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世界史の目

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ギャラリー

第243話


二人の王、二つの帝国、二つの会戦

 B.C.525年にカンビュセス2世(王位B.C.529?-B.C.522)が全オリエントを統一し、世界帝国と謳われたアケメネス朝ペルシア(B.C.550-B.C.330)は、紀元前360年代に所領アナトリア(小アジア)でおこった内乱("州の行政長官"を意味するサトラップがおこした反乱)により、内政の弱体化が進行していた。君主ダレイオス3世(王位B.C.336-B.C.330)は、宮廷の中での謀略がもとで先代、先々代の王が相次いで暗殺され、その後首謀者である姦臣バゴアス(?-336)を破って即位したものの、内政整備に努める余裕もなく、その治世でもやはり国家存亡をかけた戦いが続いた。それは内なる戦いではなく、若きマケドニア王・アレクサンドロス3世アレキサンダー大王。マケドニア王位B.C.336-B.C.323)を擁するマケドニア王国(B.C.808-B.C.168)との劇的な会戦であった。

 一方、ギリシア・ポリス制覇を果たしたマケドニア王国の先代の王で、アレクサンドロスの父であったフィリッポス2世(王位B.C.359-B.C.336)が次に目指していたのはペルシア遠征であった。大いなる野心を抱きながらアケメネス朝ペルシア帝国の征服に向けて準備を進めていたフィリッポス2世だったが、宴席で部下に暗殺され、弱冠20歳で王位を継承したアレクサンドロス3世が父の遺志を継いでペルシア征服に挑むことになった。下降の一途をたどるペルシアと、若さと野望に燃える君主を擁するマケドニアの歴史的対戦となった。

 B.C.334年5月、アナトリア西部のグラニコス河畔でペルシアのサトラップ軍とアレクサンドロス3世のマケドニア軍が激突した(グラニコスの戦い)。ペルシア軍は、ギリシア人傭兵を歩兵戦力として戦闘態勢についたが、劣勢を重ね、挙げ句には従軍していたダレイオス3世の娘婿ミトリダテス(?-334)をアレクサンドロス3世に投げ槍で殺され、ペルシア軍は敗走を余儀なくされた。直後にアレクサンドロス3世は、ペルシア艦隊の拠点であるミレトス(アナトリア西岸イオニア地方の中心)を攻撃して同市を解放した。またアナトリア中南部のハリカルナッソス(現・トルコ共和国のボドルム市。歴史家ヘロドトス(B.C.485/484-B.C.425?)の生誕地で知られる)にはダレイオス3世に仕えたギリシア人傭兵メムノン(B.C.380-B.C.333)とも戦い、ハリカルナッソス包囲戦を展開、膠着が続くも勝利を収めた。

 そして、B.C.333年10月、ペルシアのダレイオス3世はマケドニア戦の報復を誓い、10万の軍勢をひっさげて王自ら親征、アンティオキア北西部の湾岸都市イッソスに入り込み、同市を占領、負傷したマケドニア兵士の腕を切り落として殺害した。アレクサンドロス3世のマケドニア軍はイッソス湾に流れ込むピナロス川でペルシア軍と対峙した(北岸にペルシア軍、南岸にマケドニア軍が戦闘態勢につく)。これが有名なイッソスの戦い(B.C.333.10)である。両君主の激戦を描いたモザイク画も大いに知られる(【外部リンク】。アレクサンドロスが角の生えた愛馬ブケパロスにまたがって戦う勇姿で有名)。
 イッソスでの戦役では、10万のペルシア軍に対し、マケドニア軍は3万余であったため、ペルシア優勢と思われたが、休むことを知らず、威力が旺盛なアレクサンドロス3世と、フィリッポス2世の時代から王国に仕えた勇猛なパルメニオン将軍(B.C.400?-B.C.300)らの活躍に圧倒され、中央に突撃されたダレイオス3世は逃走、将士たちも士気を失い壊走した。ペルシア兵士たちはマケドニア軍に背後にまわりこまれ、集中攻撃をうけて壊滅し、マケドニア軍はただ逃げるペルシア軍に追撃を止めなかった。ダレイオス3世に置き去りにされた母シシュガンビス(B.C.400?-B.C.323?)、妃スタテイラ1世(?-B.C.332)、長女スタテイラ(別名バルシネ。?-B.C.323)、次女ドリュペティス(?-B.C.323)、異母妹のパリサティス(?-B.C.323)はマケドニア軍に捕らえられた。アレクサンドロス3世が存命中は彼女たちを宮中で暮らせた。

 イッソスで勝利を手にしたアレクサンドロス3世は、並行してアケメネス朝ペルシアに支配されていたエジプトや地中海(フェニキア人の都市国家ティルス。現レバンノ南西部)への遠征を続け、2年間、訓練と戦力補強を徹底して充実させた。一方で敗戦を喫したダレイオス3世は、軍を立て直し、所領から兵士を再結集させて、バクトリア・サトラップ(総督)だったベッソス将軍(?-B.C.329)の指揮の下で20万(15万、100万など諸説あり)もの大軍を編制した。

 B.C.331年10月、5万の兵力を従えたマケドニア軍は地中海東岸からペルシア侵攻を計画、ティグリス川東方のアルベラ(現イラク北部のアルビール市)へ侵入した。そして、アルベラとガウガメラ(現在地不詳)間で、互いに帝国君主が指揮を執る合戦となった。これがアルベラの戦いガウガメラの戦い。戦場の様子を描いた画は【外部リンク】参照)である。戦力は、数の上では圧倒的にペルシア軍が有利であったが、イッソス戦同様、作戦術や武器は万全と言えず、訓練不足もあった。

