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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第266話


輝く戦歴・その3
~大家との遭遇~

  1. その1 "誕生と成長"はこちら
  2. その2 "帝国軍躍進"はこちら

 オスマン帝国(1299-1922)の常備歩兵軍団であるイェニチェリを世に知らしめたオスマン皇帝、セリム1世(帝位1512-1520)が1520年9月末に没した。第10代オスマン皇帝に即位したのは、彼の子で、"大帝"、"壮麗"の帝"、そして"立法帝"など、偉大なる名を世に轟かせ帝国の黄金期を現出したスレイマン1世(帝位1520-66)である。即位時彼は26歳であり、その美貌で秀麗な姿は過去の皇帝とは引けを取らないほどであった。

 オスマン帝国では、"クズル=エルマ(Kızıl Elma)"の獲得をめざし、達成されるまで聖戦を行うとされた。この"クズル=エルマ"とは"赤いリンゴ"を意味し、それはヨーロッパをさすものと言われる。古代から燦然と輝く強力な異教徒の国家が次々と西方のヨーロッパで形成されたが、スレイマン1世もその"赤いリンゴ"の征服を目指したのであった。

 スレイマン1世は1521年、25万の兵力でハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)からベオグラードを獲得し、ヨーロッパ遠征の滑り出しに成功した。そして次に、父セリム1世が最後に出陣するはずであったアナトリア沿岸部のロドス島遠征に挑み、1522年に20万人の兵と400の軍船を従えて出征、同島を包囲して陥落させ、島を支配していた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)は拠点を失いシチリア島へ落ち延びた。このロドス島包囲戦の勝利により、イスタンブル~カイロ間の地中海航路を安定化させスレイマン1世の評価は高まった。

 1523年、スレイマン1世は父セリム1世の後半の治世を支えた大宰相(ウル=ヴェジール。宰相を意味するヴェジールの筆頭格。ヴェジールはワズィールとも)のピリ=メフメト=パシャ(大宰相任1518-23)を交替させ、宮廷奴隷出身で、スレイマンの少年期からの寵臣である、当時30歳のパルガル=イブラヒム=パシャ(1493-1536)を大宰相に任命した(大宰相任1523-36)。イブラヒム=パシャはスレイマンが足を洗った水を飲むほど忠誠心にあふれた家臣であったと言われるが、彼の大昇進は、慣行に反した異例の早さであり、スレイマンの並々ならぬ寵愛を受けていたことが窺える。スレイマンはイブラヒムを自身の妹(ハティージェ=スルタン。1494以前?-1538)と結婚させ、スレイマンの絶大な信頼を得て、皇帝に次ぐ権力を得た。イブラヒム=パシャは前エジプト総督の反乱を軍を率いてこれを鎮圧すると、スレイマン1世より同総督に任命を受けて、エジプトにも軍を置いた。

 "ヨーロッパへの入り口"であるベオグラードを手中に収めたスレイマン1世率いる軍は、1526年、北進してハンガリーへ侵攻を開始した。5万(~20万)の兵力と200(~300)門の大砲を引き連れたスレイマンの軍隊はハンガリー軍と対峙した。ハンガリー軍の兵力は3万ほどであったが、のちにベーメン王国(ボヘミア王国。1197-1918)の軍やハプスブルク家の援軍が駆けつける予定であった。しかし当時18歳で親征したハンガリー王ラヨシュ2世(位1516-26)は、援軍を待たずして開戦した。騎士層を中心に構成されたハンガリー軍はたちまちオスマン軍の誘導戦術と、強力な大砲に倒れていき、ハンガリー軍を潰滅させた(モハーチの戦い1526)。

