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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第264話


輝く戦歴・その1
~誕生と成長~

 13世紀のアナトリア(小アジア)では、ビザンツ帝国東ローマ帝国。395-1453)とルーム=セルジューク朝(1077-1308)との境域が形成されており、ルーム=セルジューク朝はビザンツ帝国からの防衛のため、トルコ系(正確にはテュルク系)部族のムスリム戦士を使って防衛にあたらせた。部族の首長は"ベイ(君侯。ベクともいう。トルコ語で"将軍"、"総督"の意)"の称号で呼ばれ、ルーム=セルジューク朝の権力下で勢力を伸ばした。13世紀半ばになるとモンゴル帝国(狭義1206-71。広義1206-1634)の侵攻などでルーム=セルジューク朝が衰退、トルコ系部族や、モンゴルから逃れたペルシャトルキスタンにいたムスリム戦士はイスラム世界の辺境を脅かす異教徒に対してジハード(聖戦)を行い、戦利品獲得を目指すものとして戦った(この行為を"ガズワ"という)。このガズワを行う戦士を"ガーズィー"と呼び、ベイはこのガーズィーによる集団を使って、国家的機能を持った組織("ベイリク"。君侯国)を作り上げていった。アナトリアは、多くのベイリクが並ぶ群雄割拠の状態となった。

 いっぽう、ビザンツ帝国も首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を第4回十字軍(1202-04)に攻め落とされるも1261年に奪回、ビザンツ帝国パラエロゴス朝(パレオロゴス朝。1261-1453)の時代を迎えていた。しかし国力は全盛期と比べると弱体化は避けられなかった。辺境の軍備も維持が困難になり、帝国に援助を受けた雑多のキリスト教信者からなる戦士集団("アクリタイ"と呼ぶ。"アクリトイ"とも)がこれに変わって防衛した。アクリタイもガーズィー同様、戦争と掠奪を続けた。

 オスマン帝国(1299-1922)を設した初代皇帝オスマン1世(オスマン=ベイ。帝位1299-1326)も、ガーズィーを組織した強力なベイリクの1つであった(諸説あり)。ガーズィーを構成するムスリム戦士や、アクリタイを構成するキリスト教戦士もオスマンのベイリクが統率し、強力な国家を築いていった。オスマンの軍団勢力はその後も強化され、1326年にはブルサを包囲してビザンツ軍を脅かした。オスマンの没後、ブルサは1326年から1365年までオスマン帝国の首都となった。またガーズィーから発展した地方居住のトルコ系騎兵が、ティマールと呼ばれる分与された土地とその徴税権を国家から委ねられ、軍事奉仕を負うようになった。この軍事封土の保有者はシパーヒー(スィパーヒー)と呼ばれ、皇帝直属の軍として制度化された。シパーヒーは騎射(馬上で弓を射ること)を得意とする軽騎兵が中心であった。ティマール制の施行は、ビザンツ帝国のプロノイア制や、これまでイスラム世界にも実施されたイクター制と類似する制度であった。
 なおオスマン1世は、1308年にはマルマラ海(ボスフォラス海峡ダーダネルス海峡に挟まれた内海。黒海とエーゲ海をつなぐ)の東に浮かぶイムラル島(ブルサ県)を攻略するため、艦隊を組織する海軍も創設している。

 2代目皇帝のオルハン(帝位1324?/26-1359?/62?)の頃から常備軍の整備が試みられた。サンジャクベイ(州県郡の行政区分におけるの軍政官)統括下にミュセッレムとよばれた騎兵が百騎、さらに千騎ごとに編制され、ヤヤとよばれた歩兵も十、百、千ごとに編制された。彼らには賃金が支払われ、免税の特権があった。歩兵のヤヤはトルコ系農民の出が多く、平時には農業を行った。しかしこれらは、その後冷遇されて結果的に満足な成果があげられず、16世紀頃までは存在したものの、およそ君主直属の常備軍にはほど遠い存在となった。

 オルハン帝を受け継いだ子ムラト1世(帝位1362?-89)は、父に倣い常備軍の創設を目指すため、大きな軍事改革を施した。
 まず、オルハン帝の時代までは、ベイレルベイ(州県郡の行政区分におけるの軍政官。州は県より上の行政区分)はオスマン家の王子が任命されたが、ムラト1世の時代になると王子はアナトリアのサンジャクベイに任命され、代わりに皇帝の側近となる人物がベイレルベイに任命されるようになった。彼らは宮廷奴隷として皇帝につき、皇帝の寵愛を受けて側近まで昇格していった人たちであった。これにより帝国は、一族あるいはガーズィーとのつながりよりも、側近を重宝して君主権強化を重視した体制へと変化していき、オスマン皇帝は行政権と軍事権双方とも掌握して権力を強めていく。

