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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第23話


フランク王国

 輝かしい栄光を広くとどろかせたローマ帝国は、395年に東西分裂をおこし、東ローマ帝国はビザンツ帝国として(395~1453)東欧世界に君臨したが、西ローマ帝国(395~476)は皇帝の権力が弱まって徐々に衰退していった。そして476年、自国に仕えたゲルマン傭兵隊長オドアケル(434?~493)により滅ぼされ、西ローマ帝国は消滅した。

 ローマの東西分裂を機に、ライン川下流の東岸に定着していたゲルマン一派・フランク人(フランク族)は、ライン川を渡ってガリア地方(現在のフランス辺り)の北部に移動し、数々の小国家を形成、その中からでた一支族(サリー支族)の王位についたのが、メロヴィング家のクローヴィス(位481~511)である。

 クローヴィスは王就任後、他支族をおさえて、国家を統一した(フランク王国)。486年、クローヴィスは、これまで私的にガリア地方を制していたローマ将軍シアグリウス(?~487)を敗り(ソワソンの戦い)、同地を征服した。その後、西ゴート族も敗り(507)領土を広げていった。

 また彼は、カトリック信者である妻の感化により、ランス(フランス東北部)の聖レミ司教によって多勢の家臣と共にアタナシウス派キリスト教の洗礼を受けた(クローヴィスの改宗496)。これまでのゲルマン諸国は、ローマ帝国時代に開催されたニケーアの公会議(325)で異端とされたアリウス派キリスト教を受け入れていたが、クローヴィスの改宗によってローマ系の大土地所有者や高位聖職者との関係を円滑化がはかられ、フランク王国にとっては、彼らの支持や協力を容易なものにできた。

 クローヴィスの死後、独自のゲルマン法(サリカという)により、相続は4人の子に分割されたため、一族の内紛、各地の諸侯の台頭などもあり、王国は分裂と統一を繰り返し、6世紀後半から王権は弱体化し、東部のアウストラシアと西部のネウストリアが分国する状態になり、もともと宮廷の家政に携わっていた行政の最高職であるマヨル=ドムス宮宰。きゅうさい。"家政の長官"の意味)がそれぞれの分国で実権を掌握していた。そんな中、アウストラシアの宮宰が勢力を伸ばした。

 アウストラシアではピピン家が宮宰職をつとめ、大ピピン(?~639)から宮宰の世襲がはじまった。大ピピンの孫中ピピン(?~714。679年頃宮宰就任。)は、687年のテストリの戦いでネウストリアの宮宰エブロインを倒し、フランク王国の統一的宮宰となった。中ピピンの死後、その庶子カール=マルテル(689頃~741)が宮宰となり(任714~741)、720年、他の宮宰を制してフランク全王国の宮宰となった。折しも、この頃はイベリア半島のイスラム帝国・ウマイヤ朝(661~750)をはじめとするイスラム軍がゲルマン国家を脅かしていた時期であり、711年には最初の民族大移動を起こした西ゴート族の西ゴート王国(415~711)がウマイヤ朝に滅ぼされている。その中で、732年10月、ピレネー山脈を越えたウマイヤ朝軍がフランク王国領内に侵入、カール=マルテル宮宰が率いる軍隊と戦った(トゥール=ポワティエ間の戦い)。イスラム教徒とキリスト教徒が対峙する戦争となったが、結局はイスラム軍内の不協和音の発生により指揮官が殺され、敗退したことにより、西欧のキリスト教世界は守られた。

 カール=マルテルの功績は大きく、重装歩兵を中核とする騎士団を編成して軍制の中心とし、教会領を没収して臣下に与えて主従関係を築き、イスラム軍を撃退したことは、今後の西欧の封建社会の確立にもつながることである。こうしてピピン家の権威は絶大なものとなり、同家はその後"カールの子孫"を意味する「カロリング」と呼ばれた(カロリング家)。カール=マルテルの死後、小ピピン(714~768)は兄と宮宰にたってフランク王国を支配した。兄の引退(747)後、小ピピンは、ローマ教皇に王としての正統性を黙認させて、メロヴィング朝の最後の王ヒルデリク3世(位743~753)を廃し、短躯王ピピン3世(たんくおう。位751~768)として王位についた。カロリング朝の誕生である。

 ピピン3世は、教皇に王位を承認してもらった代償として、教皇が恐れるゲルマン一派のロンバルド王国(イタリア北部)の侵入をピピン軍がくい止めてこれを討伐し(ピピンのイタリア遠征。754~755)、翌756年、奪った領土からイタリア北東部のラヴェンナ地方を教皇に献上し(ピピンの寄進)、同地方は最初の教皇領となった。ピピン3世の死後は2人の息子が王国を2分したが、771年、次男が死に、長男カール(742~814。シャルルマーニュ)が単独支配者となってフランク王国を再び統一、カール1世(位768~814)となった。

