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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第49話


十字軍・後編

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 聖地イェルサレム奪回(1099)に成功した十字軍は、シリアにイェルサレム王国(1099-1291)を建国したが、勢力を盛り返したセルジューク族が反撃に出た。1146年、王国に属するエデッサ伯領(1098-1146)は、セルジューク族の流れをくむアレッポ(現シリア第2の都市。ハラブ)方面に起こったザンギー朝(1127-1222)によって奪還された。まもなくアンティオキア侯領東部も奪還されたため、各国は十字軍の再編にとりかかり、クレルヴォー修道士ベルナール(1090?-1153)の勧説もあって、1147年、フランス・カペー朝(987-1328)の国王ルイ7世(若年王。位1137-80)とドイツ・ホーエンシュタウフェン朝シュタウフェン朝。1138-1208,1215-54)の国王で同王朝初代の神聖ローマ皇帝コンラート3世(位1138-52)が統率して、陸路東進の方針で遠征に取りかかった(第2回十字軍1147-49)。しかしビザンツ軍の協力は得られず、再び起こった仏独間の対立などで、統一感を欠きながらシリア沿岸の港市アッコンに到達した。そこで、拠点ダマスクスに侵攻するが失敗し、退散した。

 アレッポのザンギー朝に仕えていたイラク地方の山岳遊牧民クルド族武将サラーフ=アッディーンサラディン)は、その後カイロのファーティマ朝で、宰相として仕えていた。サラディンはイスラム勢力の統一を目指しており、やがてファーティマ朝の弱体化に伴い、自身の国アイユーブ朝を創始した(1169-1250)。そしてファーティマ朝カリフ・アーディド(位1160-71)に迫ってカリフの座を降ろさせ、これによりファーティマ朝は滅亡(1171)、サラディンはエジプトを制圧することに成功し、エジプトにスンナ派がもたらされた。またアッバース朝カリフからスルタンの称号を得、さらにシリアのザンギー朝勢力を一掃し、やがてイラク北部・イェーメンまで領土を広げた。カイロやダマスクスといった有力都市をおさめたサラディンは、イスラム勢力を結集して、3つ目の都市イェルサレムを奪うべく、イェルサレム王国の壊滅に乗り出した。

 1187年7月、イェルサレム王国に侵攻したサラディン軍は、ティベリアス湖西方のヒッティーンで、イェルサレム国王ギー=ド=リュジニヤン(位1186-92)率いる軍隊と衝突した。しかしテンプル騎士団らの協力もかなわず、9月、イェルサレム市はサラディンの手に落ち、ギー王は捕虜となって、十字軍側は惨敗した(ヒッティーンの戦い)。88年ぶりにイェルサレム市をイスラム勢力に奪われ、縮小したイェルサレム王国は、アッコンに遷都したことにより滅亡を免れた。

 イェルサレムを奪われた西欧諸国は衝撃を受け、1189年第3回十字軍が結成された(1189-92)。ドイツ・ホーエンシュタウフェン朝の国王で、第2代神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王。あかひげおう。位1152-90)と、フランス・カペー朝の国王フィリップ2世(尊厳王。位1180-1223)、そしてイギリス・プランタジネット朝(1154-1399)の国王リチャード1世(獅子心王。位1189-99)の錚々たる3君主が、陸路東進の方針で遠征に乗り出した。翌1190年には三大宗教騎士団の1つ、ドイツ騎士団がアッコンで創られた。

 当時のプランタジネット朝は、イングランド内の領土ではフランス王と対等の国王として統治し、アキテーヌ公領やアンジュー伯領など、フランス内にあるイギリスの領土ではフランス王の臣下であったために、英仏間の対立は、大陸領土政策を中心に甚だしかった。リチャード1世は父ヘンリ2世(位1154-89)の3男で、母よりアキテーヌ公領を受け継いでいた(1172)。やがてリチャードは父に背いて弟ジョン(1167-1216。のちの欠地王)らと反乱を起こしていたため、この頃はフランス・フィリップ2世に臣従していた。しかし父ヘンリ2世の死で王位に就いたリチャード1世は、フランスにある大陸英領を拡大する政策に努めた。これにフィリップ2世は不快を示し、さらにリチャードがフィリップ2世の妹との結婚も破棄したことで、両者はさらに険悪になった。こうした中での遠征であったが、ともあれ名君が並び立つ今回の十字軍は、最も高い期待を寄せられ、イェルサレム奪回の成功を信じた。

