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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第219話


中世最後の騎士・その1

~運命の戦い~

 15世紀の神聖ローマ帝国962-1806)。オーストリア(大)公国(1278-1918)の大領主であったハプスブルク家のフリードリヒ大公(1415-93。フリードリヒ5世。大公位1439-93)がでた時代。大公は1439年ドイツ王フリードリヒ4世として即位し(王位1439-1493)、1452年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(帝位1452-93)として戴冠した。彼は、これから歴史的黄金期を迎えるハプスブルク家の基盤を作った人物であった。この頃のハプスブルク家は、他の貴族と比べるとオーストリアを拠点にかまえていただけの中小貴族であった。
 フリードリヒ3世は非常に無能な人物であった。陰気で決断力に欠け、武勲もなく、資産もなく異常なほどの倹約家であったが、悪運の強さと我慢強さにかけては群を抜いていた。結果的に彼はドイツ王として53年にも及ぶ長期政権を維持し、神聖ローマ皇帝としても41年の在位を誇った。

 フリードリヒ3世が神聖ローマ皇帝となった1452年、彼は歳が20離れたポルトガル王国(1143-1910)の王女エレオノーレ(レオノール。1436-67)と結婚した。すでにポルトガルは海洋帝国としての繁栄を築いていたのに対し、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国ハプスブルク朝(1273-1291,1298-1308,1314-30,1438-1742,1745-1806)を擁してはいるものの、当時の所領の規模や権威はポルトガルには及ばなかった。皇帝フリードリヒ3世は、ドイツの一領邦だったハプスブルク家が大国との政略結婚によって所領を拡張する政策基盤を誕生させたのであった。

 フリードリヒ3世はエレオノーレ妃と結婚してなかなか子宝に恵まれず、3年後に誕生した男児クリストフ(1455-56)も生後4ヶ月で夭折した。結果的に三男二女を出産したが、成人に達したのは男児マクシミリアン(1459-1519)と女児クニグンデ(1465-1520)の2人だった。マクシミリアン誕生は待望の王子であったが、身体もあまり強くはなく、言語を話すまでに数年かかるなど、発育面で早くも問題視されたものの、エレオノーレ妃は母親としての愛情を充分に注ぎ、王子を育てた。これによって、父のような陰険で自閉的な性格はうつらず、母に似た陽気で活発旺盛な、たくましい王子に成長した。父の悪い部分よりも母の良い部分だけが受け継がれたのであった。剣術や馬術が巧みであり、容姿、発言、愛情のすべてが中世の気高い騎士精神を兼ね備えた、誰もが慕う王子の誕生であった。

 マクシミリアン王子は"マックス"と愛称された。本名はローマ共和政(B.C.509-B.C.27)の時代、長期にわたって繰り広げられたポエニ戦争(B.C.264-B.C.146間。計3次)のローマの武将・政治家で"持久戦略"を意味する"フェビアン(ファビアン)戦略"の由来となったファビウス=マクシムス(B.C.275-B.C.203)と小スキピオことスキピオ=アエミリアヌス(B.C.185-B.C.129)の名にちなんで、マクシミリアンと名付けられた。

 一方で、当時ブルゴーニュ公国(ブルグント公国。フランス東部・ドイツ西部。1031-1477)には、シャルル・ブルゴーニュ公(公位1467-77)という、非常に野心家のヴァロワ=ブルゴーニュ家の当主がおり、"シャルル=ザ=ボールド(シャルル突進公。テメレール)"と渾名された。同公国はブルゴーニュ地方以外にもネーデルラント(ブルゴーニュ公領ネーデルラント。現オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)を支配している強国で、ブルゴーニュをおさえて統一策を進めるフランス王国ヴァロワ朝(1328-1589)と幾度となく戦闘を交えた(ブルゴーニュ戦争。1474-77)。しかしその戦闘でシャルル突進公は戦死した。
 シャルル突進公は生前、自身が一公国君主である身分から、ローマ皇帝への憧れを捨てきれなかった。北海と地中海を望む広大なブルゴーニュ公国の建設を実現するためには、ローマ皇帝位に少しでも近づくことであった。当時のローマ皇帝を出すハプスブルク家領はブルゴーニュ公領と比べて、まだまだ小国にすぎなかったが、突進公は反仏親独の精神であった。ある日のこと、突進公のもとへ、神聖ローマ帝国皇帝を継承するハプスブルク家の使者が訪れ、突進公の娘で、当時"絶世の美女","お姫様"と謳われた公女マリア(マリー=ド=ブルゴーニュ。1457-82)を、ハプスブルク家のマクシミリアン王子との婚姻を求めてきたのである。オーストリアの小家と強国ブルゴーニュとの婚姻関係は当時としてはかなり不釣合ではあったが、突進公は快諾した。

 シャルル突進公は、王子マクシミリアンを見て、陰鬱な父帝フリードリヒ3世と違い、凛々しい、生気はつらつとした理想的な騎士であり、娘マリアの結婚相手には相応しいと直感した。しかしフリードリヒ3世からしてみれば、基本的に縁を結ぶのは同意であったが、突進公を神聖ローマ皇帝に推挙するのは難しかった。神聖ローマ帝国は、かつての第2期ルクセンブルク朝時代(1347-1400)に取り決めた金印勅書1356黄金文書)で、ローマ皇帝を選出するのはドイツ七選帝侯からの選挙制であると国家的に決められていたため、フリードリヒ3世の一存では決められなかった。

