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世界史の目

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第80話


オーストリアとプロイセン・その3~再度の対戦とドイツ帝国誕生~

  1. オーストリアとプロイセン・その1~三十年戦争とスペイン継承戦争~はこちら
  2. オーストリアとプロイセン・その2~マリア=テレジアの復讐~はこちら

 マリ=アントワネット(1755-93)が1793年処刑され、オーストリアとプロイセンはフランス革命への軍事行動を起こした。1792年4月の戦争ではフランス軍が敗退したものの、9月のヴァルミーの戦いでは、プロイセン軍が撃退され、ライン左岸とネーデルラントが占領された。そして、1800年の再激突も、フランス軍の勝利により、オーストリア軍が敗退した。

 1804年ナポレオン1世(位1804-14.15)によるフランス第一帝政(1804-14.15)が開始され、フランスはナポレオン1世の軍事独裁帝国(ナポレオン帝国)となった。ハプスブルク=ロートリンゲン家は当時、レオポルト2世(位1790-92)の後継者、神聖ローマ皇帝フランツ2世(位1792-1806)が、すでに精神的存在だったドイツ・神聖ローマ帝国962-1806)を統治していたが、フランツ2世はナポレオン1世がフランス皇帝として即位したのを受け、自身もオーストリア大公国から、オーストリア帝国に昇格させて、同1804年、第1代オーストリア皇帝フランツ1世として即位した(位1804-35)。

 1805年12月にはアウステルリッツ三帝会戦(オーストリアのフランツ1世、ロシアのアレクサンドル1世。位1801-25)において、またもやナポレオン1世に敗れた。また、ナポレオン1世は1801年にコンコルダートと呼ばれる宗教協約を"フランス国家とローマ教会"間で結んでおり、ローマ教皇ピウス7世(位1800-23)に対して、ローマ=カトリック教会をフランスの公教と認め、政府が聖職者を指名して、教皇が任命権を持つように取り付けた。教皇領は革命政府によってすでに資産のすべてを押さえられていたが、その後ナポレオン1世によって占領され(1809)、ピウス7世は1814年のウィーン会議まで軟禁状態におかれることとなる。
 こうした状況のため、ローマ教皇の権威によってカトリックを守る神聖ローマ帝国ならびに統治者である皇帝は、その完全なる統治力をナポレオン1世にもぎ取られていた。イタリアとオランダをすでに支配下に入れていたナポレオン帝国は、1806年、ドイツの領域内にライン同盟なる諸国同盟を創始した。これは、ナポレオン1世を保護者とし、マインツ大司教を総裁として、連邦君主会議により運営されるというものである。これには、プロイセン王国とオーストリア帝国を除く、全ドイツ諸国が加盟することになり、各国でナポレオン法典導入やフランス帝国に対し6万3000の軍を提供するなどの改革が行われた。

 神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)は、ライン同盟結成によって、バイエルンなどの16領邦が神聖ローマ帝国から離脱していくことを受けて、同1806年8月6日、神聖ローマ帝国の解体を宣言、帝位を自ら放棄した。フランツ2世はその後はオーストリア皇帝フランツ1世として、ハプスブルク=ロートリンゲン家を守るが、844年の歴史を誇った神聖ローマ帝国は名実ともに消滅・滅亡した

 この動向を見ていたプロイセン王国・フリードリヒ=ヴィルヘルム3世(位1797-1840)は、ナポレオン1世の脅威を感じ、1806年10月14日、フランスに宣戦した(イエナ・アウエルシュテットの戦い)。しかしこの戦争でプロイセンは壊滅的な敗北を受けてしまい、ベルリンも占領され、屈辱的なティルジット条約を結ばされてしまった(1807.7)。またこの時プロイセンを助けたアレクサンドル1世のロシア・ロマノフ朝(1613-1917)も同様の講和を結ぶことになった。プロイセンは領土の半分を割譲し、領土だった商業・貿易都市ダンツィヒ(グダニスク)は自由市とされてしまい、軍縮と賠償金を課せられ、隣接するポーランドにはワルシャワ大公国が建設され、同公国にはナポレオンによって王国に昇格したザクセン王国の国王が統治者として兼任することになった。ロシアはフランス帝国の大陸封鎖令に協力することとなる。
 また1810年には、フランツ1世の娘マリ=ルイーズ(1791-1847)をナポレオン1世に嫁がせた。