 ところが、事態は一転した。フリードリヒ1世は小アジアのサレフ川を渡河中に脳卒中を発して溺死するという事故に見舞われた(1190)。過去に5度のイタリア遠征(イタリア政策。1154-55,58-62,63-64,66-68,74-77)で軍功をあげ、またホーエンシュタウフェン家と対立するヴェルフェン家ハインリヒ(獅子公。1129-95)を追放して(1180)国内の反乱を抑えるなど、神聖ローマ帝国の絶頂期を築いた不死の英雄だけに、国民はその死を惜しんだ。フィリップ2世は、リチャード1世と反目を続けながら遠征を続けたが、調停役のフリードリヒ1世の事故死で、両者間の収拾は不可能となり、フィリップ2世は遠征中にもかかわらず、アッコン到達後、帰国してしまう(1191)。よってリチャード1世が単独で軍を率いていくことになった。
 リチャード1世の遠征中、母国は弟ジョンが内政を担当していた。ジョンは圧政によって国民を苦しめていた。シャーウッドの森の窃盗団が、領主や貴族から財貨・宝物を奪い、それらを貧民に分けたという有名なロビン=フッド伝説はこの時代に生まれているが、ロビンも十字軍に従軍の経験があったとされる。

 1192年9月、リチャード1世はサラディンに対して孤軍勇戦し、ここで"獅子心王"の異名が叫ばれた。しかし、最後には力尽き、3年間の休戦条約をサラディンと結んで、帰国した。
 イェルサレム奪回は失敗に終わった。サラディンは十字軍との交渉にあたって、イェルサレム内のキリスト教徒は自由に往来できることとし、巡礼を許す寛容策を行った。サラディンは最後まで騎士道精神を失わなかったが、1193年、ダマスクスで没した。

 1198年、ローマでは、インノケンティウス3世(イノセント3世。1161-1216)が37歳でローマ教皇に選出された(位1198-1216)。インノケンティウス3世はかつての教皇グレゴリウス7世(位1073-85)の改革を継承して、教皇権絶対化の実現に向けた強権統治を行い、ドイツでは国王選任に介入してオットー4世(位1198-1215。神聖ローマ皇帝在位1209-15)を破門、フランスでは国王の離婚問題に介入してフィリップ2世にインターディクト(聖務禁止処分)を下し、イギリスではカンタベリ大司教叙任権問題でジョン王(欠地王。位1199~1216)を破門してのち臣従させるなど、強い姿勢を突き通した。1215年のラテラン公会議の演説でも、有名な"教皇は太陽、皇帝は月"の名句を残したことからも、インノケンティウス3世時代に教皇権の絶頂期が訪れていたことを示している。

 インノケンティウス3世は、1202年第4回十字軍を提唱した(1202-04)。フランスとドイツの諸侯によって結成された十字軍は、これまでと異なり、アイユーブ朝の陣地エジプトを目指すことで、海路を使用する方針が決められた。しかしこの方針決定が、「神の兵士」として異教徒と戦い、聖地を奪回する十字軍本来の目的とはかけ離れ、教皇の命を無視した形となって、暴走していくのである。

 もともとビザンツ帝国と十字軍とは、目的が異なっていた。第1回十字軍結成が叫ばれた頃、当時のビザンツ皇帝アレクシオス1世(位1081-1118)はセルジューク戦に対する援軍の要請だけに留まっており、聖地奪還・東西教会統一の意図はなかった。第4回十字軍が結成された1202年には、すでにセルジューク朝の本家は内紛で滅亡し(1194)、4つの分家の内の1つ・ルーム=セルジューク朝(1077-1308)の勢いも下火になったところで、ビザンツ帝国の中では、十字軍をもはや必要とはせず、首都コンスタンティノープルの商業活性化に力を注ぐことに集中していた。さらに、王室では骨肉の内紛が生じており、ビザンツ帝国アンゲロス朝(1185-1204)の初代皇帝イサアキオス2世(位1185-95)の時、弟アレクシオス3世(1195-1203)が兄王の両目を失明させるなどの奇襲をかけて帝位を奪い、イサアキオス2世とその子アレクシオス4世(1183?-1204)を幽閉した。やがて子アレクシオス4世は釈放され、イタリアへ逃れた。