 モハーチの戦いに敗れたハンガリー王国は、オスマン帝国によって、領土の大部分を占領されたが、オスマン帝国にとって、この戦における最大の誤算はラヨシュ2世をドナウ川中流右岸のモハーチで戦死させたことであった。ラヨシュ2世が亡くなったことで、次期ハンガリー王の後継者が選定されることになり、ラヨシュの妃マリア(1505-1558)の血筋から選ばれることとなった。マリアはオーストリア大公国(1457-1804)を拠点とするハプスブルク家のブルゴーニュ公フィリップ4世(フィリップ美公。公位1482-1506。フィリップ=ル=ボー)とイベリアのカスティリャ王国(1035-1715)女王ファナ(1479-1555)の娘であり、神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝カール5世(帝位1519-1566。スペイン王カルロス1世。王位1516-56)と、その弟でオーストリア大公、のち次の神聖ローマ皇帝となるフェルディナント(大公位1521-64。帝位1556-64)の妹である。フェルディナントはラヨシュ2世の姉アンナ=ヤギエロ(1503-47)と結婚していたため、次期ハンガリー王として推戴された場合、政略結婚で領土を拡大していったハプスブルク家が、国家規模に発展するいわゆるハプスブルク君主国ハプスブルク帝国。1526-1806)の形成を意味した。
 結果、フェルディナントは兄である神聖ローマ皇帝カール5世の後ろ盾で議会を招集し、ハンガリー王フェルディナーンド1世(位1526-64)として即位した(同時にベーメン王にも即位。位1526-64)。ハプスブルク家はハンガリーとベーメンを領有した大家としてヨーロッパ世界に君臨することとなる。つまり、ラヨシュ2世の死は、ハプスブルク家を台頭させる要因にもなったのである。

 しかし、ハンガリー王国を支配したのはモハーチの戦いに戦勝したオスマン帝国である。スレイマン1世はハンガリーの首都ブダ(現ハンガリー首都ブダペストのうち、ドナウ西岸エリアにブダおよびオーブダの2都市、右岸エリアに都市ペストがあった。1873年これら3都市が合併してブダペストとなる)にオスマン軍を駐屯させた。このためハンガリー王国は、首都をブダから現スロヴァキアの首都であるブラチスラヴァ(ハンガリーでは"ポジョニ"と呼ばれた)に遷した。ハンガリーの貴族達は、神聖ローマ皇帝権の力で議会を招集し、ハンガリー王位を継承したハプスブルク家の介入に異議を唱え、貴族達の頭目的存在であった、トランシルヴァニア(カルパティア山脈に囲まれたルーマニア北西部)を拠点とする貴族サポヤイ家ヤーノシュ1世(1487-1540)をフェルディナントの対立ハンガリー王として即位させた(王位1526-40)。ハンガリー貴族の大部分はヤーノシュ1世を支持し、ハンガリーを構成するマジャール人の民族意識を前面に押し出してハプスブルク王家のハンガリーでの君臨に異を主張した。そして、オスマン皇帝スレイマン1世は、"クズル=エルマ(赤いリンゴ)"の獲得に躓きを許さない立場で、敵国であるローマ帝国打倒に執念を燃やし、反ハプスブルクを掲げるヤーノシュ1世を支持し、ハプスブルク家のフェルディナントと真っ向から対立し、ハンガリーでのこの緊張状態はしばらく続いた。オスマン家がハプスブルク家と初めて向かい合った瞬間であった。ヤーノシュ1世の要請に応じてスレイマン1世はハンガリーを実効支配しようとするハプスブルク家を倒すため、彼らの一大拠点をに向けて軍備を急いだ。