 屈辱的な大敗を被ったプロイセンでは、1807年以降、シュタイン(1757-1831)やハルデンベルク(1750-1822)、フンボルト(1767-1835)、フィヒテ(1762-1814)、グナイゼナウ(1760-1831)、シャルンホルスト(1755-1813)らによるプロイセン改革が施され、農奴制廃止農民解放)や、ベルリン大学創設など、政治・経済・軍事・教育のさまざまな建て直しを図り、近代化を目指していった。ただ国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世は反動的な性格で、改革も消極的ではあった。

 ナポレオン帝国に翳りが見えたのは、ロシア進軍(1812)の頃である。プロイセンとオーストリアはイギリス・スウェーデン・ロシアと結び、過去に敵対していたわだかまりを捨て、ヨーロッパ民のナショナリズムを高揚させて、諸国民でナポレオン帝国を打倒するという目標を掲げ、1813年10月、遂にライプチヒ諸国民戦争が繰り広げられた。これにより、ナポレオン帝国は崩壊、フランスはブルボン王政に戻った。その後ウィーン体制がしかれ、ウィーン議定書によってライン同盟は解体、ドイツでは、オーストリア、プロイセン、バイエルンザクセンハノーファーなど35の君主国と、リューベック・フランクフルト(=アム=マイン)・ハンブルク・ブレーメンの4自由市で構成するドイツ連邦(1815-66)が構成され、オーストリアが盟主に任じられた。各国代表は独立形態ではあったが、フランクフルトにおいて連邦議会に出席し、オーストリアが議長を務めた。オーストリアはこの間、メッテルニヒ(1773-1859)が首相として行政の主導権を握り、皇帝はフランツ1世没後フェルディナント1世(1793-1875)がオーストリア皇帝として即位し(位1835-48)、あわせてハンガリー王(フェルディナント5世として。位1835-48)も兼任した。

 プロイセンはウィーン議定書に基づいて領域を回復、ドイツ連邦は大国としての存在感を示した。フリードリヒ=ヴィルヘルム3世はこれに従う反動政治を展開し、フランス七月革命(1830)の影響でザクセンやヘッセンなどで騒乱が発生することもあった。またプロイセンの推進で1834年にはドイツ連邦の関税同盟が発足(オーストリアを除く)、ドイツ連邦を経済的に統一させることに成功した。政治はオーストリア、経済はプロイセンという位置づけが成された。

 その後フランスでは二月革命1848)の勃発で、ウィーン体制は崩壊に追いやられ、諸国民は自由主義社会を切望していった("諸国民の春")。この間プロイセンでは、フリードリヒ=ヴィルヘルム3世の後継者として、子であるフリードリヒ=ヴィルヘルム4世(位1840-61)が即位したが(1840)、王は完全な空想的ロマンティストで、"王座のロマン主義者"の異名を持つ。自由主義や立憲主義を嫌い、1847年の議会でもプロイセン憲法が父王時代に発布(1815)されながら、父王の拒否で施されなかったことで、再制定の要求があったが、同様にフリードリヒ=ヴィルヘルム4世もこれを拒否、あくまでもウィーン体制の存続を主張、反動政治を展開していた。しかし二月革命の影響がプロイセンにも波及し、1848年3月18日、首都ベルリンでブルジョワや労働者による暴動が発生した(ベルリン暴動)。これにより、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は政務を退き(22日)、カンプハウゼン(1803-90)が首相に就任して自由派政府をおこし(ドイツ三月革命)、その後フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の勅令で憲法が制定された。なお、前1847年には、ユンカー(領主貴族)出身のビスマルク(1815-98)がプロイセン連合州議会議員となって政界に登場している。彼は、反革命派として王政を護り、国王から大いなる信任を得ていた。
 フランクフルトでは1848年5月、自由主義者を中心に「統一と自由」を求めて、国民会議が開かれた(フランクフルト国民議会)。しかし大学教授や学者も参加するため論戦が展開し、議会が長期化した。またフランス二月革命後に起こった暴動(六月暴動)の鎮圧などに悩み、8月以降、反動化した。11月には制憲議会も弾圧され、ドイツ三月革命は失敗となった。

