本文へスキップ

世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第222話


謎の海上帝国

 東経100度と赤道を交差するスマトラ島。島の西岸はインド洋に、東岸はマラッカ海峡にそれぞれ面する、現インドネシア共和国に属する島である。スマトラ島およびマレー半島では古くから東西海洋交通が活発化し、交易の要衝として多くの港市もしくは港市国家(海上・河川上での交易都市を中心に興された東南アジアの諸国家)が栄えていた。例えばマレー半島東部、現クランタン州に流れるクランタン川流域(諸説あり)にあったとされる港市国家・赤土国(せきど。6C末頃-7C初頃)もその1つであり、『隋書』の「列伝第四十七」によると隋の煬帝(ようだい。楊広。ようこう。位604-618)の時代に使節・常駿(じょうしゅん。生没年未詳)が同国に遣わされたとある。赤土国はバラモン教大乗仏教を受容したインド色濃い国家であるといわれている。この赤土国の他、マレー半島西岸部にあたるクダー(現マレーシアのクダ州)にクダ王国(630-1136)が興っており、さらにはスマトラ東部のパレンバン方面(パレンバンは現インドネシアの南スマトラ州)や中部のジャンビ方面(ジャンビ市は現インドネシアのジャンビ州)などでは、東西交易で栄えた都市も数多く存在していた。

 またパレンバン中心のスマトラ東部や南部、もしくはマレー半島などで碑文が幾つか発見されており、それらは7世紀から8世紀にかけてのもので、これら史料から、当時スマトラ島にマレー系の大港市国家が存在していたことがわかった。7世紀後半に前述の赤土国やクダ王国をはじめ、交易拠点となる多くの都市を支配下に入れて、マラッカ海峡を独占し、東西貿易を手中に収めた海上帝国、これがシュリーヴィジャヤ王国7C-14C)である。

 "シュリーヴィジャヤ"はサンスクリット語であり、"シュリ(Sri)"は"聖なる、光輝の"の意味(英語の"shine"に相当)で、"ヴィジャヤ(vijaya)"は"勝利"を表す(英語の"victory"に相当)。この海上帝国はパレンバンと、ジャンビ付近にあったとされるマラユを二大拠点として栄え、中国、インドなど近隣の大国相手に交易を行った。北宋時代の文豪・欧陽脩(おうようしゅう。1007-1072。唐宋八大家の1人)が中心となって著された歴史書『新唐書(しんとうじょ)』の中にある「列伝第一百四十七下」の中に"室利佛逝(しつりぶっせい。室利仏逝)"と呼ばれる正体不明の国家が、670年頃から742年頃までの間に(とう。618-907)への朝貢国として登場しており、フランスの東洋学者ジョルジュ=セデス(1886-1969)はこの"室利佛逝"こそが"シュリーヴィジャヤ"を音訳したものではないかと指摘して以後、シュリーヴィジャヤ王国の研究がさかんになった。

 唐僧義浄(ぎじょう。635-713)が37歳の時(671年)、インドでの求法(ぐほう。仏の教えを求めること)を目的に海路を利用して広州を出発、インド滞在後、帰国する695年までの間に、3度シュリーヴィジャヤ王国に寄り、パレンバンやクダを訪問した内容が彼の著書『南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』などに記されている。これによるとシュリーヴィジャヤ王国はインドのナーランダーと同規模の仏教教学が備わった仏教国であり、訳経(仏典漢訳)作業においては絶好の環境であったとされる。中国における"室利佛逝"は8世紀半ばの唐への朝貢記事が最後の記録で、それ以降の中国の史料には登場していない。

 パレンバンのクドゥカン=ブキット遺跡やサボ=キン・キン遺跡などの碑文によると、義浄がシュリーヴィジャヤ王国に滞在していた7世紀後半(683年?)、シュリ=ジャヤナサ王(詳細不明)なる国王が君臨し、2万の軍人が機能した国家であったことが記されている。また仏教に加えて呪術信仰があったことも推察される記事内容もある。
 さらにマレー半島のナコーンシータンマラート(現タイ。古名リゴール)で発見された碑文には、8世紀後半のシュリーヴィジャヤ王国のことが記されている。それによると同王国はジャワの大乗仏教国シャイレーンドラ王朝(8C半-9C前)との関連が盛り込まれているが、その関係がどういったものかは明らかではない。ただ、"室利佛逝"の記録が途絶えた中国の史料では、その後のインドネシア方面から中国に遣わされたのは"訶陵(かりょう)"というジャワの国家で(シャイレーンドラ王朝と同一国か)、シュリーヴィジャヤ王国はこの訶陵国とも関係を持ったとされており、9世紀後半までこの状態にあったといわれている。

 中国では(そう。960-1279)の時代になった頃、シュリーヴィジャヤ王国は拠点をこれまでのパレンバン地方からジャンビ地方のマラユに移った。宋代以降の史料によれば、10世紀以降、マラッカ海峡周辺のとある諸港市国家が中国に遣使したという記事があり、これら国家を"三佛斉(さんぶつせい。三仏斉)"と呼んだ。この"三佛斉"なる国家群の勢力の1つにシュリーヴィジャヤがあったと考えられている。また宋代では、"オアシスの道(シルク=ロード)"や"ステップの道(草原の道)"にかわって、"海の道"が本格化し、海の道を渡ったアラブ人旅行者のアラビア語筆録には"ザーバジュ"という港市国家群がマラッカ海峡にあったと記されており、"三佛斉"をさすと言われている。