 ムラト1世はこれまでのようにムスリムのトルコ系兵士を採用するのではなく、奴隷軍人の採用を施した。戦争で捕虜にした異教徒や異民族を奴隷として軍事訓練し、帝国の軍人とする、かつてのアッバース朝(750-1258)で盛んに取り入れられたマムルーク制度(トルコ系を中心とする奴隷軍人)に続く、新しい奴隷軍人"カプクル("カピクル"とも)"の登場である。小アジアではすでにルーム=セルジューク朝(1077-1308)がシパーヒーとともにこのカプクルを採用していたが、オスマン帝国もこれをモデルにしたとされる。

 カプクルの"カプ"はトルコ語で「門」を意味するが、転じて高貴な家をさし、また"クル"は「奴隷」、総じて、"御門奴隷"を意味する。彼らは皇帝直属の兵力となる常備軍人として取り入れられた。ムラト1世は、戦争で得た捕虜のうち、その5分の1を皇帝の取り分として、彼らを皇帝直属のカプクルとしたが、常備軍団の兵士をさらに効率よく継続的に供給するため、次のバヤズィト1世(バヤジット1世。帝位1389-1402)の時代頃から、新たにデウシルメ制度(デヴシルメ制度。devşirme)を採用した(開始時期には諸説あり)。デウシルメ制度はトルコ語の"デウシルメク(=集める)"を由来とする新しい徴兵制度である。帝国領内の諸民族に属するキリスト教徒臣民の子弟を強制徴収し、イスラム教に改宗させて軍事的戦術と学術(トルコ語の修得、イスラム法や『コーラン』の学習)の養育、および軍事訓練を施す方法であり、奴隷市場から費用を投じて奴隷を購入するこれまでのマムルーク制度よりも、低コストで効率的に人員を供給できる画期的な手段であった。デウシルメの対象地域は当初バルカン半島であったが、15世紀以降になるとアナトリアにも拡大した。デウシルメは定期的な実施ではなく、必要な場合にのみ区域と人数を定めて実施されたといわれる。15世紀後半以降のデウシルメ制度は軍事だけにとどまらず、宮廷や地方における官吏の登用にも利用されていく。

 このデウシルメ制度によって徴兵されたカプクル軍団より、のちに火器をも巧みに使用していく精鋭の常備歩兵軍団が誕生し、オスマン帝国軍の中心となる。トルコ語で「新しい」をさす"イェニ"、そして「兵」をさす"チェリ"、まさに新軍の誕生であり、"イェニチェリ"と呼ぶ。
 8歳から20歳ぐらいまでの健全な少年たちをデウシルメで徴収し、イスラム教に改宗させられ、ムスリム名が与えられた。中でもすぐれた容姿と才能がある者は宮廷に残され、それ以外はイェニチェリの軍団要員となり、アナトリアのトルコ系ムスリム農民のもとにあずけられ、農業労働に従事し、トルコ語とムスリムの生活様式を修得する。この段階で彼らは"アジェミ=オウラン(新人の兵士)"となり、予備軍として"アジェミ=オジャウ(新人の軍団)"に編入され、その後、必要に応じて正式にイェニチェリ軍団に編入され、オスマン帝国スルタンの常備軍の一員となる。

 軍団の一員になると、首都の駐屯地に設置されたイェニチェリ用の兵営(イェニチェリ=クシュラスゥ)に集められた。士官となるまでは結婚できないが(16C初頭まで)、俸給が支給される。一兵卒から下士官(かしかん。兵と士官の間)をへて、所属大隊の長へと昇りつめ、最終的に上級の武官、そして軍団の最高指揮官職であるイェニチェリ軍団の長官(イェニチェリ=アースゥ)への昇進の道も開かれていた。ただしイェニチェリ=アースゥは軍事部門の最重要職のポストというだけあって、スルタンの皇帝権が強かった時代である15世紀半ばから17世紀半ば頃の間は、スルタン自らが任命する幅が広がり、軍団員ではなく宮廷奴隷が任命されるのが慣例となっていた。

 ムラト1世時代のオスマン帝国はバルカン半島の征服に乗り出し、1365年にアドリアノープル(現エディルネ)を征服、同市を首都に定めた。さらにセルビア(中世セルビア。王国1171-1346,帝国1346-71,公国1371-1459)らバルカン半島のスラヴ勢力を相手に、1371年9月のマリツァ河畔での戦い、次いで1389年6月のコソヴォ=ポリェ(コソボ平原)が戦場となったコソヴォの戦いにて立て続けに勝利し、ドナウ以南におけるバルカンのスラヴ勢力を手中におさめ、ムラト1世の軍制改革は見事成功し順調なスタートを切った。ただし、ムラト1世はコソヴォ戦でセルビア側に暗殺されており、ムラト1世亡き後は劣勢に転じたため、子のバヤズィト1世は敵軍と戦っている自身の兄弟を処刑して直ちにスルタンに即位し、軍を立て直して敵であるセルビア公(ラザル=フレベリャノヴィチ。公位1371-89)を殺害、実質的な勝利を収めた。

