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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第71話


打倒ローマに生きた男

 ローマが共和政だった時代(B.C.509-B.C.27)、戦力である重装歩兵を使って戦争を続け、各地の支配力を高めていった。この頃のローマは単なる都市国家であったが、イタリア半島の統一にむけて、エトルリア人、サムニウム人らを駆逐して軍用道路であるアッピア街道(別称"道路の女王")を建設、一方でタレントゥムなど半島南岸のギリシア植民市群(マグナ=グレキア)を敗り(B.C.272)、B.C.3世紀前半にはイタリア半島の全域を支配するようになり、統一は達成された。

 支配地はコロニア(植民市)とされ、国境付近に市民である屯田兵をおいて入植させていき、また半島以外の入植も進んでローマの直接の支配下におかれた(ギリシアの植民市のように独立してはいない)。そして、都市国家ローマにおける市民権(ローマ市民権)の付与者は、ローマの支配拡大とともに増加していき、服属地には、投票権・同盟権などの有無といった差別的な待遇を設けて、自治市や同盟市などの地位を与える分割統治が行われた。
 分割統治の内容は、ローマ植民市とローマ自治市はローマ市民権が与えられたが、自治市は、その都市の政務官に自治を与えても、投票権は付与されない。ローマ同盟市にいたってはローマ市民権は与えられず、軍隊を奉ずる義務を負担しなければならなかった。

 このローマに引けを取らぬ勢力が北アフリカに存在していた。フェニキア人の都市国家ティルス(テュロス)の植民者が建設したといわれる植民市カルタゴ(B.C.9C-B.C.146)である。B.C.6世紀のカルタゴは農耕と交易を盛んに行って西地中海の制海権を獲得、地中海に浮かぶサルデーニャ(サルディニア)コルシカ(コルス)にも進出、カルタゴ帝国("地中海の女王")と呼ぶに相応しい勢力となり、B.C.6世紀はカルタゴの最も繁栄した時期であった。
 B.C.5世紀になるとカルタゴは全地中海制覇にむけて、イタリア半島南端にある地中海最大の島、シチリアを従えようとした。当時のシチリア島は、位置的には地中海の中心にあるため、戦略的要所として好適であり、また地中海最大の穀物生産地であった。当時はマグナ=グレキアに属するメッシーナ植民市がシチリア島を握っており、カルタゴとシチリア覇権争奪で対立した。その後シチリア東岸にある海港都市シラクサの僭主がシチリア島統一にむけて、カルタゴと3次に渡るシチリア戦争(B.C.5-B.C4C)を交えたことにより、シチリア島西半がカルタゴ領、東半がメッシーナ領となった。

 やがて、マグナ=グレキアがB.C.3世紀前半にローマの支配下となり、当然シチリア島もローマの息がかかるようになっていった。地中海の全覇権を掌握しようとするカルタゴに干渉・介入してきたローマが、遂にカルタゴと覇権をめぐって戦争を交えることになったのである。当時のローマはまだ海外への進出を果たしたことがなかったが、イタリア半島統一の後、次なる目標はカルタゴと同様、地中海世界の覇権掌握であったのである。
 B.C.264年、シチリア島のシラクサでメッシーナとカルタゴが武力衝突に至った。メッシーナはローマに支援を要請、カルタゴ対ローマという大規模な戦争に発展していった。これが第一次ポエニ戦争(B.C.264-B.C.241)である。"ポエニ"とはラテン語で"フェニキア人"を意味する。

 初めて海外進出を果たしたローマは、シチリアに遠征したカルタゴの名将ハミルカル=バルカ(B.C.270?-B.C.229)の容赦ない攻撃を受けるもこれを防ぎ、その後シラクサを制圧、シチリアの諸都市を次々と攻略していった。島民は奴隷化され、売られていった。海戦では苦戦を強いられたが、辛くもシチリア全島を制圧したローマは初の海外領土の獲得となった。ローマはシチリア島に海外領土統治者として総督を派遣し、島民から税を徴収した。ローマの海外領土を属州(プロウィンキア)といい、属州民は、ローマ中央部への昇進を目指す総督の圧力と搾取で苦しめられることになる。

