本文へスキップ

世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第218話


囲い込みと農業革命

 13世紀から14世紀頃での西ヨーロッパの荘園制度下で、農村にあった耕地は、耕作に従事する農民が独自に私有していたのではなく(つまり小作農)、農村共同体全体が一致して運営する土地であった(純粋荘園)。その農村では、耕地全体を何分割かに細長い帯状の耕地で区分けし、これを小作農民全体で作業を行った(開放耕地。オープン=フィールド)。またこの耕地はさらに3分(春耕地・秋耕地・休耕地)された輪作制で、3年で一巡する形態をとっていた(三圃制。さんぽせい)。春耕地は春に種をまいて秋に収穫し、秋耕地は秋に種をまいて春に収穫する。残りの休耕地は放牧地となり、家畜排泄物などを肥料にして地味(ちみ)を保たせた。開放耕地のため、重量の有輪犂(すき)を牛馬にひかせるために耕地ごとに生け垣や堀、柵などで仕切らず、休耕地は家畜を自由に共同放牧することが可能であった。三圃式農業、および重量有輪犂や水車の登場で生産能力が高まり、西ヨーロッパの主流農法として定着していた。
 またこれにともなう人口増加で、12世紀以降は開墾や植民も積極的に行われた(大開墾)。有名なのはドイツの辺境伯や騎士団、修道院などが行ったエルベ川以東における東方植民(12-14C)、オランダのポルダー、アルプス高地の開墾活動などがある。

 1490年以降のイギリス、時はテューダー朝(1485-1603)であり、絶対王政期へ突入する時代であった。16世紀になり、ヘンリ8世(位1509-47)の治世になると毛織物工業が促進して羊毛製品の輸出がフランドル地方アントウェルペンアントワープ。現ベルギー)市などを輸出相手に大いに伸び、イギリスの主産業となって繁栄した。毛織物の需要が伸びたことから、より多くの営利を求めた一部の中小領主階級・中小地主階級らジェントリ層(豊かな平民地主層)や、独立自営農民ヨーマン封建制度の崩壊で農奴身分から解放され、自立していった自作農民)の中の富農に属する上層部は、農村の農地を収奪してそれらを牧羊地へ強制転換する活動を行った。
 15世紀末期から始まった彼らのこの活動によって、彼らは農村が有していた開放耕地や共有地、入会地を次々と統合し始め、垣根で囲い込んで個人の所有地となっていき、農村の開放耕地は牧場へと変わっていった。これを第一次囲い込み第一次エンクロージャー)と呼ぶ。

 個人が主導したこの囲い込み運動は、これまで農村で農業を担ってきた小作農民にとって大きな打撃となった。農地が牧場と化した以上、小作農民は不必要となるため、次々と失職し離村した。失地した貧農は困窮をうったえ多くが浮浪化、さらに農業を支えてきた農業従事者が離村したことにより、共同体としての村落は次々と姿を消していき、社会問題化した。都市に流入した農民もおり、農業従事者から都市賃金労働者と化し、工場制手工業マニュファクチュア)の環境に入っていくこともあった。

 1515年からヘンリ8世に仕えていた法律家トマス=モア(1478-1535)は、当時執筆していた『ユートピア(1516著)』の中で、囲い込みの被害を受けた貧農の惨状を"羊が人間を食う"という表現で囲い込みを批判した。当時トマス=モアはイングランドの拝金主義社会を痛烈に批判しており、その集大成が『ユートピア』であった。