 オスマン帝国の軍事改革は子のバヤズィト1世に受け継がれた。"イュルドュルム(「電光」「稲妻」)"の異名を取るほど、あらゆる軍事戦略への行動が迅速であり、コソヴォ戦以降も征服戦争を矢継ぎ早に行い、バルカンとアナトリアを攻略していった。とりわけビザンツ帝国においても数度にわたって首都コンスタンティノープル(現イスタンブル)を包囲するなど、勢いはますます加速した。この脅威にさらされたヨーロッパ諸国は、ハンガリー王ジグモンド(王位1387-1487。のちのジギスムント帝。神聖ローマ皇帝位1410-37)を中心に、国籍を超えたキリスト教世界の軍、いわば中世最後の十字軍を結成し、バヤズィト1世率いるイェニチェリ軍団およびシパーヒーをはじめとする騎兵団によるオスマン帝国軍とニコポリス(ニコポル。現ブルガリア北部。ドナウ南岸)で会戦することになった。これが、ニコポリスの戦いである(1396.9)。
 バヤジット1世はジグモンド王の十字軍について、西欧式戦法である一騎打ちを仕掛けてくると判断し、中心に歩兵であるイェニチェリを従え、前面にアザプと呼ばれる不正規の軽騎兵を配置、その周囲に奴隷出身の常備騎兵、そして左右両翼にアナトリアとバルカンのシパーヒー騎兵を配置させ、集団戦法の態勢に入った。バヤジット1世の思惑通り、一騎打ちにこだわったフランス軍の騎士たちが、ジグモンド王の制止を振り切って我勝ちに突撃、オスマン帝国軍前線のアザプを追い散らしたが、バヤズィト1世は中心にいたイェニチェリを後退させ、誘い込まれたフランス軍がさらに前進したところを待機していたシパーヒーの猛反撃にあい、ジグモンド王の十字軍はあえなく潰走した。オスマン帝国軍は、ヨーロッパの十字軍をも撃退するにまで発展した。

 すでにアッバース朝(750-1258)は滅亡していたが、アッバース家のカリフ預言者の代理とする、ムスリム全体の最高指導者)は、エジプトのマムルーク朝(1250-1517)に守られていた。時のカリフであったムタワッキル1世(カリフ位1389-1406)は、ニコポリスの戦いにおいて、イェニチェリとシパーヒーを頭脳的に率いて、キリスト教世界の十字軍を撃破したバヤズィト1世を讃え、彼に"スルタン"の称号を付与した(ただし前のオルハンやムラト1世も"スルタン"を用いていたが、ムラト1世までは"ベイ"の称号も名乗っていた)。

 ニコポリス戦に勝利したバヤズィト1世は、その後も征服活動を続け、アナトリアおよびバルカンのほぼ全域を支配下におさめ、1397年にコンスタンティノープル包囲も再開した。この包囲はバヤズィト1世は"稲妻"のごとく素早い行動で、ビザンツ皇帝マヌエル2世(帝位1391-1425)に対し、首都におけるトルコ人居住区域とイスラム法官の設置を認めさせた。マヌエル2世は援助を求めにイギリス、フランス、ドイツを訪ねるも交渉は失敗、しかも皇帝が留守であることをいいことにバヤズィトの軍はますます高圧的にコンスタンティノープル包囲を強める。これまで度重なる危機を乗り越えてきたビザンツ帝国も滅亡寸前にまで追いやられた。

 一方で、中央アジアのソグディアナではティムール(1336-1405。帝位1370-1405)の率いるティムール帝国(ティムール朝。1370-1507)が猛威を振るっていた。オスマン帝国同様、巨大なムスリム国家であり、モンゴル諸国家を呑み込んで勢力を増大化していった。
 オスマン帝国に領土を奪われたベイたちをティムールが保護したことを理由に、バヤズィト1世はティムールとの対立を深めていった。その上ティムールが保護したベイたちを楯に、バヤズィト1世に対し帰順を要求したものの、バヤズィト1世が拒否したことで、ティムールはアナトリア侵攻を決め、1402年、アンカラ(現トルコ共和国首都)近郊のチュブク草原で戦闘が繰り広げられた(アンカラの戦い1402.7)。ティムール軍約20万、オスマン軍約12万と、兵力ではオスマン軍は不利であったが、"電光"の戦術においてはバヤズィト1世側のオスマン軍が有利であった。しかしサマルカンドから遠路行軍し、アナトリアに入ったティムール軍に対して、バヤズィト1世はすぐさま攻撃するはずであった。しかしオスマン軍にいたベイの旧家臣たちがバヤズィト1世を裏切り、ティムール軍に寝返ってティムールに保護されたベイのもとへ移ってしまう事態に陥り、兵力はさらに落ちて即時攻撃する時機を逸してしまった。巧みな騎馬戦で攻撃するティムール軍にイェニチェリも奮戦したが限界を感じ、敗色が濃くなるとイェニチェリは帝国の存続を第一に考え、王子とウル=ヴェジール("大宰相"の意味。ヴェズラザム)を連れて撤退、取り残されたバヤズィト1世は捕虜となり、翌年拘留された状態のまま亡くなったとされる(バヤズィト1世没。1403。ただしティムールからは、亡くなるまで丁重に扱われた)。"強いイェニチェリ"に尽力し、帝国を電光のごとく拡大してきたバヤズィト1世の哀しい最期であった。

