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世界史の目

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ギャラリー

第42話


膨張と対立19世紀のアメリカ

 1776年、アメリカは独立戦争でイギリスからの独立を宣言し、1783年のパリ条約締結で、独立13州を主とするアメリカ合衆国独立が承認され、ミシシッピ以東のルイジアナも獲得した。13州とは、ニューハンプシャー・マサチューセッツ・ロードアイランド・コネティカット・ニュージャージー・デラウェア・ニューヨーク・ペンシルヴァニア・メリーランド・ヴァージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージア、計13の元植民地のことである。1787年には合衆国憲法が発表されたが、この憲法が制定されるまでの過程を通じて、1787年から翌88年にかけて憲法草案をめぐる対立が生まれた。憲法草案を支持した人々は連邦派フェデラリスト。基盤は資本家)と呼ばれ、独立戦争時代にジョージ=ワシントン(1732~99)の副官を務めたアレキサンダー=ハミルトン(1757~1804)が連邦派の中心となって動き、連邦国家の権限(連邦主義)を主張した。一方、憲法草案に反対した反連邦派(アンチ=フェデラリスト。基盤は農民・商工業者)は、独立宣言起草者のトマス=ジェファソン(1743~1826)が中心となり、州の権限(州権主義。反連邦主義)を主張した。この対立は1800年の大統領選挙によって競われ、結局反連邦派のジェファソンが勝利を収めた(任1801~09。"1800年の革命")。ジェファソン率いる反連邦派はリパブリカン党民主共和党)を結成した。
 ジェファソン大統領は、同1800年ワシントン市に遷都を決定、1803年、当時フランス(ナポレオン時代)が所有していた大陸領ルイジアナを買収した(ミシシッピ以西のルイジアナ。もともと1763年のパリ条約でフランスから割譲されたスペイン領。1800年にフランスに戻されていた)。

 ヴァージニア出身のマディソン大統領(民主共和党。任1809~17)の時には、アメリカとイギリス本国との間に亀裂が再度生じて、米英戦争(別称"第2次独立戦争"。1812~14)が勃発し、その間はイギリスとの貿易が絶えたため、合衆国北東部のニューイングランド地方は自立的経済がすすみ、木綿工業が発展していった。そして次の第5代大統領モンロー(民主共和党。任1817~1825)の時代になると、民主共和党の一党政治が実現し、1819年には、スペインからフロリダを買収した。
 この頃はラテン=アメリカ諸国の独立運動が盛んとなっていた時代で、ハイチ、ベネズエラ、コロンビア、ボリビア、アルゼンチン、チリ、ペルーなどが次々と独立を達成していった。またヨーロッパでは、旧秩序の復活を目指してウィーン会議1814.9~15.6)が開かれ、議長メッテルニヒ(1773~1859。オーストリアの政治家)はヨーロッパの反動を推進し、ロシア皇帝アレクサンドル1世(位1801~25)もウィーン体制強化による神聖同盟を結成(1815.9)、同じく、同体制の安定をはかってイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンらによる四国同盟が結成(1815.11。フランスが1818年9月に参加して五国同盟となる)された。メッテルニヒはラテン=アメリカ諸国の独立運動に軍事干渉しようとし、またロシアをはじめとするヨーロッパ諸国も太平洋岸の進出を図ったため、1923年、モンローはアメリカ大陸諸国を確保する目的から、ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸との相互不干渉を宣言した(モンロー宣言モンロー教書)。この外交路線は、非同盟と中立を維持しする孤立主義政策となり、モンロー主義と呼ばれた。

 このような展開の中、アメリカ国内では、反連邦派の民主共和党に対抗して、連邦派による国民共和党が結成された(1824)。その後1828年の大統領選挙が行われたのだが、独立達成以降、大陸西部the West。独立後の東部13州に対する語。アパラチア山脈以西で北緯40度線以北地域)への開拓の野心が高まり、フロンティア辺境)が西方へと移動し(西漸運動。せいぜん)、白人の西部入植が増加していた。また政党の大衆化などの働きによって、民主共和党内では、西部出身の農民や労働者などの左派が台頭していった。そんな中、西部出身で、米英戦争時の司令官としてイギリス軍に大勝した英雄ジャクソン(1767~1845)が1828年の大統領選挙に打ち勝ち、第7代大統領となった(任1829~37。"1828年の革命")。初めての西部出身の大統領ということもあり、資本家が多く形式的な東部の人民に衝撃を与えた。