 こうしてハプスブルク家と対立したオスマン帝国は、"赤いリンゴ"を求めて、ついに神聖ローマ帝国に侵攻することになった。スレイマン1世の次なる敵は神聖ローマ皇帝カール5世である。世に言う、ウィーン包囲である(第一次ウィーン包囲1529.9-29.10)。神聖ローマ帝国の構成する領邦の1つであり、神聖ローマ皇帝を輩出するハプスブルク家の大拠点であるオーストリア大公国の首都ウィーンへの攻撃である。オスマン帝国軍の兵力は12万で、イェニチェリ軍団、常備騎兵団、地方騎兵団、砲兵団で構成、300門の大砲を引っさげてウィーンに侵攻した。ウィーンを防衛するオーストリアの兵力は、スペインやドイツ領邦からの支援があったものの、オスマン軍に遠く及ばなかった(約1~2万数千。最大でも約5万数千。大砲もおよそ70門)。
 当時神聖ローマ帝国はフランス王国(ヴァロワ朝。1328-1589)とも戦争中であった。イタリア戦争(1494-1559)である。特に1525年のパヴィア(イタリア北西部。現ロンバルディア州)での戦闘では、カール5世が軍を指揮したフランス国王フランソワ1世(王位1515-47)を捕虜にし(のち釈放)、その後フランスがローマ教皇やミラノ、フィレンツェといったイタリア都市と同盟を結んで強化をはかるも(コニャック同盟。1526-30)、カール5世の軍勢に敗れた。このように、イタリア戦争ではドイツ(神聖ローマ帝国)が優勢であった。
 一方ドイツ国内では新教ルター派による宗教改革(1517-1555)で揺れ動いていた。モハーチ戦勃発直前、カール5世はオスマン帝国軍のヨーロッパ進出に備え、第1回シュパイエル帝国議会(1526.8。シュパイアー帝国議会。シュパイアーはドイツ中南部)を召集し、ルター派を容認して国内安定をはかるが、ルター派諸侯の台頭を招き、オスマン帝国軍のウィーン入城前の4月に第2回シュパイエル帝国議会(1529.4)を開催、カトリック諸侯を擁護してルター派再禁止を決議した。こうしたドイツの状況を捉えたフランスのフランソワ1世は、敵対するカール5世を倒すため、カール5世と同じカトリック教徒でありながら、ドイツでは再び異端となったルター派を支援して国内をより混乱させようとし、しかもウィーンを包囲するオスマン帝国に対して、大宰相パルガル=イブラヒム=パシャとの交渉により、異教国ながら友好な関係を結んだ。フランスにしてみれば、オスマン帝国との関係が良好であれば、ドイツを挟撃可能な状態であり、カール5世を牽制するには充分の材料であった。

 ウィーンを包囲したスレイマン1世はただちに攻撃を始めたが、オーストリア軍は兵力の差から攻撃面よりも防衛面に重視し、堡塁や土塁で防衛線を固めてオスマン軍の砲撃から死守した。このため、攻城が予想外に手間取り、しかも悪天候で輸送困難な行路であったためすべての大砲が揃わないアクシデントもあった。しかも、包囲をはじめた時期は10月で、冬の到来の早いウィーンでの攻防戦となると、防寒対策に予断を許したオスマン帝国軍はいくら兵力が多くても長くは続かなかったのである。また大宰相パルガル=イブラヒム=パシャの軍もオーストリア軍の奇襲攻撃にあい潰走、このためスレイマン1世は10月半ば過ぎにウィーンからの全軍撤退をはじめた。

 オスマン帝国はその後もフランスとの関係を崩さず、大宰相パルガル=イブラヒム=パシャはフランソワ1世と軍事的な同盟を結んでハプスブルク家に対抗することを約した。その代わりにオスマン帝国領内における通商特権をフランスに与えるという、のちのカピチュレーション(恩恵待遇。帝国内に在留する主にキリスト教外国人の治外法権、租税免除、身体の自由、財産権保障等を容認)にもつながる待遇を授与した。

 オスマン帝国はウィーン包囲でその勢力をヨーロッパ諸国に見せつけたものの、ウィーンを陥落させることはできなかった。ハプスブルク家の外敵フランスから支援されても、またドイツ国内で宗教改革に揺れている状態でも、自軍の兵力が桁外れに備わっていても、"赤いリンゴ"を射止めることはできなかった。また残っていたハンガリー問題においても大きな影響が出た。ハンガリーではじめてハプスブルク家と向かい合ったオスマン帝国だが、1540年にオスマン帝国と、反ハプスブルク派のハンガリー貴族に支持されたヤーノシュ1世が没してしまう。サポヤイ家の要請によりオスマン帝国軍は1541年にブダを制圧した。その結果、ハンガリー王国の北部および西部はハプスブルク家の領土(ハプスブルク家領ハンガリー。1526-1867)となり、ハンガリー王位はハプスブルク家が支配することをオスマン帝国も承認、ハプスブルク家領ハンガリーは王領となった。またハンガリー中央部と南部はオスマン帝国の領土(オスマン帝国領ハンガリー。1541-1699)、そして東部のトランシルヴァニアはオスマン帝国に臣従的なサポヤイ家の領土(サポヤイ家領ハンガリー。東ハンガリー王国。1526?/1529?-70)となった。3分割されたハンガリー王国としてはその領土が大幅にオスマン帝国によって失われ、ハンガリー王位はハプスブルク家に奪われる形となった。