 オーストリアもフランス二月革命の影響を受け、1848年3月13日、首都ウィーンにて、学生や労働者による暴動が発生し(ウィーン暴動)、ウィーン体制の代表者メッテルニヒは失脚してイギリスに亡命した(オーストリア三月革命)。
 この影響は支配領内においても波及された。ハンガリーでは、3月、ハンガリー議会で自由主義改革が要求され、4月には首都ブダペスト(ブダペシュト。当時はドナウ川を境にブダとペストと分離していた)において、マジャール人のナショナリズムを主張したコッシュート(1802-94)が、ハプスブルク=ロートリンゲン家の支配からの離脱を唱えて民族運動をおこし、独立宣言を発したが(ハンガリー民族運動。マジャール人民族運動)、翌1849年、オーストリアを援助したロシア軍によって鎮圧され、コッシュートは国外へ亡命した。
 同じくベーメン(ボヘミア)でも6月、首都プラハにおいて、ハプスブルク=ロートリンゲン家からの離脱を図ろうと、パラツキー(1798-1876)がチェック人(チェコ人)のナショナリズムを主張し、ベーメン民族運動(チェック人民族運動)が起こった。パラツキーはオーストリアにいるスラヴ人の提唱で開催されたスラヴ民族会議の議長としてチェコ民族自立を図ったが、オーストリア軍の介入で弾圧された。オーストリア本国においても、10月までには諸運動は鎮圧された。

 フランクフルト国民議会においても、新たな紛糾が発生した。オーストリアを除外し、プロイセン国王を統一国家の王とする小ドイツ主義と、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家を王とし、オーストリアのドイツ人居住地域並びにベーメンを含めた、以前の神聖ローマ帝国の全領域を統合する大ドイツを建設しようとする大ドイツ主義との対立である。内容から、大ドイツ主義には保守派が募ったが、一方の小ドイツ主義派は自由主義的でプロテスタント色が強く、統一言語をドイツ語としている。大ドイツ主義には当然スラヴ人やハンガリー人も含まれることになる。
 その後、12月に国民基本法、翌1849年3月にはドイツ国憲法を制定、さらに長期に渡った論議の結果、小ドイツ主義が採択され、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝として就任要請した。しかし、基本的には自由主義・立憲主義を嫌っていたため、自由主義者によって開催された会議のもとで、帝冠はうけられないとしてドイツ皇帝としての戴冠を拒否した。1861年にフリードリヒ=ヴィルヘルム4世は晩年、病身のためたびたび発狂を繰り返し、1858年から弟ヴィルヘルム1世(1797-1888)がプロイセンで摂政として政務を代行した。

 ヴィルヘルム1世は陸軍元帥であり、典型的な軍人気質の政治家であった。三月革命では、ベルリン暴動の弾圧に一役買ったものの、国民には人気がなく、ロンドンへ亡命していた時期もあった。1861年に兄王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が没し、正式にプロイセン国王ヴィルヘルム1世として即位(位1861-88)、名目上は自由主義的改革を宣言して("新時代")、参謀総長モルトケ(大モルトケ。1800-91。任1858-88)や陸相ローン(1803-79。任1859-73)と軍政改革を断行、軍備強化を推進した。
 しかし、議会では軍拡予算をめぐって紛糾が続発したため、翌1862年、ヴィルヘルム1世はビスマルクを首相(任1862-90)兼外相に就任させた。ビスマルクはこれまで、フランクフルト国民議会のプロイセン代表を務め(任1851-59)、その後駐ロシア大使(任1859)や駐フランス大使(任1862)を果たしてきた敏腕であった。この議会の紛糾に対しても、1862年9月の下院予算委員会で、