 ジャクソン大統領は"キチン=キャビネット"といわれる政治手法をとり、ジャーナリストらを活用して民衆中心の政治を推進した。資本家らを抑えて民衆側にたった政策は、ジャクソニアン=デモクラシー(ジャクソン民主主義)と呼ばれる。普通選挙制度、公立学校建設などを進め、大統領の所属党派を官僚に任命(スポイルズ=システム。猟官制)し、政権変動によって交代する慣行(官職交代制)も導入したことによって、これまで上流階層の世襲によって独占された官職を見直し、誰でも入官できる形式をとった。またジャクソン大統領の民主主義政策の推進にともない、民主共和党を民主党と改名、1829年から1861年の間、大統領は民主党がほぼ独占することになる。

 ジャクソン大統領は、フロンティア=スピリット(開拓者精神)を重要視し、東部の森林地帯で狩猟を営んでいた先住民・インディアン(インディオ。ネイティヴ=アメリカン)を西部の保留地に強制移住させた(1830。インディアン強制移住法)。こうして西部開拓は進展の傾向をみせるとともに、狩猟地を奪われたインディアンは人口減少を辿っていった。

 民主党は、州権主義を主張する大陸南部The South。ヴァージニア以南地域)を有力な地盤とした。南部は独立以前から、黒人奴隷を有力な労働源とし(奴隷制度)、プランテーション農場によって綿花・タバコなどの栽培が行われた。それをさらに発展させたのが、アメリカ人発明家ホイットニー(1765~1825)が1793年に発明した綿繰り機の誕生で、アメリカ産業革命ブームの火付け役となり、南部は綿花産業の宝庫となるのである。南部はイギリスに、材料を輸出して工業製品を輸入するという相互依存関係にあったため、アメリカ国家は、外国製品に対して無関税・禁輸制限なしといった自由貿易制度の主張があった。それゆえ、国民共和党が主張する連邦主義を否定して、民主党の主張する州権主義を支持していくことになる。

 一方ジャクソニアン=デモクラシーに対抗する連邦主義の国民共和党は、1834年、ホイッグ党と改称した。ホイッグ党はもともとイギリスが発祥となっている。かつて王政復古(1660)によってイギリス・第二次ステュアート朝(1660~1714)が再興されると、絶対王政時代の再現を狙う国王がすかさず専制体制をしいた。その王位継承で王弟が選ばれるにあたって、絶対王政に反対する進歩的な中産市民の政党が結成された。それがイギリスのホイッグ党であり、アメリカ国内でも、国民共和党がこれにあやかり、ジャクソニアン=デモクラシーをジャクソン大統領の"専制"と批判したわけである。
 ホイッグ党は大陸北部The North。オハイオ以北)を有力な地盤としていた。商工業が発展しつつあった北部では、産業においてイギリス本国を"競合国"と認識するようになり、アメリカ市場確保を目的として、イギリス資本・イギリス製品の排斥を主張、保護関税貿易(保護貿易)の立場をとり、南部の奴隷制度に反対して、連邦主義を支持していた。

 一方、領土問題に視野を向けると、第11代大統領ポーク(民主党。任1845~49)の時、アメリカ領土はいっきに拡大した。全ルイジアナがアメリカの手に渡った頃から、メキシコ方面にも入植を推進した。とくにテキサス(1821年よりメキシコ領)では、アメリカからの移住者による反乱が相次いでおり、ジャクソン大統領の時に独立を宣言していた(1836)。メキシコの反抗に遭いながらも1845年、テキサス州として合衆国に加入が実現した(テキサス併合)。ジャーナリストのオサリヴァン氏は、『デモクラティック=レヴュー』内の記事で、アメリカの西方への領土拡大は天なる神から与えられた使命であり、民主主義からくる領土膨張は正当なものとして、「膨張の天命("明白な運命"、"マニフェスト=デスティニー")」という言葉を使用した。"膨張の天命"によって、翌1846年にはオレゴン(太平洋岸コロンビア川流域)で英米間に協定が成立、イギリス領カナダとの国境を北緯49度線とした(オレゴン併合)。