 10世紀末から11世紀前半にかけ、シュリーヴィジャヤ王国はジャワのクディリ王国(928?/929?-1222)や南インドのチョーラ朝(845?-1279?)の攻撃を受け、その後はタイやカンボジアに服属して弱小化した。13世紀後半にスマトラ北方には港市サムドラを中心にイスラム国家のサムドラ=パサイ王国(1267-1521。"サムドラ"はスマトラ島の名の由来)も誕生し、勢力は縮小の一途をたどった。
 13世紀はシンガサリ王国(1222-92)、14世紀にはヒンドゥー教国のマジャパヒト王国(1293-1500)と、ジャワ勢力の強国に次々と攻撃を受けて衰退していき、マラッカ海峡における"海の道"の商路を掌握された。やがてマジャパヒト王国内で内紛が起こり、シュリーヴィジャヤ王子だったパラメスワラ(1344-1414)を中心とするシュリーヴィジャヤの残存勢力はパレンバンを後にし、マレー半島南部に移った(1402)。これがマレー系のイスラム国家、マラッカ王国(1402?-1511)である。パラメスワラはマラッカ王国の初代スルタンとなり(位1402?-14)、マラッカ海峡の覇権はマラッカ王国が握っていくことになり、1511年にポルトガルに征服されるまで続いた。

 シュリーヴィジャヤ王国は現在でもその起源、版図、首都、王家、諸制度、他国との関係など不明な部分が依然として多い。これは535年、ジャワ島とスマトラ島の間に位置するスンダ海峡にある火山島クラカタウが大規模な噴火を起こし、翌536年にかけて異常気象が続発したことが原因で、6世紀以前の重要な歴史資料が失われたとされている。
 スマトラに興った海上国家は、多くの謎と伝説を残して、14世紀に消滅したと言われている。


 本当にお久しぶりです。「世界史の目」、再始動いたします。今回は教科書では半ページにも満たない内容量でありながら、非常に重要な分野です。今後はこういう地味な分野も積極的にご紹介する予定ですのでお楽しみ下さいね。さてさて今回は東南アジア史を久々に紹介しました。メインはスマトラ島に興ったシュリーヴィジャヤです。大学受験の世界史では必ず登場する超メジャー級国家ですが、本当に謎の多い国家です。
 本編にもありましたが、国名はサンスクリット語で、"シュリ(Sri)"は"聖なる、光輝の"の意味(英語の"shine")で、"ヴィジャヤ(vijaya)"は"勝利"を表す(英語の"victory")といわれています。"光り輝く勝利"という、非常に格好いい名称です。この"シュリ"については、"スリ"とも記されますが、現在のスリランカの"スリ"も"聖なる、光輝の"の意味で、"ランカ"は"島"の意味があります。

 では、今回の大学受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。東南アジアの港市国家という用語が出てきましたが、この"港市国家"も最近登場頻度が高くなってきているので注意しましょう。シュリーヴィジャヤですが、スマトラのパレンバンとジャンビ、マレー半島のクダーなどが拠点ですが、首都と断定されていません。他にも現タイの南部にあるチャイヤー方面も拠点にしたという説もあります。受験ではパレンバンがシュリーヴィジャヤ黄金期における海上貿易の中心地であることが問われる場合がありますのでこの地名は覚えておく必要があります。
 またシュリーヴィジャヤの中国名ですが、唐代には"室利仏逝"、宋代には"三仏斉"に該当するのではないかと言われています。前者はよく出ますが、最近は後者も出てきておりますので注意しておきましょう。
 スマトラ方面はその後サムドラ=パサイ王国が興りました。マイナー級ですが、マルコ=ポーロ(1254-1324)やイブン=バットゥータ(1304-68/69/77)といった著名人が訪問したことでも知られています。ただし受験の出題頻度はシュリーヴィジャヤとくらべてずっと低いです。のちのスマトラ島に興った国家としては、オランダと戦ったアチェ王国(1496-1903)が有名ですね。

 ジャワ方面も見ておきましょう。ジャワは東部にシャイレーンドラ王朝が8世紀から9世紀にかけて興っていましたが、同じ中部のジョクジャカルタ近辺に古マタラム王国(8C-11C)と呼ばれるヒンドゥー国家もありました。この国家も用語集にあります。いうまでもなく近世に登場するマタラム王国(16C末-1755)とは別国家ですが、同じジョクジャカルタが拠点で、こちらは新マタラム王国とも呼ばれます。
 古マタラム王国の次はクディリ朝で、その後シンガサリ王国(朝)、マジャパヒト王国、そして(新)マタラム王国と続きます。、シンガサリ王国は元寇を経験した国家として出題されやすいです。私が受験生だった頃はは古マタラムとクディリはマイナー系でしたので、ジャワはシャイレーンドラ王朝→シンガサリ王国→マジャパヒト王国→マタラム王国の4国だけを"シャシンマジャマタ"という覚え方で覚えてました。近年は、古マタラム王国もクディリ朝も用語集にしっかり載っていますので要注意ではあります。

 最後にマレー半島の王国、マラッカ王国も覚えましょう。シュリーヴィジャヤの王族出身者が建国したことは知らなくても、マレー人の国家であることは知っておく必要があります。朝(みん。1368-1644)の時代に鄭和(ていわ。1371-1434?)が行った南海遠征の拠点となったイスラム国家で、16世紀初頭にポルトガルに征服されます。この国家の存在も重要ですね。