「プロイセンの国境は、健全な国家の国境にふさわしいものではない。言論や多数決は1848-49年の欠陥(→三月革命のこと)であった。現下の問題はそうした言論や演説、多数決によって解決されるのではない。(→武器)と(→兵士)によって解決されるのだ。」

 と議会演説をおこない、"鉄"と"血"、つまり鉄血政策の必要性を主張し、議会の反対を押し切って予算案を議決させたのであった。このため、彼は"鉄血宰相"と呼ばれるようになる。こうしてヴィルヘルム1世とビスマルク首相による武力によるドイツの統一政策が始まった。軍隊組織の再編では、モルトケ参謀総長による参謀本部制度をもうけた。軍隊のことだけを考え、政治分野には一切野心を持たないモルトケ自身は"偉大な沈黙者"と呼ばれ、後に甥のモルトケ(小モルトケ。1848-1916)も参謀総長として活躍する(任1906-14)。

 軍拡によってプロイセン国内の産業も発展した。軍需産業界では、クルップ(創設者フリードリヒ=クルップ。1787-1826。息子で2代目社長アルフレートの時に鉄鋼独占企業となる。1812-71)などの代表的な鉄鋼工場が大躍進した。またイギリスのヘンリー=ベッセマー(1813-98)による転炉法(ベッセマー製法)によって良質の鉄鋼の大量生産を可能にし、後に"クルップ砲"が完成、"死の商人"といわれるようになる。

 一方イタリア統一運動(リソルジメント)の推進者カルロ=アルベルト(サルディーニャ王。位1831-49)が北イタリア統一を推進しようとし、オーストリア支配下にあったヴェネツィア市ロンバルディアの奪還を目指して、オーストリアと戦ったが敗北、統一を阻止された(1848-49)。オーストリアは三月革命期、フェルディナント1世の後を継いだ甥フランツ=ヨーゼフ1世(1830-1916)がオーストリア皇帝として中央集権的統治を行い(位1848-1916。ハンガリー王位1848-1916)、ハンガリー民族運動を鎮圧するなど活躍していたが、イタリア統一運動はその後も続いており、1859年6月に再度イタリアと統一戦争を展開、激戦をものにすることはできず敗北、ロンバルディアを割譲することになった。

 こうした情勢の中、北欧でも異変が起きた。元々デンマークと同君連合におかれたドイツ系住民が多い小公国で、ユトランド半島の基部に位置している、北のシュレスヴィヒと南のホルシュタインを、デンマークが1863年併合を宣言した(シュレスヴィヒ-ホルシュタイン問題)。両地方の住民はプロイセンに援助を求めたため、プロイセンのビスマルクとオーストリアに共同出兵をおこし、翌1864年、併合を阻止して両地方を占領した(デンマーク戦争)。占領後、プロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインをそれぞれ管理区域として決めた。

 しかし、これはビスマルク首相の策略であった。もともとシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両方ともプロイセンが獲得したかったのは周知の事実であり、また軍力においては、モルトケ参謀総長の尽力でオーストリア帝国をはるかに凌いでいることは火を見るより明らかであった。プロイセン・オーストリアの両者が争っても、プロイセンが勝つことは目に見えていた。オーストリアはイタリア統一戦争に敗れ、中央集権体制に不満な国民のもとで政情が不安定ときている。しかし、オーストリアにも意地があり、ハプスブルク(=ロートリンゲン)家としての威信を持って、自由主義と戦う姿勢は変わらなかった。
 1866年6月、ビスマルク首相は、シュレスヴィヒにいるプロイセン軍に呼びかけ、オーストリアが支配するホルシュタインに軍を侵入させた。オーストリアはこれに激怒し、ビスマルクの期待通りに開戦となった(普墺戦争。ふおうせんそう。プロイセン-オーストリア戦争)。ビスマルクの挑発に、オーストリアが完全に乗せられた形となったのである。いずれにせよ、オーストリア継承戦争(1740-48)・七年戦争(1756-63)に続く、プロイセン-オーストリア間での再度の対戦となったのである。今回はドイツ連邦内での戦争である。