 オレゴンに続いて再度メキシコ国境に集中したポーク大統領は、カリフォルニアとニューメキシコの獲得に向けた。メキシコを挑発して軍事行動を起こし(アメリカ=メキシコ戦争。米墨戦争。べいぼく。1846~48)、戦勝したアメリカは1848年カリフォルニアニューメキシコをメキシコより獲得した。カリフォルニアでは、獲得した48年に金鉱が発見され、そのニュースが全世界に伝わると翌1849年の1年間で、金鉱熱から8万人以上の移民が殺到し、人口が激増、開発が進行した。このゴールド=ラッシュに詰めかけた人々を49年者(フォーティーナイナーズ)という。アメリカの膨張政策に大きく貢献したポーク大統領は、この年に没した。ちなみにその後、第12代テイラー(任1849~50)・第13代フィルモア(任1850~53)と、ホイッグ党政権が続いたが、フィルモア大統領の時、東インド艦隊司令長官だったペリー(1794~1858)が鎖国中の日本に赴き、フィルモア大統領の国書を奉呈、開国を求めている。これまでアメリカは日本の異国船打払令(1825制定)によって開国に失敗しており(モリソン号事件。1837)、打払令が緩和された1842年以降においても、司令長官ビッドル(1783~1848)による開国交渉(1846)は失敗していた。第14代ピアース大統領(民主党。任1853~57)の時、ペリーは他の列強がヨーロッパでのクリミア戦争(1853~56)で集中しているのをよそに、再度日本に赴き、軍事圧力をかけて日本に開国を迫り、日米和親条約を締結させた(1854。神奈川条約)。

 南北対立は西部開拓の進行や新州獲得とともに激しくなった。州の一歩前の段階が準州(territory。准州)で、州設置のための準備区域とされた。成年男子自由人の人口が5千人に達すると準州と承認され、連邦政府から知事を派遣して自治政府を認められる。準州の人口が6万人に達すると、連邦議会によってから州への昇格が審議され、議会の承認を得て設置されるが、設置の際に、奴隷制を認める奴隷州と、認めない自由州の承認も必要であり、溯ること1820年には南部11州の奴隷州と、北部11州の自由州が存在した。同年に、ミズーリ準州の州昇格の審議が連邦議会でおこされ、奴隷制度の承認をめぐって北部と南部の各議員が対立した。そこで議会は同年、ミズーリ協定を成立させ、ミズーリは奴隷州とするが、北緯36度30分以北にはこれ以上の奴隷州を作らないと協定した。1850年にはカリフォルニアが自由州として昇格したが、同年に奴隷逃亡取締法(1865廃止)が制定されたことで黒人奴隷の解放運動は北部を中心に激化し、1851年にはストウ夫人(1811~96)も奴隷制度廃止を訴えて『アンクル=トムズ=キャビン(アンクル=トムの小屋)』を著し、奴隷制反対の世論が高まっていった。

 さらに、カンザスとネブラスカを準州とする際では、カンザス=ネブラスカ法を成立させた(1854)。アンクル=トム効果によって奴隷制反対の反響が大きい中、両準州が今後奴隷制を認めるか否か、つまり奴隷州になるか自由州になるかは住民の決定に任せるとした法律だったが、明らかにミズーリ協定を無視した形であり、奴隷制に反対する北部の反発は必至であった。奴隷制の拡大を防ごうとする北部を地盤に持つホイッグ党は、奴隷制反対をスローガンに、西部農民や北部資本家らの支持を集め、同1854年、ホイッグ党を解党、共和党を結成した。

 奴隷制度による南北対立はこれだけでは収まらなかった。特に北部の奴隷解放運動は徐々に急進化し、奴隷制即時廃止論者(アボリショニスト)による運動の活発化(奴隷制廃止宣伝紙『リベレイター』刊行など)や、黒人奴隷の北部への逃亡をアシストする地下組織(the Underground Railroad。奴隷解放秘密結社"地下鉄道")も結成された。早くから"地下鉄道"で活動していたアボリショニストのジョン=ブラウン(1800~59)は、1859年、ウェストヴァージニア州の山中で武装した同志の黒人らと陣地を築いて奴隷の全面蜂起を呼びかけ、同州の連邦兵器庫を襲撃する事件を起こしたが失敗、南部ヴァージニア出身の陸軍人ロバート=エドワード=リー(1807~70)らによって鎮圧、捕らえられて絞首刑に処された。
 アボリショニストの急進的活動が展開される間、ミズーリ協定の違憲も取りざたされた。ミズーリ州(奴隷州)の黒人奴隷ドレッド=スコットが解放を求めてイリノイ州(自由州)とウィスコンシン準州に移住した問題、いわゆるドレッド=スコット事件で、ドレッドは自由を獲得したと提訴しようとしたが、結局最高裁では彼の提訴権の否定とミズーリ協定の無効を決め、奴隷は自由州に逃亡しても解放されないとの判決が下り、南部側の勝利となった(1857。ドレッド=スコット判決)。これにより北部の奴隷制反対派はこの判決に猛抗議を展開した。