 カルタゴはハミルカル=バルカ将軍によるヒスパニア遠征を実施した(B.C.237)。ヒスパニアは現在のイベリア半島地方に位置する。ハミルカルはそこで強力な軍隊をつくり、第一次ポエニ戦争の汚名をすすぐべく、ローマに対する復讐に備えた。しかし、ヒスパニアに地盤を築くも、ハミルカルはその途上で没した。ハミルカルは遠征先に自身の子を連れていたが、自身の果たせなかった夢を実現させるよう、子に託した。その彼こそ、カルタゴ帝国を背負う人物として期待された、ハンニバル=バルカ(B.C.247-B.C.183)であった。

 26歳になったハンニバルは、父ハミルカルが没して後、父の夢を果たすべく、カルタゴの若き総指揮官となり(B.C.221)、ヒスパニアで培った兵力を遂に試す時が来た。当時海上権はローマに握られていたため、海からの侵攻は困難であると考えたハンニバルは、北から陸路でローマを攻撃する戦略を計画した。B.C.218年、ヒスパニアを出発したハンニバル率いる数万のカルタゴの軍勢は、数十頭の象を連れ、ガリア(現フランス地方)を経て、のちアルプス越えを敢行した。しかしその途上、多大な困難が彼らを襲い、脱落者・死亡者も続出し、北イタリアが見えてきた頃は軍勢は半分近くまで減り、象も数頭ほどになっていた。しかしハンニバルは挫けず、ローマのアペニン山脈をも超えようとしていた。

 ハンニバル軍がローマ領内に入ったことで、元老院(セナトゥス。ローマの最高議決機関)は、コンスル執政官。統領。最高政務官で、2名で構成)にすかさず出動を命じた。ここに第2次ポエニ戦争が勃発した(B.C.218-B.C.202)。
 勃発当初はハンニバル軍が連勝を重ねた。ローマ軍はハンニバル軍による奇襲を含む天才的攻撃に翻弄されてついに敗退した。一方のハンニバル軍は、連勝によって各地から入隊希望者の続出や反ローマ派国家による軍隊提供によって、ヒスパニア出発時以上の軍勢にまで膨れあがっていた。

 B.C.216年、アドリア海沿岸にそびえ立つアペニン山脈を南に降り立つと、アプリア(現プリア州)地方があり、ここでもローマとカルタゴは衝突した。カルタゴ軍5万に対して、ローマ軍は8万(うち1万は陣地に残留)。アプリアの寒村カンナェ(カンネー)が激戦地となり、数の上でははるかに劣っていたカルタゴ軍はここでも巧みな戦術をみせた。両軍はともに、重装歩兵隊を中央に、その前面を軽装歩兵隊、左右に騎兵隊をおいていた。その中で、中央カルタゴ軍の重装歩兵隊は、ローマ軍にむけて弧を描くように配置された。この突き出た配置であると、ローマ軍の中央に配置された重装歩兵隊の突進を少しでも緩めさせるためである。そして左右両側同士が激突した。騎兵隊においてはローマ軍より優勢なカルタゴ軍が圧倒した。左右両翼を固めたカルタゴ騎兵隊は、ローマ軍の中央の重装歩兵隊の背後にも回り込み、5万といるローマ軍を完全包囲した。退路を阻まれ、袋のネズミとなったローマ軍は、反撃をしようにもすでに後の祭りとなり、カルタゴ軍の横殴りの矢の暴雨に晒された。このカンネーの戦いで、ローマ軍8万のうち、6万は戦死、陣地に残留していた1万の軍を始め2万はカルタゴ軍の捕虜となり、ハンニバルのローマ軍殲滅作戦は成功を得た。これによりローマは、敗因となった騎兵隊の育成に力を入れることになる。この包囲殲滅作戦は戦史上、重要な戦略で、のちに日露戦争(1904-05)のメインである奉天会戦(1905.3)などで参考にされた。