 ビスマルクは巧みな外交策でフランスとロシアに中立を守らせた。プロイセンはオーストリア支配下のホルシュタインを占領、ベーメン侵入後はサドヴァ(サドワ。ケーニヒグレーツ。現チェコ。)で主力軍同士の激戦を展開するが、軍拡化と工業化においては圧倒的にプロイセンがまさり、オーストリアは、プロイセンの新兵器に対して、継承戦争~七年戦争時代での軍力で立ち向かうという近代化の遅れが露出し、同年7月3日、惨敗を喫した。わずか7週間で勝敗が決まり、七年戦争ならず、"七週間戦争"であった。

 普墺戦争の講和はプラハで行われた(1866.8プラハ条約)。プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン全域を領有し、オーストリアをドイツ連邦から追放することを決定した。盟主オーストリアの追放により、ドイツ連邦は解体することになる(1866)。オーストリアはイタリア統一戦争、普墺戦争と、立て続けに敗北したことになり、フランツ=ヨーゼフ1世の権威も失墜した。イタリアからも講和を結ばされ、以前のロンバルディアに続き、とうとうヴェネツィアまで割譲することとなった(1866)。こうした状況の下で、複合民族国家統治を行うオーストリアにとっては、領内のナショナリズム高揚が心配の種となり、中でも革命運動から飛び火したハンガリーに関しては深刻だった。実際にハプスブルク=ロートリンゲン家がハンガリー王を兼ねるため、マジャール人(ハンガリー人)の暴動も起こり得る不安が懸念された。
 翌1867年、プロイセンはオーストリアのドイツ連邦に代わる北ドイツ連邦を成立させた(1867-71)。プロイセンが盟主(連邦主席)となり、マイン川以北の22のドイツ諸邦で組織された。連邦国会と連邦参議院を持ち、普通選挙を導入したが、実質はプロイセン王ヴィルヘルム1世やプロイセン首相ビスマルクらによって動かされていった。

 オーストリアでは、同1867年、ハンガリーへの妥協策として自治権を与え、議会と政府を容認することにした。アウスグライヒ(ドイツ語で"協定"・"妥協"の意)といい、フランツ=ヨーゼフ1世(ハンガリー王として)と、ハンガリー国民を代表するハンガリー国会の間で締結された。ハンガリーはハプスブルク=ロートリンゲン家の国王のもとで独自の王国となり、オーストリア帝国とは別に政府と議会を持つが、外政と軍政、それに関連する財政を両国共通とした。よって、オーストリアは"オーストリア帝国"から"オーストリア=ハンガリー二重帝国(1867-1918)"と発展し、フランツ=ヨーゼフ1世は引き続きオーストリア皇帝とハンガリー王を兼任した。

 フランツ=ヨーゼフ1世は弟フェルディナント=マクシミリアン(1832-67)がいたが、フランスに乞われてメキシコ皇帝となるも(位1864-67)、フランスの傀儡政権として擁立されたものであり、フランス撤退後は、見放されて捕虜となり、同1867年、銃殺刑を受けた。この時のフランスは第二帝政期(1852-70)で、フランス皇帝は、ナポレオン1世の甥・ナポレオン3世ルイ=ナポレオン。位1852-70)であった。フランツ=ヨーゼフ1世の悲劇はこの後も続き、最初の皇太子として期待のあったルードルフ=フランツ=カール=ヨーゼフ(1858-89)は、1889年、16(17?)歳の少女と死体で発見され(これはマイヤーリンク事件と呼ばれる事件である。心中説・暗殺説など浮上しているが、真相は謎である)、また皇后エリーザベト(1837-1898)が旅行先で暗殺され、さらには次期帝位継承者とした皇太子である甥フランツ=フェルディナント(1863-1914)と妻ゾフィー(1868-1914)がサライエヴォ事件1914.6)でセルビア人に暗殺されるなど、家庭的には不運が続き、"悲劇の皇帝"と呼ばれた。
 フランツ=ヨーゼフ1世は、1916年、自国オーストリアも参戦した第一次世界大戦(1914-18)の勝敗をみることもなく没し、その後フランツ=フェルディナントの甥にあたるカール1世(位1916-18)が即位した。オーストリア=ハンガリーは第一次世界大戦で敗戦国となり、二重帝国は諸民族の離反で解体、カール1世も1918年退位となった。終戦後サン=ジェルマン条約を結ばされ、チェコスロヴァキアやセルビア、スロヴェニア、ポーランドそしてハンガリーが独立、オーストリアはドイツ人の共和国となっていった。640年にも及ぶ神聖ローマ帝国・オーストリア帝国の君臨者として、代々国王・皇帝を輩出してきたハプスブルク(=ロートリンゲン)家は、遂に帝国支配に別れを告げた。なお、2004年10月、最後のハプスブルク家皇帝となったカール1世は、死後82年を経過して、当時のローマ教皇ヨハネ=パウロ2世(位1978-2005)によって列福(福者の地位を与えられること。福者は聖徳と認められた者)された。