 オスマン帝国側にしても、モハーチの戦いでハンガリーを打ち負かしたものの、ハンガリー全土がオスマン帝国領とはならず、ウィーン攻めも包囲までに終わった。一方、西ヨーロッパ世界側にとっては、ハンガリーの国土大半を奪われ、ウィーンが1ヵ月近く包囲されたことは、ビザンツ帝国(395-1453)の滅亡(1453)以来の大きな衝撃であった。スレイマン1世の率いるオスマン帝国軍の際だった強さは、西方世界にとっては脅威であった。

主要参考文献

  1. 講談社現代新書『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 鈴木董著
  2. 新紀元社『オスマン・トルコの軍隊 1300-1774 大帝国の滅亡』 デヴィッド・ニコル著
  3. 中経出版『オスマン帝国600年史』 設樂國廣監修 齊藤優子執筆

 オスマン帝国の華やかな時代へと突入です。まさに黄金時代を現出した大帝スレイマン1世の治世がおとずれました。"クズル=エルマ"、つまり「赤い林檎」を求めて、西ヨーロッパ方面への遠征を大々的に行い、ついにハプスブルク家と遭遇することになります。

 ではさっそく大学受験での学習ポイントを見て参りましょう。スレイマン大帝の時代はフランスはヴァロワ朝フランソワ1世、ドイツは神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)がいた時代です。フランソワ1世とカール5世絡みではイタリア戦争が重要ですが、これにスレイマン1世が絡んでくると、ドイツ宗教改革、そしてウィーン包囲が重要です。ウィーン包囲の1529年は非常に重要。結局ウィーン攻めは失敗しましたが、西欧世界には脅威となりました。ウィーン包囲のあった前後のドイツ国内では宗教改革の真っ直中であることも注意が必要です。スレイマン1世とフランソワ1世絡みでは、宗教改革、オスマン帝国関連で登場する用語で、オスマン帝国がフランスに対して、帝国内の治外法権や貿易特権を与える、"カピチュレーション"という語がありますが、これまでの旧課程ではスレイマン1世とフランソワ1世との間でのやりとり(本編ではオスマン側は大宰相が行う)が始まりとされてきましたが、新課程ではスレイマンの次のセリム2世(1556-74)の治世が実質的なカピチュレーション開始となっています。いずれにせよ、スレイマン1世(オスマン帝国)とフランソワ1世(フランス・ヴァロワ朝)が同盟を結び、カール5世(神聖ローマ帝国をはじめとするハプスブルク家の支配域)を共通の敵としています。

 あと、本編のもう1つのハイライト、ウィーン包囲の前にオスマン帝国軍がハンガリーを攻略した戦争、モハーチの戦い1526)は地味ですが歴史的重要な戦争で、用語集にも登場します。若きハンガリー王ラヨシュ2世を戦死に追い込んだ戦争で、ラヨシュ2世の戦没がハプスブルクの進出を招く結果になります。受験では本編まで細部に登場することは稀ですが、オスマン帝国がハンガリーを征服した戦争として、知っておくと便利です。その後ハンガリーはハプスブルク家の領土、オスマン帝国の領土、オスマン帝国を支持するトランシルヴァニアの貴族(サポヤイ家)の領土に3分割されます。オスマン帝国領とサポヤイ家領のハンガリーは、のち1699年の、あの条約でオスマンが握っていたハンガリーとトランシルヴァニアをそっくりオーストリアに割譲する羽目になります。この話はだいぶ後でお話ししますが、次回のその4は、本編に登場した大宰相であり軍司令官パルガル=イブラヒム=パシャにもスポットをあてます。さらにオスマン海軍が活躍する、1538年の有名な海戦も登場します。

【外部リンク】wikipediaより

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(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。