 ハンニバルはローマ大敗によって、分割統治されている諸都市の離反を期待していたが、ローマへの忠誠心は気高く、離反した都市はシラクサぐらいであまり出ず、戦争は長期化していくと同時に、本国カルタゴからのハンニバルへの救援もうまくいかず、依然としてハンニバルはイタリアでは孤立していた。カルタゴと同盟を結んでいたマケドニア王国(B.C.7C?-B.C.148)のアンティゴノス朝(B.C.306~B.C.168。首都ペラ)・フィリッポス5世(位B.C.221-B.C.179)がローマと戦うが(第一次マケドニア戦争。B.C.215-B.C.205)、海路をローマ軍に阻まれたためイタリア進出までとはいかず、ハンニバルを支援できなかった。またハンニバルがイタリアにいた頃、ヒスパニアでは弟ハスドルバル(B.C.245-B.C.207)が軍を率いていたが、カンネーの戦いでハンニバルの戦略に手を上げていたローマは、矛先をカルタゴ本国にむけることにし、元コンスルを父にもつプブリウス=コルネリウス=スキピオ=アフリカヌス=マヨル(大スキピオ。大アフリカヌス。B.C.236-B.C.183)の軍隊がカルタゴ本国とヒスパニア遠征を積極的に行うようになった。ハンニバルがカンネーの戦いでローマから大勝利を得たものの、本国カルタゴは、全体的に見ても、ローマに対して劣勢の立場にあるのは明らかであった。

 カルタゴが劣勢に立たされる中、ローマ軍はB.C.214年からB.C.212年にかけて、離反したシラクサに侵攻、シラクサは陥落した。このときシラクサ出身の数学者アルキメデス(B.C.287?-B.C.212)は、兵器技術改良を任されており、投石機などを発明していた。ローマ軍がシラクサ侵攻をおこしているとき、アルキメデスは地面に描いた図形を前に問題に没頭していた。彼は、問題に熱中しすぎて敵の襲撃に気づかず、ローマ兵が地面の図形を踏んだ際は時すでに遅く、刺殺された(B.C.212)。

 B.C.209年、ヒスパニアの要地カルタゴ・ノヴァ(現・カルタヘナ。「新カルタゴ」の意味)が大スキピオの率いるローマ軍によって攻略された。ヒスパニアにいたハスドルバルは、ヒスパニア固守を断念、兄ハンニバルを支援すべく、兄と同じくアルプスを超えてイタリアに入ろうとしたが、ローマ軍に阻まれて、あえなく戦死し(B.C.207)、兄との対面はならなかった。
 B.C.206年にヒスパニアを征服した大スキピオは、軍功者として翌B.C.205年コンスルに就任した。一方のカルタゴはマケドニアにも見限られ、マケドニアは同年ローマと同盟を結んだ。完全孤立と化したハンニバルは、遂に本国へ召還された。

 大スキピオはコンスル就任後、第二次ポエニ戦争を終結すべく、カルタゴにおける本土決戦を計画したが、元老院は大カトー(B.C.234-B.C.149)ら保守派の反対で先送りされた。しかし大スキピオはその反対を押し切ってシチリアで兵力を整え、翌B.C.204年にアフリカ上陸を実行した。本国に帰還したばかりのハンニバルは、ヒスパニアも離れ、マケドニアとも仲違いし、軍備を整う時間もなく、パニック状態となるが、その中でもハンニバルへの信望が厚い本国では、大スキピオ軍以上の兵士数をどうにか用意ができたため、すでにカルタゴよりアフリカの奥地にある、カルタゴ支配区ヌミディアと交戦していた大スキピオ軍にむけて出陣した。ヌミディア軍を制圧した大スキピオ軍は、カルタゴ本営にむけて、再度北東へ向かった。そしてB.C.202年、ハンニバル軍と大スキピオ軍は、ヌミディアとカルタゴの間にあるザマで衝突した。戦意のないカルタゴ兵の脱落もあり、カンネーでの戦略経験を蘇らせようと必死に戦局を立て直すハンニバルだったが、包囲されたのはカルタゴ軍であった。結果ハンニバル軍の惨敗に終わり、カルタゴはローマに屈辱的講和を結ばされ、ここにおける第二次ポエニ戦争は終結をむかえた。ハンニバル戦争と呼ばれたこの戦争は、戦略、勝敗すべて闘士ハンニバルの名がローマ人・カルタゴ人らの頭に植え付けられた。ローマでは"残忍な軍人"、カルタゴやローマ圧政下におかれた諸都市では"英雄"として記憶に残された。

 第二次ポエニ戦争に敗れたハンニバルは、ローマに対する復讐の念をこの後も心中にとどめながら、B.C.202年からB.C.196年までカルタゴ国内の内政に取り組んだ。カルタゴが復興するとシリアに亡命し(B.C.196)、シリアで軍を集めてローマと復讐戦に挑むも、もはやかつての輝く名将の姿はなく容易に敗れ去り、最後は小アジア方面に隠遁した。しかしローマのハンニバル身柄引渡要求が同地に突きつけられ、彼はこれを拒んで服毒自殺した。ローマに対する憎悪を常に背負って生きてきたハンニバルの生涯は、B.C.183年に終わった。ローマ側にしてみれば、ハンニバルの呪縛はようやく解き放たれたと言える。