 プロイセンでは、北ドイツ連邦をドイツ国家として統一する目標を掲げていたが、隣国フランス・ナポレオン3世が黙視する筈がなかった。ビスマルクはドイツ統一の大前提として、フランスとの決戦に勝つことを考え、軍備を整え始めた。1870年、ドイツの温泉地エムスで、ヴィルヘルム1世とフランス大使との間に会談があった。その内容は、プロイセンの王家であるホーエンツォレルン家からスペイン王位継承者を出すというものであったが、当然フランスは反対の立場を取り、フランス大使をエムスに派遣したのである。この内容の電報をビスマルクが受けたわけだが、普墺戦争と同じく、ドイツの軍力でフランスに必ず勝てると確信したビスマルクは、電報の内容を、"フランス大使がプロイセン王を脅迫し、スペイン王位継承者を出さないという保証を迫った。これに対して王は大使をその場から追い返した。"と電報の内容を歪曲して発表したのである(エムス電報事件)。プロイセン国民は当然この電報に怒り、フランス国民にとってもこの侮辱に怒りが頂点に達した。結局ビスマルクの挑発に乗ってしまったナポレオン3世が、プロイセンに宣戦、普仏戦争(ふふつせんそう。プロイセン-フランス戦争1870-71)が勃発した。結局プロイセン軍がナポレオン3世をセダン(フランス東部国境の要塞)で捕らえ、ナポレオン3世は降伏、パリを占領しフランス第二帝政は崩壊した。戦況はプロイセンが断然有利であり、終戦を迎えぬうちに、ヴェルサイユ宮殿鏡の間において、ドイツ帝国の成立を宣言した(1871.1)。ドイツにおける第一帝国が神聖ローマ帝国なら、ドイツ帝国は第二帝国であった。終戦後、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザス・ロレーヌを獲得した(1871.5)。

 ドイツ国家の中に組み込まれたプロイセン王国は、ドイツ帝国の盟主となり、プロイセン国王とプロイセン首相が、それぞれドイツ皇帝と帝国宰相となる。これにより、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が誕生(帝位1871-1888)、ドイツ皇帝はドイツ語でカイザーといい、"カエサル"に由来する。そしてビスマルクは帝国宰相に任命され、侯爵となった。帝国憲法は4月に発布され、連邦制と二院制が規定された。しかし設けられた帝国議会はあくまで形式的で、責任内閣制は認められず、政府に対しては無力状態であった。諸邦政府の代表会議である連邦参議院も議長は帝国宰相が務めることになった。よってビスマルク時代の到来を告げたのも同様であった。

 ただ、帝国内でのプロイセン王国は、指導的立場を取る連邦国として、帝国の中心となるはずであったが、ドイツ帝国としての統一意識がおこったことで、プロイセンという王国は一州的存在となっていった。その後は第一次世界大戦(ドイツは敗戦国)を終わらせる契機となった民主主義的ドイツ革命1918.11-19.1)によってドイツ帝国はヴァイマル共和国(1919-33。ワイマール共和国)となり、帝政は廃された。同時にプロイセン王国も実体がなくなり、名目上の存在となる(実質の解体・消滅は第二次世界大戦の敗戦後。連合国による分割統治)。政情不安定の中、世界恐慌1929)の波及を受けるも対処できず、反動的右翼の台頭を招き、その後、ナチスによる共和政崩壊が導かれていく。