 ティムールの活動はその後東方に転じたため、オスマン帝国の存亡の機は免れたが、ティムールによってオスマン帝国の支配から解放されたアナトリアではベイリクの帝国離脱が相次ぎ、首都アドリアノープル(トルコ語では"エディルネ")の宮廷自体も皇帝の後継者争いが激しくなり、国家は分裂状態となった。したがってバヤズィト1世没後の10年間、皇帝が立てられない空位時代が訪れ、帝国は弱体の時代を迎えた。この影響により、同じく存亡の機に立たされていたビザンツ帝国は、コンスタンティノープルの包囲が解けて首の皮一枚残った状況で滅亡を免れた。

 電光石火の戦術で相手をなぎ倒す、イェニチェリを筆頭とする軍団によって、領土を次々と獲得し、周囲にその名を轟かせたオスマン帝国は、バヤズィト1世をアンカラ戦で亡くしたあと、まさに電光のごとく瞬時に崩れていくのであった。どん底を知った大帝国は、半世紀後、新たな段階に突入することになる。

主要参考文献

  1. 講談社現代新書『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 鈴木董著
  2. 新紀元社『オスマン・トルコの軍隊 1300-1774 大帝国の滅亡』 デヴィッド・ニコル著
  3. 中経出版『オスマン帝国600年史』 設樂國廣監修 齊藤優子執筆

 イェニチェリ軍団とそれに関わるオスマン皇帝を中心に、オスマン帝国前半の内容をご紹介しました。『世界史の目』においてもすでに登場したスルタンや用語が目白押しでしたね。

 イェニチェリは、甲冑をつけず軽装で、ヤタガンと呼ばれる武具を腰部に帯刀し、銃砲を身に付けている姿が最もよく知られています(【外部リンク】より引用。16世紀頃の姿)。イタリア戦争(1494-1559)後を転換点とする戦争方式が、これまでの騎士階級による甲冑と刀剣の時代から、銃砲などの火器の時代へと移った、世に言う軍事革命です。のちにイェニチェリもそれを積極的に鉄砲などの火器を採用するわけです。

 さて、大学受験における世界史学習ポイントです。オスマン帝国の大まかな歴史は過去のバックナンバー(Vol.86の学習ポイントとか)で充分要点をおさえることができます。ここでは帝国前半のイェニチェリ関連についてお話しします。
 まず、イェニチェリができるまでのオスマン帝国の軍隊は、トルコ系の騎士がオスマン皇帝から土地(ティマールと言います)を付与されて、その土地での税の徴収を任され、戦争の際には従軍の義務を負う、一種の封建的なティマール制度が大事です。そしてそのトルコ系騎士をシパーヒーと言います。馬に乗って弓矢を放つのが主な働きです。ティマールとシパーヒーは用語集にも出ております。また1857年のインド大反乱シパーヒーの反乱(古くは"セポイの反乱")ともいいますが、このシパーヒーは歩兵であり、トルコのシパーヒーとはまた別です。
 そしてイェニチェリですが、デウシルメ制度というキリスト教少年を徴兵で集め、イスラム教の改宗、トルコ語の学習、戦術の訓練などを積んで、軍隊として組み込まれます。シパーヒーとの違いは、シパーヒーはトルコ系騎士であるのに対し、イェニチェリはキリスト教の少年で、スルタンの奴隷になります。また、戦術もシパーヒーは弓矢と馬の騎馬団、イェニチェリは火器(鉄砲と刀剣)を用い、シパーヒーはティマール制度、片やイェニチェリはデウシルメ制度によってそれぞれ完成する軍団です。受験ではシパーヒーはイェニチェリと関連させて出すよりも、もう1つのシパーヒー関連であるインド大反乱や「Vol..262」のプラッシーの戦い(1757)など、インド絡みで知っておく方が宜しいでしょう。

 さて、この話は続きがあります。バヤズィト1世亡き後のオスマン帝国はどうなるのか?イェニチェリの運命は?スルタンの動向は?次編をお楽しみに。

【外部リンク】wikipediaより

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。