 第4回十字軍は、困難な陸路を避けて海路を選んだが、その輸送手段となる艦船の委託を、イタリアのヴェネツィアの商人に請うた。海港都市ヴェネツィアはコンスタンティノープルと同様、商業圏の拡大に熱を上げていた。ヴェネツィアに結集した十字軍は、支払うべき渡航費が高額であることに困ったため、ヴェネツィアは、渡航費後納の条件として、ハンガリー領ダルマツィア(現クロアチア共和国のアドリア海沿岸部。ヴェネツィアの対岸)の海港都市ザラの奪還を、十字軍に要求し、成功後、艦船を提供することにした。十字軍は1202年、ザラを襲撃してハンガリーから奪還した。命令を背かれた教皇インノケンティウス3世は激怒し、十字軍全兵士を破門した。
 やがて、破門された十字軍兵士のもとに、ビザンツ帝国から逃亡してきたアレクシオス4世と遭遇した。アレクシオス4世は、叔父アレクシオス3世の廃位と父イサアキオス2世の復位を条件に、渡航費を支払い、教皇からの破門を解くために、東西教会の統合を守ることを約束した。ヴェネツィア商人は、十字軍とビザンツ皇族間の駆け引きによって、商敵コンスタンティノープル侵攻・陥落が実現すれば、ヴェネツィアの商業圏はさらに拡大すると考えていた。十字軍はヴェネツィア総督エンリコ=ダンドロ(任1192-1205)によって率いられ、アレクシオス4世とともに海路でコンスタンティノープルへ向かった。

 1203年7月、コンスタンティノープルに到達した十字軍艦隊は、同市を攻撃、皇帝アレクシオス3世は亡命してコンスタンティノープルは陥落、イサアキオス2世の復位が決まった(位1203-04)。皇帝は失明のため、アレクシオス4世が目となり、共同統治となった(位1203-04)。
 ところが、アレクシオス4世とイサアキオス2世の財力は乏しく、前述の渡航費も支払えないなど、契約不履行であった。さらにこの駆け引きがコンスタンティノープル市民に伝わり、各地で暴動が起こった。やがて、王室クーデタにより、翌1204年1月、アレクシオス4世と父イサアキオス2世は殺害された。首謀者はアレクシオス5世(位1204)を名乗り、皇位を簒奪した。この皇位交替は十字軍に衝撃をもたらし、コンスタンティノープルを再包囲、アレクシオス5世を追放し、アンゲロス朝を滅ぼした。ビザンツ帝国の生き残りはニケーアに逃れてビザンツ帝国の再興を促し、ニケーア帝国ラスカリス朝を建設、セオドロス1世(位1205-22)を皇帝に立てた。十字軍は1204年、フランドル伯ボードゥアン1世を皇帝とするラテン帝国(1204-61)を樹立させ、ローマ教皇の望んだ東西教会の統合は実現した形となったが、これは事実上、ヴェネツィアの植民国家でもあり、地中海東部の沿海地方の覇権や地中海での商業ルートを獲得したことで、商業都市ヴェネツィアとしての権力が拡大した結果ともなった。

 暴走した第4回十字軍ではあったが、東西教会統合に成功したことで、教皇インノケンティウス3世は、強権政策を進めて托鉢修道会アッシジフランチェスコ修道会と、スペインドミニコ修道会など)の育成に努めた。また1209年にはマニ教の影響を受けたキリスト教異端のカタリ派の流れを持つアルビジョワ派が南フランスのアルビ地方で普及している事を突き止めて、フランス王フィリップ2世からルイ9世(聖王。位1226-70)の時代にかけて、国王が指揮をとるアルビジョワ十字軍(1209-29)を結成させ、アルビジョワ討伐を始めた。全布教者を虐殺する徹底ぶりで、遂にアルビジョワ派は根絶したが、これにより教皇以上にフランス国王の勢力が伸長し始めるようになった。

 一方、イェルサレム市を失っていたイェルサレム王国は、アッコンを拠点に存続していた。1212年夏、聖地イェルサレム奪回を狂信的に提唱した、北フランスの羊飼いの少年・エティエンヌによって、マルセイユで数万人の少年少女が十字軍と称して集まり、海路を使ってアレクサンドリアへ到達した。その間、海賊の襲撃や、嵐による難破するなどの苦難を受けて、死亡者も出、しかも到達後もイスラム教徒に奴隷として売買されるなど悲惨な結果となった。ドイツでもやや遅れてケルンの少年ニコラスが提唱して、数万人の少年少女を集めて十字軍を結成、アルプスを超えてイタリアに入ったが、その途上で多くは死亡・脱落した。この少年十字軍は、短絡的集合体でありながらも、当時の十字軍ブームによって理性を失った子どもたちが結成した悲劇の軍団であった。街中の子どもたちが一斉にして心を1つにし、起こり来る苦難を知らずに遠征に出向いたというこの逸話は、ドイツ民話"ハメルンの笛吹き(街の子どもたちを笛で操り、街から連れ去る話)"などで派生していくのである。