 神聖ローマ帝国・前後編(Vol7677)から数えて5作連続、大長編となってしまいました。最後までお読みいただきまして本当にありがとうございました。実は後半より登場したビスマルクの、その後の内外の行政改革についても触れたかったのですが、これを含めますと、あと2作ほど作成しなければならなかったので、別の機会にさせていただくことにしました。

 さて、さっそく今回の学習ポイントに入りましょう。まずナポレオン時代では、1806年、遂に神聖ローマ帝国が完全滅亡します。ナポレオンがライン同盟を組織したからですが、ハプスブルク(=ロートリンゲン)家は、これ以降はオーストリア皇帝として登場していきます。ライン同盟はウィーン議定書で消滅、ドイツ連邦となります。この中にはオーストリアもプロイセンも連邦国として入っています。

 そして三月革命がおとずれるのですが、ウィーン体制に支配されたオーストリアでは、三月革命が勃発する1848年までのウィーン体制は、"フォアメルツ(三月前期)"と呼ばれて、ハプスブルク家が輝きを保てた最後の期間でした。ウィーン暴動が勃発すると、メッテルニヒは国外へ亡命し、ハンガリーやベーメンで大規模な"脱ハプスブルク"運動を展開します。フランツ=ヨーゼフ1世は大変な次期に皇帝になったのですね。その三月革命ですが、そのオーストリアでは、ウィーン暴動、メッテルニヒ亡命、ハンガリー暴動(コッシュート指揮)、ベーメン暴動(パラツキー指揮)などが大事です。また、ハンガリー暴動や、同時期にクラクフで起こったポーランド独立運動は、ロシアが鎮圧のアシストをしたことも知っておきましょう。プロイセンではベルリン暴動を覚えておきましょう。

 そしてフランクフルト国民議会ですが、ハプスブルク家のいるオーストリアが大ドイツ主義で、スラヴ人もマジャール人(ハンガリー)もチェック人(チェコ人。ベーメン)もオーストリア中心の大きなドイツ国家として統一しようという見方です。一方プロイセン中心は小ドイツ主義といって、オーストリアを排除して新しいドイツをつくろうとする見方です。ドイツ語を話すのが小ドイツ主義です。そして小ドイツ主義が議会で勝って、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝として即位するはずが、本人の拒否でこの時点でのドイツ帝国はなりませんでした。フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の名前は試験にはあまり出ませんが、この経緯は試験には頻出です。覚えておきましょう。

 そして、普墺戦争と普仏戦争ですが、普墺戦争が普仏戦争より先に起こっていることは当然知っておきましょう。普墺戦争は、シュレスヴィヒ-ホルシュタイン問題でデンマークと絡んでいることはよく出題されます。結局ビスマルクのいるプロイセンが勝って、ドイツ連邦は北ドイツ連邦となり、オーストリアはオーストリア=ハンガリー二重帝国となります。
 普仏戦争においては、フランス・ナポレオン3世の時代であること、スペイン王位継承問題が発端であること(エムス電報事件もついでに知っておこう)、フランスが負けて、ナポレオン3世がセダンで捕虜となったこと、終戦後、アルザスとロレーヌをフランスから得たことなどが大事です。また戦争中の1871年にヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠を受け、ドイツ帝国が誕生したことも覚えましょう。ビスマルクは、その後フランスの報復を警戒し、フランスを孤立化するというヨーロッパ情勢を形成していきます。

 ドイツ帝国の構成上の内容では、まず連邦制国家が重要で、プロイセン王が皇帝になり、プロイセン首相が宰相となります。そして立法府では、各邦の代表が連邦参議院を構成し、男子普通選挙("男子"というのもできれば知って欲しい)で成り立つ帝国議会を立ち上げられます。でも実際は、ビスマルク宰相が政権を握ったようなものでした。

 さて、長かったドイツ/オーストリアの中世・近代史編はこれで終わりです。次の81作目は8月に更新の予定です。