 カール1世が就任してからは、出征の繰り返しで、その数は50回を上回った。北イタリア遠征ではロンバルド王国を滅ぼし774)、ゲルマン一派のサクソン族ザクセン。ドイツ地方・エルベ川中流域)と30年以上に及ぶ大戦争を繰り広げ(サクソニア戦争。772~804)、結局サクソン族はカール1世によって征服された。778年にはイベリア半島に遠征してイスラム教徒に進撃し(~801)、エブロ川以北を占領してスペイン辺境伯領をおいた。この戦いは12世紀になって、フランス最古の武勲詩『ローランの歌』でも広く読まれた。787年にはバイエルン公国(ドナウ川上流)を併合、791年には中央アジアから侵入してきたモンゴル系遊牧民アヴァール人を平定し、ドナウ中流域にまで勢力を広げた。こうしたカール1世の出征によって、西ヨーロッパは次々とフランク王国にのまれていき、8世紀末までには西ヨーロッパ統一が完成した。こうして、ヨーロッパ世界は東方にビザンツ帝国、西にフランク王国が二分する形態となっていった。

 もともとビザンツ帝国は、330年、つまりローマ皇帝コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス帝。位310~337)が統治していた専制ローマ帝国時代に首都がローマからコンスタンティノープル(当時名:ビザンティオン)に移され、395年のローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の東西分裂後、東ローマ帝国として継続を続けてきた国であり、当然教会もコンスタンティノープル教会としての首位権を主張していた。一方のローマ教会は、イエス=キリスト(B.C.7/B.C.4?~A.D.30?)の12使徒の筆頭ペテロ(?~64?)がローマで殉教したことから教会の首位性を主張、ペテロをローマ第1代の司教として、その後継者が教皇であるとし、コンスタンティノープル教会の首位権を否定した。その結果、東西における教会の対立が生まれたのである。コンスタンティノープル教会は、バックにビザンツ皇帝がいることを武器に、ローマ教会と敵対していった。ビザンツ帝国の脅威を感じたカール1世は、広大な西ヨーロッパの領土を統治するためには、西ローマ帝国を復活して、この皇帝になり、権威を高める必要があると考え始めた。

 799年、教皇領で、ローマ教皇レオ3世(位795~816)が、前教皇の一族に暗殺されかかり、危うく難を逃れてフランク王国に亡命し、カール1世の保護を受けて、再びローマ教皇領に帰還した。そして翌800年12月のクリスマスの日サン=ピエトロ大聖堂での「イエス=キリスト生誕ミサ」の席上、教皇レオ3世は保護の報償として、教皇自ら、西ローマ皇帝の冠を、突然カール1世に授けた(カールの戴冠)。カール1世は西ローマ皇帝カール大帝として就任となり(位800~814)、これによりレオ3世は帝国復活の宣言を行った。西ローマ帝国の復興である。ゲルマン民族が創始したフランク王国とローマ教皇を頂点とするキリスト教会とのタッグによって、西ヨーロッパ世界が新たに生まれ変わったことを意味した。つまり、古代のローマ帝国、ゲルマンの帝国、ローマ=カトリック教会の国の3要素が融合した世界の誕生であった。実際は、ローマ教皇からしてみれば、コンスタンティノープル教会に対して教皇権の優位性を知らしめる結果となり、西ローマ皇帝にしてみれば、ビザンツ皇帝に対して西ローマ帝国復活による脅威を与える結果となったわけで、フランク王国は絶頂期を現出したのである。

 その絶頂期、カール大帝は、中央集権国家を確立するため、各地方に国王直属の地方行政官・(はく。グラーフ)を設置し、また伯の専横を防止するために巡察使を派遣して監視した。また文化面ではイギリスの神学者アルクィン(735?~804)をはじめとする有能な学者らを宮廷に招いて古代文化の復興に励み、ラテン語の普及を促し、聖職者の教養を向上させた。これがカロリング=ルネサンスというフランク王国風の文化復興であった。

 カール大帝は、アーヘンで72歳の生涯を閉じ、のち聖人に列せられた。死後、子のルイ(778~840)が後継者となり、全領土を継承してフランク王ルイ1世(ルートヴィヒ1世。敬虔王。けいけんおう。位814~840)が誕生した。817年、ルイ1世は戴冠を受けてローマ皇帝の地位も受け継いだのだが、政治力が慣れず、分割相続制にもとづいて帝国を3分割し、3子(ロタール・ピピン・ルートヴィヒ)にそれぞれ与えた。しかしルイ1世が再婚して、末子シャルル(823~877)が誕生したことにより状況が変わり、ルイ1世がシャルルを偏愛、既に与えた3子の領土をシャルルに再分割しようとした。ロタールら3人の兄は再分割に猛抗議し、829年には兄たちの反乱に発展した。ルイ1世はこの戦いに敗れ、一時廃位された(833。翌年復位)。

