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世界史の目

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ギャラリー

第237話


儒教の世界・その3
性悪説と法治主義

  1. その1・孔子の誕生はこちら
  2. その2・孟子の思想はこちら

 荀子(じゅんし。B.C.313?/B.C.298?-B.C.238)は(ちょう。山西省・河北省。B.C.403-B.C.228。戦国の七雄の一つ)に生まれた。生年がはっきりせず、孟子(もうし。B.C.372?-B.C.289)が没した頃、荀子は20歳代かそれより年少だったとみられる。趙で学問に励んだ荀子はさらに学識を積むため、50歳頃に国(せい。山東省。B.C.386-B.C.221。田斉とも。でんせい。血統が違うため春秋国とは区別される。B.C.1046-B.C.386。田斉は春秋斉から王位を簒奪して誕生)に渡った。

 斉国における学問は宣王(せんおう。王位B.C.319-B.C.301)の時代に発達した。宣王は学問愛好者として知られ、10万に及ぶ人口を誇ったとされる首都・臨淄(りんし)で、城門の1つであった稷門(しょくもん)付近において、多くの学士たちが論議を交わす区域・稷下(しょっか)を建設し、彼らを保護して学問を多大に奨励した。稷下には何百何千という学士・文士が集まり、稷下の学士(稷下先生)と呼ばれた。諸子百家の1つ、陰陽家(いんようか。天文学や暦学を基盤にした陰陽五行説を用い、自然現象と人間生活の関係を説く)を説いた鄒衍(すうえん。B.C.305?-B.C.240)もその1人である。斉国では次々王の襄王(王位B.C.284-B.C.265)の治世まで学問優遇の時代が続いた。荀子は襄王に仕え、学政担当にあたり、稷下の学士の首席格である祭酒(さいしゅ)に任ぜられた。

 斉国を出た荀子は国(しん。B.C.8C?-B.C.206)に渡った。元来秦は諸子百家の1つ、法家(ほうか。国家統治に法治主義をおく思想)を採用しており、封建制ではなく郡県制を導入するなど、法の支配による中央集権体制を進めていた。秦を訪れた荀子は、法家の思想つまり、人間の本性は欲望に応じた利益を求めて行動するため、法律を定めて統制し、信賞必罰を徹底するという考え方によって秦の政治体制が保たれていることを理解した。その後、国(そ。?-B.C.223)に渡り、令尹(れいいん。楚の宰相職)を務めていた春申君(しゅんしんくん。任B.C.262?-B.C.238)の食客(しょっかく。しょっきゃく。諸侯の館に居候する有能な客人)となった。春申君は食客をおよそ3000人集めたといわれる。やがて荀子は春申君の厚遇を受け、蘭陵(らんりょう。現・山東省棗庄市南東付近。そうしょう)の長官に任じられ、辞職後も楚にとどまって著述活動を行った。弟子として李斯(りし。?-B.C.208)や韓非子(かんぴし。韓非。かんぴ。?-B.C.234/B.C.233)等がいた。

 孟子の性善説(せいぜんせつ)に対して、荀子の思想は性悪説(せいあくせつ)に集約される。かつて、孟子は(じん)・(ぎ)・(れい)・(ち)という四徳(しとく)を重んじて性善説を説いたが、これらは""という人の本性がから与えられた天命であるという前提があった。天命をいただいた有徳者が、易姓革命でもって国家を支配することを重視し、諸国の王道政治化にむけて遊説活動を行った孟子であったが、現実的には受け入れられなかった。荀子は現実性を重視して、天を宗教的側面でとらえず、むしろ自然現象そのものとしてとらえており、天から振り下ろされる大雨、あるいは干ばつといった気象の変化や天文現象(日食月食、隕石落下など)は単なる自然現象で、君子の行政とは無関係であると説き(天人の分)、従来の天と人はつながっているという天人相関説を否定した。

