日本(大日本帝国。1889-1947)も無条件降伏を受け、9月2日に降伏文書に調印して、日独伊三国同盟および枢軸国は完全に崩壊した。これにて第二次世界大戦はすべて終わった。

 1946年5月、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は退位し、王子ウンベルトが即位した(ウンベルト2世。位1946)。6月2日、イタリア王国では反ファシストの風が吹き荒れる中で、王政廃止の是非を問う国民投票が実施された。結果、共和政支持の票が200万票の差をつけて勝利し(ただし両者1000万票以上を得票していたことをみれば、僅差であった)、ウンベルト2世は在位35日で廃位となり、1861年統一から続いたサヴォイア家のイタリア王政は崩壊、イタリア王国は消滅(イタリア、王政廃止1946.6)、現在のイタリア共和国が誕生、サヴォイア家は国外へ亡命した。サルディーニャ王国(1720-1861)時代から君臨したサヴォイア王政は、歴史からその名が消えた。王位と国民の支持を維持するため、結果的にファシスト政権を擁護し、国民を歴史上最も凄惨な戦争に巻き込み、イタリアおよび占領地域を荒廃・失地させた代償はあまりにも大きかった。ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世が1947年末に没した場所は、エジプトのアレクサンドリアであった。
 ローマ進軍に始まった、ムッソリーニの築いた一時代は、イタリア史に大きな傷跡を残す一方で新たな主義・思想を世に吹き込み、後世にも大きな影響を及ぼしたのであった。


 3部構成でお送りいたしましたムッソリーニの活躍期ですが、いかがでしたか?第二次世界大戦の時代を研究すると、壮絶・凄惨・悲嘆が交錯してなかなか胸がすっきりすることがないのですが、今回は世界戦争においてもイタリアにこだわったのみであり、それ以外でも独ソ戦(1941-45)や太平洋戦争(1941-45)を筆頭に、他ヨーロッパ、アジア、アフリカの各国で戦闘と占領が引切り無しに隙無く起こった時代です。"世界史の目"においてもこの時期は多数ご紹介してきていますが、まだほんの一握りで、今回ようやくイタリアで口火を開きました。しかし、やはり壮絶で、凄惨で、悲嘆でした。

 さて今回の受験世界史の学習ポイントです。1943年7月の連合軍によるシチリア上陸の結果、ムッソリーニは失脚しファシスト党は解散、バドリオ新政権が誕生、そして無条件降伏という方向へ向かいます。そして1946年、王政から共和政へ移行します。この流れは当然知っておきましょう。また日独伊三国同盟の中で最初に無条件降伏したのはイタリアです(本編にあったようにその後も戦闘は続きましたが)。イタリア(1943.9)→ドイツ(1945.5)→日本(1945.8)の順は覚えておく必要があります。
 ムッソリーニが助け出されてイタリア社会共和国が建設されたことや、主産業を国有化せず、私有を認めた状態で国家が介入して企業活動(経営者・労働者)を統制する方式であるコーポラティズムの内容は、ほとんど出題されることはないと思います。ただこの内容からも、共産主義とは相対しますので、ファシズム体制の国家は反共的であることがここでもわかります。
 あと、3編に渡って登場したヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は問題文に登場することはあっても、答えを書かせるようなことはないと思います。同じヴィットーリオ=エマヌエーレでも統一期に登場したヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(位1861-78)の方が受験生にとっては重要です。

 ついでに戦後のイタリアもお話ししておきます。敗戦後のイタリアでは国民解放委員会(CLN。Comitato di Liberazione Nazionale)が臨時政府を任されました。当然反ファシストです。彼らが所属するキリスト教民主党、イタリア社会党、イタリア共産党、イタリア自由党といった反ファシスト諸政党が組閣し、ファシストの浄化政策(公職追放など)を行いました。1946年には本編にあったように王政存続か王政廃止かの国民投票が実施され、結果王政は廃止、共和政へ移行します。1967年、パリ講和条約(イタリア平和条約)の締結で、賠償金が決められ、植民地をすべて失い、未回収のイタリアの1つだったトリエステは国連が管理するトリエステ自由地域となり、連合軍およびユーゴスラヴィアに占領されます(1954年に一部はイタリアに返還)。また同年末にイタリア共和国憲法が公布、翌1948年1月に施行されています。

 8月12日(日)から夏期休校期間にはいるため、次回は8月20日(月)以降に更新の予定です。