 こうした中で行われた1860年の大統領選挙では、当然黒人奴隷制度問題を最大の争点とされた。南部が支持する民主党からはジョン=C=ブレッキンリッジ(1821~75)が、北部が支持する共和党からはエイブラハム=リンカンリンカーン。1809~65)がそれぞれ立候補した。
 リンカンは貧農の出身で、苦学して弁護士の資格を取得、地元イリノイで開業していた。その後ホイッグ党に入党して州議会議員(1834~41)、下院議員(1847~49)を経た。アメリカ=メキシコ戦争に反対して一時的に政界を引退していたが、奴隷問題が立ち上がると、奴隷制廃止論者の立場に立った。とはいってもアボリショニストのような極端に即時廃止を求めず、奴隷制の地域的拡大を望まない穏健派で、奴隷問題を民主的に解決する道を考えていた(解放論者ではなく、あくまでも拡大阻止派)。このため、カンザス=ネブラスカ法に反対して共和党に参加(1856)、イリノイ州選出の上院議員に立候補した(1858)。この選挙には敗れたものの、名演説("分かれた家は建たない")でその名を全米に知らしめ、1860年の大統領選挙の出馬となったのである。

 この大統領選挙戦では、民主党は圧倒的不利であった。南北対立激化と共和党の強大化によって、党自体も南北両派に分裂する危機を迎え、これまでの力強さは薄れていた。結果共和党リンカンが圧勝して第16代大統領として当選を果たした(任1861~65)。これにより、南部諸州は合衆国連邦からの離脱独立を宣言し(1861.2)、アメリカ連合国(1861~65。首都:リッチモンド)を建国、ジェファソン=デーヴィス(1808~89)を連合国大統領にたてた(任1861~65)。リンカンは連合国建国を違法と主張、デーヴィスはジョン=ブラウン事件で功のあったロバート=エドワード=リーを南軍の大将及び大統領軍事顧問に就任させた。

 そして1861年4月12日、南軍は、連邦軍が守備するサウスカロライナ州チャールストン港にあるサムター要塞を砲撃、遂に南北戦争(Civil War)が勃発した。この戦争は地雷、甲鉄艦(こうてつかん)、鉄条網(有刺鉄線)、塹壕(ざんごう)などが戦場に登場する、最初の近代的総力戦の様相を呈した。また電信や鉄道の役割は、軍事的な意味で大きかった。初期はリー将軍を中心とする南軍が優勢であったため、翌1862年、北部の共和党政府は、西部の支持を得るためにホームステッド法(自営農地法)を制定した。これは、西部で5年間定住し開墾した人には、160エーカーの土地を無償で提供するという法律であり、占有して1年後に1エーカー(約40アール)につき1ドル25セントの支払いにより所有権を認めた。これにて西部開拓はいっきに促進し、西部は北部の支持を獲得した。もともと北部は南部と違って人口も多く、軍需資材の自給も可能であり、広大な土地を所有するため鉄道の敷設距離も充分であったため、次第に北軍が勢いを盛り返し始めた。同1862年2月、陸軍大佐ユリシーズ=シンプソン=グラント(1822~85)らが指揮する北軍が、南軍のヘンリー要塞、ドネルソン要塞を次々に陥落させ、北軍最初の勝利を挙げた。4月26日には、北軍艦隊はミシシッピを渡河、南部最大の都市ルイジアナ州ニューオリンズを侵攻、同地にある造幣局でアメリカ国旗を掲げ、同地を占領した。