 ゆえに、人の本性も自然そのものであるため、欲望に満ちることもありうるものだと考える。後世にまとめられた20巻32編に及ぶ荀子の著作集『荀子(じゅんし)』の「第23 性悪編」によると、荀子の"人の性はにして、其のなる者は偽(ぎ)なり"という言葉で説明されている。
人の本性は悪であり、欲望に従って利己的に動く性質があり、放置すれば他人との欲望のぶつかりが生じて争いが起き、社会は混乱する。悪をもっているため、後天的に人の手で加えられた""である人為(人+為で"偽"である)でもって、悪という本性を改善させていかねばならない。その人為的なものが教養(教育指導、教育環境作り、学問勉励)や社会習慣、規範などであり、つまり""である。荀子の説く礼は、孟子が主張した辞譲や、孔子(こうし。B.C.552?/B.C.551?-B.C.479)の忠恕(ちゅうじょ。まごころと思いやり)の実現としてとらえるのではなく、社会を安定化させるための人為的に作った社会規範や社会制度をいい、さまざまな規制で欲望を抑え、社会生活や社会活動を礼に則って整えていくことで、人の本性は悪から善へと改良され、社会秩序は安定する。これが礼治主義(れいちしゅぎ)で、争いを未然に防ぐため、礼をしっかり制定・整備した王者こそ有徳な君主であり、こうした君主に支配された国民は、本来持つ悪の性を、君主が礼治主義に基づいて制定したさまざまな規範や制度によって、有徳な君主に感化され、善へと矯正されていくのである。

 『荀子』の「第1 勧学編」で"青は藍より出でて(取りて)、藍より青し氷は水これをなして、水より寒し"とある。染料となる青は藍草から取り出すが、取り出された青い染料は藍草よりも鮮やかに青い。また氷は水からできるが、水より冷たい。これらは師弟の関係にあてはめられており、師匠の下で学問を積み、努力した弟子は、師匠以上に学識が優れ、立派になるとたとえている。学問を身につける重要さを教えた言葉であり、この故事から"出藍の誉れ(青は藍より出でて藍より青し)"の言葉が生まれた。事実、弟子であった李斯や韓非子などは、法家の代表として、荀子の礼治主義や孔子の徳治主義を大きく発展させて、国家統治に法律を必要とする法治主義を教え、秦国などの国家統治に大きな影響を与えた。韓非は、彼の著書を読んで感動したと言われる秦国の始皇帝(位B.C.221-B.C.210)に慕われ、一方の李斯は中国統一(B.C.221)の際に丞相(じょうしょう。行政担当の最高職)に任命され、法治主義を根底とした、これまで以上に急進的な諸改革に着手するのであった。

 荀子はB.C.238年、蘭陵で没した。 


 今回は荀子です。人間の本性には欲望が備わっており、それに従って利己的に行動する生き物であるから、人為や作為といった努力によって悪を善に変えていかなければならない。この人為や作為といった"偽"が社会規範である"礼"で、礼治主義によって国が成り立つとする思想です。性悪説は性善説よりも非常に現実的で、戦国時代当時にはうってつけの思想です。この時代は、覇道の力ではなく、仁義の政治を行うこそ王道政治が完成するとみた孟子の思想は全く受け入れられず、社会規範(礼)を整備して人民を統治させる時代であったということです。故に、孔子孟子にもできなかった、儒家の行政参加が荀子で実現するのです。

 さて学習ポイントです。世界史分野では"儒家の荀子は性悪説"だけで良いです。前回の"孟善荀悪(もうぜんじゅんあく)"で覚えましょう。倫理分野では、礼で治める礼治主義の言葉も合わせて知っておくとよろしいでしょう。また法家の韓非や李斯は荀子に学んだことも重要ポイントです。とはいっても、荀子は法家の始祖ではないのでご注意を(荀子が生まれる前から法家思想はあります)。
 その法家ですが、法治主義の言葉も重要です。世界史分野では、統一前の秦に仕えた代表的な法家に商鞅(しょうおう。?-B.C.338)がいること、韓非(韓非子)と李斯の存在とあわせて重要です。

 さて、儒家のビッグスリーを3部にわたってお話ししましたが、儒教の世界はまだまだ続きます。第4回をお楽しみに!

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。臨淄(りんシ。左側はさんずい偏、右側は"緇"の糸偏を除いた部分)。