 16世紀半ば、エリザベス1世(位1558-1603)の治世では、当時膨れあがっていた海外負債を清算するべく政府の財政顧問であるトマス=グレシャム(1519?-79)の金融政策が輝いた。アントウェルペン為替市場において、大陸諸国の通貨よりもポンド通貨をつり上げて負債を清算した。これはイギリス国内に悪貨(品質の劣る通貨)が流通するため、同じ額面でも含有量が多く品質のよい良貨が国内で使われず海外流出してしまうことが問題であり、当時通貨の品質を悪く改鋳していたことに原因があったことを突き止め、悪貨を良貨に改鋳してポンド高にしたという施策であった。金本位制など正貨と通貨が存在している場合、良貨は額面が同じ悪貨にくらべて流通されにくいという当時の経緯によって、"悪貨は良貨を駆逐する"の言葉が生み出され、グレシャムの法則として知られている。通貨の安定は金融だけでなく商業社会にも安定をもたらし、人口も増えていった。
 ただ、ポンド高は毛織物輸出に打撃が生じ、大陸に輸出される毛織物は割高となった。また当時のネーデルラント独立問題で、イギリスの毛織物の貿易相手都市アントウェルペンは当時イギリスが敵対するスペインに経済封鎖を強制させられ、多くの商工業者が亡命し、都市機能がストップしてしまった。これによってイギリス毛織物産業が危機に瀕した。人口増加時期におけるこの経済打撃は失業者を生み出した。かねてから囲い込みによる貧民増加も冷めやらぬ中で、エリザベス1世は1601年、ついに救済策を打ち出した。これが救貧法(1601。旧救貧法。エリザベス救貧法)である。貧民救済の社会保障制度として画期的な対策となったこの法は、新たに設置された救貧監察官が救貧税を徴収し、貧民への救済費に割り当てるというものであった。

 激しい批判を生んだ第一次囲い込み運動は、テューダー朝政府によって禁止となった(早くから禁令を幾度も発布していたが、効果がなかった)。ただしこの運動はイングランドの全ての農村地が囲い込みを受けたわけではなく、一部の限られた地域であったとされ、囲い込みが原因で貧民層が増加したという点は諸説ある。

 17世紀半ば以降はブルジョワジーによる市民革命の動乱期であった。テューダー朝時代のイギリス社会では、支配階級に位置するジェントリ層および貴族層(両者を統合して地主貴族層、つまりジェントルマンという)らに加えて、ヨーマン層、そして貧農の3階層がはっきり区分けされ、ジェントルマン層やヨーマン層の勢力が市民革命を通じて国家を動かしていった。
 1603年のエリザベス1世の死去によりテューダー家の血統が絶え、ステュアート朝時代(第一次:1603-49。第二次:1660-1714)を迎える。イギリスは17世紀末においても大半が農村人口で占められていたが、西ヨーロッパの基本農法であった三圃制は、イングランド東部のノーフォーク州において新たな農法にとって変わることとなった。第2代チャールズ=タウンゼンド子爵(1674-1738。子爵位1687-1738)の尽力によって普及に成功したと言われる。
 ノーフォーク農法と名付けられたこの農法は、三圃制にみられた休耕地の時期がなく、4年収期で同一耕地に大麦→クローバー→小麦→根菜のカブの順に輪作するやり方である。クローバーとカブは牧草として家畜の飼料となった。
 三圃制では冬季に牧草や穀物などの家畜飼料が不足すると家畜の飼育が困難となり、冬ごしらえとして家畜を屠殺する必要がある上、休耕地を放牧に使用し、その糞尿で肥料を蓄えて地味の維持につとめていた。一方のノーフォーク農法では土地を休める休耕地の必要性がないことと、牧草が不足する冬季において、冬の寒さに強いカブを飼料として栽培することで、1年を通じての飼育と穀物生産が可能となり、18世紀には生産量が激増した。これによってタウンゼンド子爵は"カブのタウンゼンド"と言われるようになった。ちなみにタウンゼンド子爵の孫のチャールズ=タウンゼンド(祖父と同名。1725-67)はアメリカ独立問題で財務大臣を任され、タウンゼンド諸法令を発した人物でも知られている。