 同1862年9月22日、北部のリンカンは、さらに必要な措置として、南部反乱地域において、ある通告をした。すでに南部諸州が100日以内に連邦に復帰しなければ奴隷解放の宣言を行うだろうという内容だった(予備宣言)。そして、翌1863年1月1日、本宣言が発表された。これが奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)である。 この宣言で、南部諸州以外の、合衆国内の奴隷(約400万人)が解放されたが、これは南部奴隷の決起を期待した、解放論者でもない筈のリンカン大統領の戦略であり、本国イギリスや、当時のメキシコでの内乱(1861~67)により同国へ出兵していたフランス・ナポレオン3世(位1852~70)からの干渉を排除するための措置でもあった。

 グラント将軍は、その後各地で戦果をあげ、1864年、北軍の最高司令長官に任命された時は、形勢が逆転しており、北軍が戦局を有利に導いていた。そして、1863年7月3日、ペンシルヴァニア州のゲティスバーグ近郊での戦闘で、南北戦争の山場を迎えた(ゲティスバーグの戦い)。
 ゲティスバーグでの3日間の戦闘は、開戦以来の最大の激戦と化した。リー将軍率いる南軍はゲティスバーグ侵攻後に合衆国首都のワシントンを攻め入る計画をたてていた。補給が尽きて肉弾戦を展開する南部軍に対して、兵量豊富な北軍は容赦ない砲撃で次々と南軍の兵士を倒し、両軍合わせて5万人以上の戦死者を出した。遂に南軍はゲティスバーグから撤退、ワシントン侵攻も断念する方向をみせた。リンカン大統領は、11月19日、ゲティスバーグに赴いた。同地では国立墓地となった戦場で戦没者慰霊集会が行われ、大統領はこの集会に出席、民主主義の本質を示すための、たった2分間の短い演説を行った。
 「人民の、人民による、人民のための政治を地上から消滅させてはならない・・・・・・・・・」

 1865年4月3日、アメリカ連合国の首都リッチモンドは陥落し、北部の勝利が決定した。9日、リーはグラントと会見して南軍の降伏文書に署名、ジェファソン=デーヴィス大統領も逮捕された。こうして62万人もの戦死者を出した南北戦争は遂に終結となった。その後4月14日、リンカンは、ワシントンのフォード劇場で観劇中、狂信的な南部主義者の俳優ジョン=ブースの銃弾に倒れ、翌15日朝、没した。

 戦争終結後、南部諸州の連邦復帰に際して、南北に分裂状態だった民主党も全国規模に復活した。その後南部出身で民主党員だったアンドリュー=ジョンソン(1808~75)が第17代大統領に就任したが(民主党。任1865~69)、これまで共和党リンカンのもと、北部を支持していたことで、南北統一にむけて、リンカンの偉業を継承する意を表明し、南部再建策を施すものの失敗が続き(後述)、グラントら共和党の反発により史上最初の大統領弾劾裁判にかけられるなど苦悩の日々が続いた。しかし、ロシアからアラスカを低コストで買収するなど(1867アラスカ買収)、大陸拡大も努めた。グラントは次の大統領選挙に当選し就任(第18代。共和党。任1869~77)、西部への大量移民を可能にした大陸横断鉄道開通(1869)の実現があったが、政治的には能力を欠き、南部は依然として民主党にすがりつく姿勢であった。

 また、西部開拓は終戦後も続いた。途中アパッチ族ジェロニモ(1829~1909)の激しい抵抗(1885~86)もあったものの、1890年、政府はようやくフロンティアの消滅を発表した。大陸内での開拓が終了すると、徐々に帝国主義政策を打ち出し、海外に視野を広げてフィリピン・プエルトリコ・グアムをスペインから割譲に成功(米西戦争。アメリカ-スペイン戦争。1898)、また同年ハワイを併合し、翌年には中国市場にも進出するなど、膨張策に奔走した。

 終戦後の北部では、資本主義が本格化し、石油業・鉄鋼業など、多くの独占体制がしかれた。またフロンティアの消滅に伴い、西部市場が拡大、そのうえ合衆国の将来性を期待して他大陸からの移民も続々と集まったため、人口の爆発的な増加がおこった。農業国から工業国へと示された1880年代には、労働人口も増え、数々の労働問題を生みだした。熟練労働者代表のサミュエル=ゴンバーズ(1850~1924)が結成した職業別労働組合・AFL(アメリカ労働総同盟。American Federation of Labor)が登場したのもこの頃である(1886結成)。