 ローマはその後大カトーの徹底したカルタゴ消滅政策を図り、大スキピオの長男の養子であるプブリウス=コルネリウス=スキピオ=アエミリアヌス=アフリカヌス(小スキピオ。B.C.185-B.C.129)にカルタゴ進軍を再度決行させた(第三次ポエニ戦争。B.C.149-B.C.146)。B.C.146年、カルタゴ全住民を弾圧させ、遂にカルタゴは陥落、滅亡した(カルタゴ滅亡)。これにより、B.C.264年からおよそ120年の長期に渡って繰り広げられた大戦争は、ようやく終結した。ハンニバルのいないカルタゴは、もはや根のない草花と化していたのであった。

 その後のカルタゴの跡地では、ローマによる植民がすすみ、ティベリウス=センプロニウス=グラックス(B.C.162-B.C.132)やガイウス=ユリウス=カエサル(B.C.100-B.C.44)、アウグストゥス(B.C.63-A.D.14)といった有力政治家におけるカルタゴ再建が施された。歴史的な興亡を展開したカルタゴの遺跡は、現在、チュニジアの首都チュニスの北部に残り、歴史の深さを物語っている。


 中世の百年戦争よりも長い大戦争が、紀元前の古代ローマに存在していたという、ポエニ戦争の登場です。その中でも、物心ついた幼少期から打倒ローマとして父ハミルカルに教えを受け、死ぬまでローマに屈しなかったカルタゴのハンニバルが、今回の主役です。

 カルタゴは、B.C.6世紀が全盛期でしたが、B.C.3世期頃になると巨大化したローマと地中海の覇権をめぐって、激闘が交わされます。これが、三次に渡ったポエニ戦争です。ハンニバルは第二次ポエニ戦争に登場し、最も激戦が展開され、戦没者も多くでました。本編でも述べましたが、ハンニバルという人物は戦術においては天才級で、カンネーの戦いにおけるローマ包囲作戦で、軍数の少ないカルタゴ軍がローマ軍を圧倒させ、勝利を収めています。包囲してローマ軍を殲滅させた行為は、欧米各地においても彼の残虐性が強調されました。近年でも彼と同名のタイトルで、ショッキング描写を強調した映画が制作されるなど、後世においても彼の影響は大きいものがあります。ただ、逆にローマに支配された地方では、ローマからの解放に尽力した英雄として残るわけで、彼の評価はさまざまです。

 さて学習ポイントを見ていきましょう。言うまでもなくポエニ戦争の勃発年(B.C.264)と終結年(B.C.146)は重要です。"風呂敷ポエニ一矢(いっし)いる"と私は覚えました。第一次では、戦争の結果、シチリアがローマの最初の属州となったことが大事。そして最も重要な第二次では、カンネーの戦いでハンニバルがローマを敗り、ザマの戦いで大スキピオがハンニバルを敗ったことは是非知っておいて下さい。そして第三次では小スキピオの活躍でローマがカルタゴを滅ぼし、戦争は終わったことがポイントです。 

 これによって、ローマは単一の都市国家から世界的国家へと成長していきました。ローマが実施した、地中海域の都市国家を次々と征服、属州化するという形式は、近代における列強の帝国主義的な要素がありますね。カルタゴ征服後はヘレニズム諸国を次々と併合して(マケドニア、シリア、エジプトなど)、ますます強大になっていきます。属州のローマ総督はコンスル出身の元老院議員が担当していて、その後騎士(エクイテス)出身の徴税請負人らと結託して住民から容赦なく重税を搾取するようになっていきます。富裕化した総督は後に、ローマの中央政界に復帰する目的があったため、このようなプロセスを経たとされています。その後、政界の内紛("内乱の1世紀"。B.C.133-B.C.31)を経たローマは、カエサルの三頭政治(B.C.60-B.C.30)を迎え、そして遂にB.C.27年、アウグストゥスにおけるローマ帝国がスタートしていきます。驚くほどの激動ですね。