 こうした中、シャルル突進公がブルゴーニュ戦争で戦場となったロレーヌ(フランス北部)のナンシー近郊で戦死の報告が入った(1477.1。シャルル突進公陣没)。ブルゴーニュ公領に奪われた領土の奪還を目指すフランス・ヴァロワ朝の王ルイ11世(位1461-83)は揺さぶりをかけて、君主の抜けたブルゴーニュ公国を混乱させ、国内では暴動が起こった。この時マリアはルイ11世の王子シャルル(1470-98。のちの温厚王シャルル8世。位1483-98)と婚約させられそうになり、一時ブリュッセル(現ベルギーの首都)に幽閉された。
 マリアは父シャルル突進公が許した相手と結婚するときめていたため、フランス王子と結婚することをかたくなに拒否した。マリアは神聖ローマ帝国のマクシミリアン王子に救援を求め、幽閉から解かれた。そして、フランドルの都市ガン(ヘント。フランドル地方の都市。現ベルギー)の王宮で王子が来るのを待った。銀色の甲冑姿で白馬に乗って颯爽と参上したマクシミリアン王子が、美しき公女を助けに来たのであった。1477年8月19日、ハプスブルク家マクシミリアンと、ブルゴーニュ家マリアとの"華燭の典(かいしょくのてん。結婚式)"がガンの聖バボ教会で挙行された。
 その後、ブルゴーニュ公領はフランス王領へ、ネーデルラント諸州とフランス東部のブルゴーニュ伯領(フランシュ=コンテ)はハプスブルク家領に分割されたが、この時もハプスブルク家とフランス王家との間で一戦を交えた(ギネガテの戦い。1479。ギネガテはフランス北部で現ベルギー国境寄り)。
 "蜘蛛"と渾名され、陰湿な計画で相手を嫌がらせるルイ11世とは違い、純粋な騎士道精神で果敢に戦うことをモットーとするマクシミリアン王子は、地元ウィーンの軍とブルゴーニュ公に忠誠を誓った貴族や軍人、また志願兵を華麗に指揮、砲火硝煙が飛び交う本格的な戦争であったが、結果的にマクシミリアン王子率いるドイツ軍はフランス軍を敗退させ、王子の初陣は勝利を飾った。ギネガテでの戦役は勇敢で騎士道精神に則った王子マクシミリアンの活躍を世に知らしめることとなり、マクシミリアンはまさに、"中世最後の騎士"と呼ばれるにふさわしい戦績を残した。この戦争をきっかけに、ハプスブルク家とフランス王家とは長きにわたる抗争が続くことになる。

 結婚したマクシミリアン王子とマリア姫はともにブルゴーニュ公として共同統治を行った(公位1477-82。ただ前述にあるようにブルゴーニュ公国の遺領はフランスと分割したため、公位は名目上である)。スイス北東部、ライン川上流のバーゼル近郊に発祥し、小国オーストリアを拠点にかまえてきた弱小貴族だったハプスブルク家が、オーストリアを離れて西欧の他国と深くかかわることになり、結婚を通じて領土を拡張する第一歩を踏み出したのであった。


 これまで数多くのハプスブルク家をご紹介してまいりましたが、今回は遂に超大物をご紹介することができました。大学受験世界史ではマイナー事項でありながら、のちのハプスブルク帝国の第一歩をつくった"マックス"ことマクシミリアン王子。ここでは神聖ローマ皇帝は父のフリードリヒ3世で、マクシミリアンはまだ王子ですが、その後の彼のつくる歴史は武勇と才能をあわせもつ、まさに騎士道精神に則った歴史です。一方ハプスブルク家の基盤を成し得た人物が父のフリードリヒ3世ですが、本編であったように暗い人物で、かなりの倹約家だったそうです。フリードリヒの倹約ぶりにエレオノーレ妃は呆れ果てるほどで、来る日も来る日も晩餐は芋や豆ばかり出された食事と、水で割ったワインだったそうです。

 さっそく受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。マクシミリアンの本当の活躍は後編になってからですが、新課程での用語集でも登場頻度は上がってきています。個人的にはもっと注目度があってもいいのではないかと思いますが、この人の名前を書かせるような出題は難関私大ではあると思いますので注意が必要です。
 エスカルゴ料理でも有名なブルゴーニュも登場しましたが、ブルゴーニュ公で用語集に登場するのは百年戦争中(1339-1453)中に緑の頭巾を被って登場したブルゴーニュ派ジャン1世(公位1404-19。無畏公)で、イギリスと結んで一時フランスを劣勢に追い込みました。ただしこれもマイナー系ですが、余裕あれば知っておくと得です。ちなみにジャン無畏公の息子フィリップ(公位1419-67。善良公)については少し次回にて触れます。

 マクシミリアン王子の父フリードリヒ3世は王子と対照的に見比べられることでよく知られていますが、フリードリヒ3世の治世に、始めて"ドイツ国民の神聖ローマ帝国"の名称が公式に使われたそうで(13世紀に"神聖ローマ帝国"の名称が使用されている)、これまで"西ヨーロッパのキリスト教世界を支配する神聖なるローマ帝国"といった感覚から抜け出して、"ドイツ国民を支配する神聖なるローマ帝国"に変化したことが窺えます。このフリードリヒ3世ですが、この方はまったくと言っても良いほど受験には出てきませんので、覚えなくて結構です。ただ本編の内容は王子ばかりが目立ち、本来は父であるフリードリヒ3世が主役になるべき内容なのですが、個人的にも好きなマクシミリアンの話なので、この辺はご愛敬ということで...すみませんm(_ _)m

 さて王子と姫のその後はどうなるか?続きは次回にて。