 その後の十字軍はどれも永続せず、計画性のない集団と化した。ローマ教皇ホノリウス3世(位1216-27)の提唱で1219年から21年にかけて結成された時は、アッコンからイスラムの拠点エジプトのカイロに向かったが失敗(この十字軍を第5回とする場合もある)、続く第5回十字軍(1228-29)では、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(位1215-50)が、ローマ教皇グレゴリウス9世(位1227-41)の提唱で結成し、再度エジプトに向かうことを計画したが、フリードリヒ2世はもともとイスラムに対して保護的であり、アイユーブ朝5代スルタン・カーミル=ムハンマド(位1218-38)となれ合いで、聖地イェルサレムは一時的に返還され、フリードリヒはイェルサレム王国の国王(位1229)となった。しかし、教皇の提唱で結成された十字軍は戦わずして解散し、イェルサレムではイスラム側も統治に関わったことで完全な奪回とは言えず、この結果フリードリヒは教皇の怒りに触れ、破門されたあげく、イェルサレム国王を廃され、イェルサレム王国も1244年にはホラズム系トルコ人により再度奪還された。

 幾度の聖地奪回失敗に嘆いたのは、以前アルビジョワ十字軍を率い、大活躍したフランス王ルイ9世であった。敬虔なカトリック教徒であったルイは自身の手で十字軍を結成し(第6回十字軍。1248-54)、海路でエジプトに向かった。
 都合良く、エジプト・アイユーブ朝は衰退し始めていた。しかしアイユーブ朝のマムルーク出身の軍司令官ムィッズ=アイバク(?-1257)が、アイユーブ朝最後のスルタン死後、その妃シャジャル=アッドゥッル(?-1275)を王位に立てた(位1250)。その名もマムルーク朝(1250-1517。首都:カイロ)と呼び、アイバクはアッドゥッルと結婚して2代目スルタン(事実上は初代)となり(1250-57)、その後もマムルーク身分の者がスルタンを称して統治した。
 ルイ9世率いる第6回十字軍は、このアイバク率いるマムルーク軍と激戦を交わしたのだが、勢力著しいマムルーク軍の方が一枚上手であった。ルイ9世は捕虜となり、遠征は失敗した。身代金を支払って解放されたルイは同時期に東アジアで強い勢力を保っていたモンゴル民族に目を向け、ローマ教皇インノケンティウス4世(位1243-54)を動かして、フランシスコ修道士ルブルック(リュブリュキ。1220?-93?)を、第4代ハン・モンケ=ハン(憲宗。けんそう。位1251-59。チンギス=ハンの孫)が統治するモンゴル帝国の首都カラコルムへ派遣して、キリスト教の布教と十字軍への協力を求めた。1254年にモンケ=ハンに会見したルブルックは、親書を手渡して翌年帰国した。

 キリスト教国がモンゴルと手を結ぶという大胆な計画は、賛否両論が生まれ、特にパレスチナにおける"十字軍国家"はむしろモンゴルの侵略の方に恐れていた。しかも1261年ニケーア帝国がコンスタンティノープルを奪回してラテン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国(パラエロゴス朝。1261-1453)が再興され、またも東西教会が分離した。また十字軍国家の1つ、アンティオキア侯国は1268年、マムルーク朝により滅ぼされ、カトリック国は動揺した。このような情勢の中で、ルイ9世は決断が見出せぬまま1270年、第7回十字軍を組織し、海路で北アフリカのチュニスに向かい、同地を攻撃した。しかしルイは疫病にかかり、同地で没し、結局遠征は失敗した。モンゴル勢もマムルーク朝の強力な軍隊に敗走した。残された十字軍国家も、モンゴルに屈するか、マムルーク朝に屈するか、十字軍の救援を待つかといった選択を強いられ、モンゴルは退き、十字軍は分解、結局マムルーク朝によってトリポリ伯領は1289年に滅ぼされ、イェルサレム王国においても1291年に拠点アッコンを陥落されて遂に滅亡し、200年におよぶ十字軍時代は幕を閉じた。