 配置はマケドニア軍のアレクサンドロスが右翼(左翼にパルメニオン将軍)、一方のペルシア軍ではダレイオスが中央であった。これはイッソス戦と同様である。ペルシア軍の左翼にはベッソスがまわった。マケドニア軍の右翼にいたアレクサンドロスがベッソスのいるペルシア軍の左翼に進撃していく内に、左翼と中央の防備が薄まり、中央のダレイオス軍に突撃した。2年前のイッソス戦で、家族までも置き去りにして逃げたペルシア王の行動を知っていたアレクサンドロスは、ペルシア軍の両翼をつぶした隙に中央を狙う作戦は見事成功し、ペルシア軍は敗退した。

 グラニコス戦、イッソス戦、アルベラ戦と、立て続けに敗北を喫したダレイオス3世は、帝国君主としての威信が失墜した。王の軍指揮に辟易していたベッソス総督は、ダレイオスの治世は終わったとして王位の簒奪を狙い、B.C.330年国王ダレイオス3世を暗殺(ダレイオス3世暗殺。B.C.330)、よってアケメネス朝ペルシアは220年の歴史に幕を閉じた(アケメネス朝ペルシア滅亡B.C.330)。しかしベッソス総督はペルシア王を継承すべく、オクシュアルテス(生没年不明)らバクトリアの豪族たちの力を借りてアレクサンドロスに抵抗した。
 ダレイオス3世の亡骸を見たマケドニアのアレクサンドロス3世は、彼の武勲を讃えて国王葬を執り行った。イッソス戦で捕虜としたダレイオス3世の家族が宮廷におり、世界帝国を築いたペルシア帝国をアレクサンドロスが継承することを望んでいたためであった。このため、アレクサンドロスはベッソス討伐に向けてバクトリア侵攻を始めた。結果劣勢に立たされたベッソスは敗走、結果的にオクシュアルテスらバクトリア豪族が降伏し、彼らはベッソスをソグディアナで捕らえ、マケドニア軍に引き渡した。B.C.329年、ベッソスは自身が暗殺したダレイオス3世の伏した場所にて、磔にされ処刑されたとされている。

 降伏したオクシュアルテスは10代半ばの娘ロクサネ(?-B.C.310?/B.C.309?)をアレクサンドロス3世に差し出した。アレクサンドロス3世はB.C.327年にロクサネと結婚した。アレクサンドロスが29歳になり、即位して9年後のことであった(B.C.332年に没したダレイオスの妃スタテイラ1世との間に子どもがいたとされる逸話もある)。その後アレクサンドロスはペルシアの古都スサでダレイオス3世の長女スタテイラ、そしてパリサティスと結婚した(B.C.324?)。ちなみにスタテイラの妹ドリュペティスは、アレクサンドロスの友人であり、アルベラ戦でも果敢に戦ったヘファイスティオン(B.C.356?-B.C.324)と結婚した(B.C.324。スサ合同結婚式)。

 B.C.323年、ロクサネはアレクサンドロスとの間に一子を授かったが、6月10日、大王はバビロンで熱病におかされ没した(アレクサンドロス3世死去B.C.323.6)。ロクサネは出産した男児をアレクサンドロス4世としてマケドニア王として即位させた(マケドニア王位B.C.323-B.C.309。出産前に王が病没したため、継承者や摂政、相続などの問題など、のちのディアドコイ内乱の遠因となる)。プルタルコス(A.D.46?/A.D.48?-127?。古代ローマのギリシア人著述家。著書『対比列伝』で有名)によると、ロクサネはペルシア王家の血を絶やし、正妃として専権をふるうようになり、スタテイラ、パリサティス、そしてスタテイラの妹でヘファイスティオンと結婚したドリュペティス共々殺害してしまった。ダレイオス3世の母シシュガンビスも捕虜となって以後、子ダレイオス3世を見限ってアレクサンドロス忠誠を誓っていたが、直後に没したとされる。

 イッソス、アルベラと壮絶な2大合戦を施した各国2人の王がこの世から消え、二国のうちペルシアは崩壊し、一方のマケドニアは後継者の相続戦争(ディアドコイ戦争。B.C.322-B.C.275)に巻き込まれていった。


 斜陽を迎えたアケメネス朝ペルシアの最後の王であるダレイオス3世と、即位したばかりの若きマケドニア王、アレクサンドロス3世との大合戦を中心にご紹介しました。ヘレニズム時代(B.C.334-B.C.30)のうち、ディアドコイ戦争勃発前までの時代にあたります。ちなみにその後はロクサネも子アレクサンドロス4世もディアドコイ戦争に巻き込まれて暗殺されます。

 さて、大学受験世界史における学習ポイントを見て参りましょう。負けないアレクサンドロス軍というイメージが強いイッソスの戦いとアルベラの戦いですが、用語集でみると、イッソスの戦いの方が知名度は高いようですね。アルベラの戦いは、余裕があればガウガメラという戦地も知っておくと完璧です。グラニコスの戦いはまず出題されないと思います。アケメネス朝ペルシアが滅ぶ、つまりダレイオス3世が決戦に敗れたのがアルベラの戦いです。そして、前にも触れましたが、イッソスの戦いは小アジア西部で行われたディアドコイ戦争の1つ、イプソスの戦い(B.C.301)とは区別して下さいね。

 人物ではたくさん女性が登場しましたが、言うまでも無く覚える必要はありません。アレクサンドロス3世、ダレイオス3世、そしてちょろっと登場したヘロドトスや『対比列伝』のプルタルコス(プルターク)だけで結構です。アレクサンドロス3世の愛馬ブケパロスは歴史的に知られた馬ではありますが、試験に登場することはないと思います。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。