 838年に子ピピンが、840年には父ルイ1世が亡くなった後でも宮廷内での抗争は鎮まらなかった。父ルイ1世の死後、長兄ロタールはフランク王と西ローマ皇帝(位840~855)を承認され(ロタール1世)、その後も全土支配を主張したことでルートヴィヒとシャルルが手を組みとロタール1世と戦った。841年、ロタールは敗れて、2年後フランス北東部ミューズ川沿いのヴェルダンで条約を交わすことになった。

 843年に交わされたヴェルダン条約の結果、ロタール1世は西ローマ皇帝の帝号・中部フランク(アルザス/ロレーヌ地方)・北イタリアを獲得した。ルートヴィヒはライン川及びアーレ川以東の地、つまり東フランクを獲得し、ルートヴィヒ2世(位843~876。ドイツ人王)として帝位についた。そしてシャルルは西フランクを獲得、シャルル1世(位843~877。禿頭王。とくとうおう)となった。王国は条約にもとづいて正式に3分割された。

 855年にロタール1世が亡くなり、その遺産のうち中部フランクを継承したロタールの子(ロタール2世)も869年に亡くなると、シャルル1世とルートヴィヒ2世は中部フランクの分割を考えた。翌870年、現オランダ内に位置するメルセンで条約が交わされ(メルセン条約)、北イタリアを除く中部フランクは東フランク・ルートヴィヒ2世と西フランク・シャルル1世によって均等に分割された。このようにして、西フランク王国(843~987)・東フランク王国(843~911)・イタリア王国(843~875)がまとまり、それぞれフランスドイツイタリアの基礎が形成されたのである。

 その後、東フランク王国(ドイツ)では、ルートヴィヒ4世(幼童王。ルートヴィヒ2世の曾孫。位899~911)の死をもって断絶(911)、東フランク王国のカロリング朝は途絶え、後に神聖ローマ帝国(962~1806)の誕生に途(みち)を開いた。西フランク王国(フランス)では、987年にルイ5世(位986~987)の死をもってカロリング家が断絶、パリ伯ユーグ=カペー(938?~996)が王位についてフランス王国・カペー朝(987~1328)が誕生、イタリア王国(イタリア)のカロリング家も875年までに2代で断絶し、神聖ローマ帝国のイタリア政策によって支配されていった。こうしてカロリング朝のヨーロッパ支配は終わりを遂げ、同時に"フランク王国"という名による支配も終わり、今後歴史を揺るがす3つの大国へ受け継がれていく。 


 今回はフランク王国を紹介させていただきました。西欧史の中では特に人気の高い時代ですね。

 さて、学習ポイントを幾つかお話ししましょう。まずはクローヴィス。彼の大偉業ともいえるアタナシウス派改宗は是非とも知っておきたい事項ですね。これによってゲルマン民族がローマ教会と関係を握るわけですから。続いてカール=マルテルですが、彼がウマイヤ軍と戦ったトゥール=ポワティエ間の戦いは重要で、イスラム帝国の分野にも登場し、試験にもよく出ます。732年という年代は、"波に乗るトゥール=ポワティエ"という覚え方を予備校時代に教わりました。余談ですがウマイヤ朝についてもポイントを。始祖はシリア総督ムアーウィア氏、首都はダマスクス、アラブ人には好待遇の措置をとる反面、非アラブ人にはジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を課すなど、アラブ第一主義をとった王朝でした。

 カロリング朝ではやはりカール大帝でしょう。カールの戴冠(800)は本当に重要です。新たな西ヨーロッパ史の開幕を告げる出来事でした。キリスト教徒の国として、またゲルマン民族の国として主導権を握るわけですからね。ちなみに教皇レオ3世が登場しましたが、726年、ローマ教会と争って、聖像禁止令を発布したビザンツ皇帝レオン3世とは全くの別人ですので、注意しましょう。ちなみに聖像禁止令発布の726年は、"理してかレオン3世"といった覚え方があります。

 年代暗記は他にもありますよ。西欧諸国の基礎を形成する結果となったヴェルダン条約(843)とメルセン条約(870)です。"はよ見てヴェルダン、離れてメルセン"、多少強引ですが、この年代も大事なので知っておいた方が良いですね。


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