 キリスト教国における聖地イェルサレムの回復は、夢幻として終わった。十字軍を提唱したローマ教皇の権威はこれにより衰え、軍費を散財した諸侯・騎士は没落、封建社会が壊れ始めた。遠征のため領主不在となった荘園では、農民の自立が目立ち、貨幣経済や都市の成長を促進させ、この結果荘園領主は没落の傾向を辿った。ただ唯一権威を伸長してきたのは、こうして没落した領土を没収した国王であった。宗教的情熱が衰えていく中で、国王の中央集権化が促されていくのであった。


 これまでも中世史は数多くご紹介しましたが、前回と今回は、まさにその集大成ともいうべき内容でした。舞台はアジア・ヨーロッパ・アフリカと広範囲であり、中世世界は彼ら十字軍の登場によって政治的・宗教的・社会的にも大転換が起こった、革新の時代にあったのですね。
 実際にも大学入試での出題頻度は結構高いです。通史・テーマ史・政治史・宗教史・人物史など、どこからでも出題ができるのもこの時代の特徴です。 

 さて、今回の学習ポイントですが、十字軍は計7回結成されましたが、参考書によっては8回とされているのもあります。それは、本編であったように1219年から21年にかけて行われたカイロ遠征を5回目として、以降フリードリヒ2世の、外交折衝にて戦わずして聖地を一時的に奪回した1228年結成の十字軍を6回目、ルイ9世のエジプト、チュニスそれぞれの遠征を7回目、8回目とする見方です。用語集では、フリードリヒの十字軍を第5回、ルイの十字軍を第6回・7回で通していますので、十字軍は計7回として覚えておいた方が良いでしょう。

 では、7度に渡った十字軍のおさらいをしましょう(太字は要チェック)。

  1. 第1回1096-99):参加者はフランスとドイツの諸侯。聖地奪回に成功してイェルサレム王国創建。
  2. 第2回1147-49):参加者はドイツの神聖ローマ皇帝コンラート3世・フランスのカペー朝国王ルイ7世。救援失敗。
  3. 第3回1189-92):参加者はドイツ・シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・カペー朝国王フィリップ2世・イギリスのプランタジネット朝国王リチャード1世の3人。アイユーブ朝サラディン(サラーフ=アッディーン)のイェルサレム奪還。
  4. 第4回1202-04):教皇インノケンティウス3世が提唱し、フランスとドイツの諸侯が参加。コンスタンティノープルを占領してビザンツをニケーアに追い払い、ラテン帝国を創建。ヴェネツィア商人の登場。
  5. 第5回1228-29):神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世参加。聖地一時回復。このフリードリヒ2世はドイツ・シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝で、その後に登場したプロイセンの啓蒙絶対君主で、「大王」と称されたフリードリヒ2世(位1740-86)とは別人です(名句"君主は国家第一の僕(しもべ)")。混同しないように。むしろ後者の方が超有名ですが。同一人物といえばマムルーク朝の創始者(ムィッズ=)アイバクも、別人が存在します。インド奴隷王朝の創始者(クトゥブッディーン=)アイバク(位1206-10)です。これも、後者の方が有名で、前者の出題頻度は少ないです。
  6. 第6回1248-54):カペー朝ルイ9世が参加。エジプトを攻撃して失敗。ルイ9世は先々代の王フィリップ2世の時代から続くアルビジョワ派討伐に成功した人物であることも重要(アルビジョワ十字軍)。
  7. 第7回1270):参加者ルイ9世チュニス攻撃。予備校時代はジプトとュニスを合わせて、"エッチのルイ9世"という覚え方を教わりました。

 十字軍時代を通して、西欧世界は経済事情も一変しました。ヴェネツィアを中心に商業支配圏が拡大し、東方貿易(レヴァント貿易)が活発化します。また11世紀から続いていた貨幣経済の発展や定期市の普及によって、12世紀は商業の復興("商業ルネサンス")が見られ、イタリアを中心に自治都市(コムーネ)が成立していきます。いわゆる中世都市の成立です。その中にあるのがフィレンツェ市で、資金力豊富の街として文化が栄えていき、文芸復興ブーム、いわゆるイタリア=ルネサンスが花開くわけです。中世都市の分野も相当奥深い内容ですので、別の機会に紹介するといたしましょう。次回は遂に50回目です!!