 一方、荒廃した南部では、大農園没落により中産階級が台頭した。また黒人層の弾圧も続き、南部白人層によるテロ組織KKK団(クー=クラックス=クラン)がテネシーで結成され、元南軍の騎兵隊長を務めたネイサン=フォレスト(1821-1877)を中心に、目だし白頭巾をまといながら、不条理で残虐な黒人弾圧を展開した。また南部諸州ではブラック=コードと呼ばれる黒人取締法が制定されて(1865~66)、奴隷制をあくまでも維持しようとし、選挙投票税賦課、人種間の結婚禁止、夜間外出制限など、黒人差別が極端化した。解放後も黒人は土地のない小作人になるしかなく、地主によって分けられた土地を借りて収穫の半分を払うなど(シェア=クロッパー制度。分益小作制)、改善は止まなかった。
 黒人解放に関し、憲法においては、3度修正された。1865年、憲法修正第13条でリンカンの"奴隷解放宣言"が明文化され、3年後の1868年、黒人の公民権を保障(第14条)、さらに1870年に、黒人の選挙権を保障して、白人との社会平等が決められた。しかしこの修正条項は形式だけが先行し、その後も黒人に対する社会的身分的差別・公民権闘争は続いた。実質の法的平等が実現されるのは、1964年公民権法の制定まで待たねばならなかったが、制定後も、人種差別の撤廃にむけて、数々の諸問題が発生しており、人種統合の平和的解決に向けて、様々な努力が払われている。


 これまでアメリカ史は、Vol.11アメリカ独立戦争、Vol.28サッコ・ヴァンゼッティ事件で取り上げましたが、今回は最も激動の時代が展開された19世紀を紹介しました。19世紀といえば、ナポレオンの大陸支配→ウィーン体制→独立運動・革命運動→資本主義と社会主義の誕生と、全世界で大規模に社会が揺れ動いた時代です。そして、20世紀になると、国家膨張における帝国主義がおこり、軍事、経済、産業、そして国際的地位の発展をめぐって、数々の大戦争が勃発していくわけです。

 独立戦争終了からのご紹介でしたので、意外と長文になってしまいました。しかし、この時代は入試でもよく出題される分野であり、非常に重要な要素が多く含まれています。

 では今回の学習ポイントを見ていきましょう。大陸領土の拡大は非常によく出題されます。では、おさらいしましょう。まず、1783年、ミシシッピ以東のルイジアナはイギリスから、1803年はミシシッピ以西のルイジアナをフランスから、1819年フロリダをスペインから、それぞれ得ました。また1845年にはメキシコから独立したテキサスを併合、翌46年にはオレゴンを併合しています。さらに1848年、米墨戦争によってカリフォルニア・ニューメキシコをメキシコより割譲し、時が経って1867年にはロシアからアラスカを買いました。フロンティアの消滅後は、海外進出によって、1898年、フィリピン・プエルトリコ・グアムをスペインから割譲、また同年ハワイ併合も実現しています。

 アメリカの二大政党(民主党・共和党)に関する問題もよく出ますが、この時期は南北対立と絡めて出題されます。あわせて覚えておきましょう。共和党は北部が地盤で、民主党は南部が地盤です。北部は商工業中心で、保護貿易・奴隷制反対・連邦主義を主張するのに対して、農業中心の南部は自由貿易・奴隷制賛成・州権主義を主張します。

 南北戦争関連の問題では、4人の人物を南北別に整理しておきましょう。北部のリンカン大統領とグラント将軍、南部のジェファソン=デーヴィス大統領(アメリカ連合国)とリー将軍の4人です。グラント将軍はその後大統領になりますが、大統領としてのグラントの出題は低いです。

 最後に奴隷解放後におこった人種差別問題ですが、顕著となるのは1950年代から60年代です。本編の憲法修正により、平等化は決められましたが、実質公民権法制定までは、憲法修正による効果は薄く、多くの人種差別問題を引き起こしました。また公民権法制定後も真の解放に向けて多くの公民権運動が起こっています。黒人解放運動の指導者として有名な人物として、バプティスト派の牧師マーティン=ルーサー=キング(キング牧師。1929~68)が挙げられます。本編とは時代が異なりますが、重要人物ですので知っておきましょう。