 18世紀、ステュアート朝が断絶し、ハノーヴァー朝時代(1714-1901)が到来した。三圃制からノーフォーク農法にとって代わった農業の大革新は、人口激増をもたらし、さらなる食料増産に向けて次の段階に移った。折しも18世紀の半ばはイギリスで興った産業革命期への突入もあり、人口激増に乗じて穀物も大量に消費されたため、穀物価格が高騰した。こうした状況から、ノーフォーク農法を奨励した議会と政府が、合法的に農地の囲い込みを認めたのである。合法的に行われることとなった囲い込みは、第一次囲い込みと同様、地主階級や富農を中心に開放耕地を柵や生け垣で囲んだ(第二次囲い込み第二次エンクロージャー)。第一次囲い込みを凌ぐ広範囲で行われたが、第一次囲い込みは牧羊のために労働力が不必要となったため、多くの小作農民が離村する危機的状況を生み出したのに対し、今回の囲い込みはあくまでも食料増産による耕作目的のため労働力は必要であり、放牧に使う共有地などがなくなって生活の変質を遂げた農民は存在したものの、失職者や失地農は第一次ほど発生しなかったとされている。
 これにより、ジェントリら地主階級が大土地を所有する形態となり、農村共同体を形成したヨーマンの三圃制経営は衰退していくと同時に、ヨーマン上層部はジェントリ階級やマニュファクチュア経営者に昇格する一方で、下層部は失地身分となって賃金労働者となっていき、階級が両極分解していった。耕地を独占した地主階層の大規模化、農業に携わる労働者の賃金労働者化に加え、そして農地を借りて食料生産経営を行う経営者、つまり資本家階層が生まれる、新しい農村社会に移行することになる。こうして、地主から土地を借りた資本家が労働者を雇い入れて農業生産を行う構図は農業における資本主義化にほかならない。

 イギリス東部のノーフォークで始まったこの一連の農業の改良は農業革命と呼ばれ、食料生産が飛躍的に伸び、人口増加と経済成長を支えた。労働者階級の増加によって、農業だけでなく諸産業も発展を遂げ、歴史的な工業化、つまり産業革命がさらに促進されることとなる。


 今回はイギリスの農業と、それに携わる関係者を、中世から近世にかけてご紹介しました。今回のキーワードとなったのが、2次に渡る囲い込み(エンクロージャー)と、産業革命期に興された農業革命です。特に18世紀におこされた囲い込みを含む農業革命はその後の産業革命をいっそう促進させ、資本主義経済の構造を確立させたことで知られています。

 さて、その後はナポレオン戦争(1796?/1803?-15)の渦にヨーロッパが巻き込まれていくのですが、戦争終結後にイギリス国内に流入した安価な穀物によって、価格低下の危機感を募らせたジェントリなど地主層や農業従事者が国内の穀物保護を主張して、1815年、穀物法(corn law)が発布されます。安価な穀物の輸入は制限され、穀物の高価格が維持されます。こうして、農業革命期によってもたらされたジェントリ階層の農業権益は、穀物法によって保護されましたが、1839年にリチャード=コブデン(1804-65)やジョン=ブライト(1811-89)らによって1839年に結成された反穀物法同盟による自由貿易推進運動によって、1846年廃止されました。

 では今回の受験世界史における学習ポイントを見てまいりましょう。囲い込み関連では第一次と第二次との違いを知っておきましょう。第一次囲い込みは牧羊のため、個人が主導となって非合法に囲い込み、多くの失地農が生まれて厳しく批判されます。第二次囲い込みは穀物の増産をはかるために、議会を通して合法的に囲い込みました。そして、第二次囲い込みを促進するきっかけとなったのが、三圃制にかわるノーフォーク農法です。ノーフォーク農法はマイナー事項ですが、余裕があったら知っておきましょう。そしてこうした農法改良が農業革命の一環であります。農業革命によって、当時の産業革命が一段と進展していきます。産業革命の要因事項の選択肢として登場することがありますので注意が必要です。またノーフォーク農法や第2次囲い込みの結果、地主・資本家(借地農)・労働者の3階級がうまれて、農業部門でも資本主義経済が生まれたことも重要です。
 あと、第一次囲い込みにおいて、トマス=モアが著書『ユートピア』の中で、この状況を"羊が人間を食う"と表現していたこともおさえておきましょう。ただ近年の研究では、第一次囲い込みはイギリス全土の約2%にすぎず、失地農もそれほど多くは出なかったとされています。いずれにしてもトマス=モアの『ユートピア』は重要項目ですし、ヘンリ8世の諸政策絡みでも登場するので要注意人物です。