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世界史の目

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ギャラリー

第81話


中世イスラム世界~アッバース朝の興亡~

 アラブ帝国・ウマイヤ朝(661-750)は、シリア総督だったムアーウィア(?-680)が初代カリフ(ムスリム全体の政治的首長の称号。位661-680)となって創始された王朝である。その勢力は8世紀初めには全盛期が訪れ、首都ダマスクスダマスカス。現シリア=アラブ共和国首都)を中心に、東方はインド西北部、西方はイベリア半島を経てアフリカ北部まで拡大したが、それと同時にカリフの実権も伸張していった。

 ウマイヤ朝が成立して後、イスラム(イスラーム)教は最後の正統カリフアリー(4代目カリフ。位656-661)の子孫をカリフとするシーア派と、ムハンマド(570?-632)の言行(スンナ)に従ってカリフに就いた者を正統と認めるスンナ派(スンニー派)とに分派した。ムアーウィアは、クライシュ族のウマイヤ家出身で(預言者ムハンマドもクライシュ族だが、ウマイヤ家と対立するハーシム家出身)、アリーとカリフ継承権を争ったため、ウマイヤ朝を認めないシーア派は少数派、そしてスンナ派は多数派という位置づけであった。

 ウマイヤ朝カリフの強権政治によって、イラン人やエジプト人など征服地の先住民にはジズヤ人頭税)とハラージュ地租)が課せられた。ジズヤとハラージュは支配者であるアラブ=イスラム教徒には免除となった。またアラブの軍人・官僚には、徴収分から俸給(アター)として支給されるなど、多くの特権を享受したのに対し、被征服民には、たとえ彼らがイスラム教に改宗しても税の免除はならなかった。さらに改宗しなかった国内の異教徒も、庇護民(ジンミー。ズィンミー)として生命と財産を保障する代わりに租税賦課を義務づけられた。こうした身分的な不平等は、預言者ムハンマドが唯一神アッラーの前で説いた"信者の平等"に反し、聖典『コーラン』をも反することであった。このため、征服地の非アラブ・イスラム改宗者(マワーリー)によるウマイヤ政権に対する批判運動を秘密裏に展開していき、一部のアラブ人ムスリムもこれに加わるようになった。

 メッカのハーシム家はムハンマドの生家だが、アリー家の他に、アッバース家という分家があった。ムハンマドの叔父にあたるアル=アッバース(?-654)が始祖であり、その子孫であるアブー=アルアッバース(723-754)の時代に、ウマイヤ朝打倒運動は本格化していった。この運動が展開されたのは、アッバース家はムハンマドの家系にあたることから、イブラーヒム(?-749?/750?)が、弟であるアブー=アルアッバースやマンスール(アル=マンスール。712/714-775)らと立ち上がり、ムハンマドの家族出身であることを利用してこの運動に加わり、ウマイヤ朝に不満を抱えるマワーリーや過激シーア派の協力を得たためである。

 イブラーヒム兄弟は、745年頃イラン北東部のホラーサーン地方に向かい、軍隊を整備した(ホラーサーン軍)。その後同地で挙兵(ホラーサーン蜂起)、軍営都市("ミスル"と呼ばれる)であるクーファ(バグダード南方。アリー支持者が集住。シーア派中心地)に進軍した(749)。その後ウマイヤ朝14代カリフ・マルワーン2世(位744-750)を討ち、ウマイヤ朝は滅亡した(アッバース朝革命。750)。クーファ入城後、イブラーヒムは急逝したが、弟アブー=アルアッバースがアッバース家における初代カリフに推戴された(位750-754)。イスラム教徒の王朝(イスラム帝国)、アッバース朝750-1258)の誕生である。

 アッバース朝の初代カリフとなったアブー=アルアッバースは、国内統一と政権維持の安定化に努めることにした。そのためには、多数派のスンナ派を支持して、彼らの宗旨を採り入れざるを得なかった。こうして、同王朝をスンナ派保護国家と宣言したアブー=アルアッバースは、彼の激的な性格が災いして、これまで革命運動期に協力関係にあったシーア派の皆殺しを図り、ウマイヤ家残党や大量のシーア派教徒が殺害された。
 官僚をアッバース家の近親者で固め、中央集権化に力を注いだアブー=アルアッバースは、751年、中央アジア北部のタラス河畔で、中国・王朝(618-907)の軍隊と戦い、これを撃退した(タラス河畔の戦い)。こうして、アッバース朝は、アジア世界に知られるようになり、とくに中国にとってはイスラム帝国・アッバース朝の脅威的存在を見せつけられることとなる。
 この戦い以降、唐は西域経営から後退、王朝も衰退へと向かう一方、トルキスタン地域へのイスラム勢力進出が本格的に行われた。またタラス河畔での戦闘で捕らえられた唐の紙すき職人から、麻布を原料とする製紙法がイスラム世界に伝わったとされる(製紙法の西伝)。アブー=アルアッバースは754年、疫病により没し、その後サッファーフ("流血者")の名をおくられた。

 アブー=アルアッバースを継いでカリフに就いた弟マンスール(位754-775)は、軍隊ではホラーサーン軍を重用して、カリフによる政権安定に努めるとともに、カリフ継承時に争った叔父や兄アブー=アルアッバース時代に立てた反マンスール派の功臣たちを粛清した。そして、ササン朝ペルシア(226-651)の伝統を受け継ぎ、アラブ人ではなくイラン人を官職に就かせ、行財政におけるカリフの補佐官として宰相(ワズィール。ワジール)を創設して諸官庁を統轄し、官僚制度を整備した。また、主要街道に駅伝制を導入したことにより、地方管理が行き届くようになり、カリフによる専制君主化が進行した。

 アッバース家カリフ政権の強化の大きな理由として、ウマイヤ家再興が挙げられる。実は、サッファーフ時代にウマイヤ家粛清を辛うじて逃れた元カリフ(ヒシャーム。位724-743。ウマイヤ家カリフ10代目)の孫だった19歳の青年アブド=アッラフマーン(731-788)が、親族の皆殺しに遭うと、危地を脱するためシリアからモロッコまでの逃避行を敢行、のちアンダルス(アラビア語で"イベリア半島"のこと)に上陸(755)、半島南部のコルドバを都に、後ウマイヤ朝756-1031)を創設、青年はアブド=アッラフマーン1世として君主となった(位756-788)。彼の治世はフランク王国のカール大帝(カール1世。王位768-814、西ローマ帝位800-814)と戦い、これを撃退したことで有名で(778)、後の西欧文学の代表である武勲詩『ローランの歌(12C)』にも記されている。アブド=アッラフマーン1世の時代には"カリフ"を使用しなかったが、東のアッバース朝にとって、西の後ウマイヤ朝によるウマイヤ家の復活は脅威だった。

 アッバース朝カリフ・マンスールの最大の功績は、首都の造営である。数々の要地を調査し、選定されたのはティグリス西岸の小村・バグダードバグダッド。現イラク共和国首都)であった。762年から王都建設を始め、766年にアッバース朝の都バグダードが完成した。同都市は円形状に建設され(直径約3㎞)、"マディーナ=アッサラーム(アラビア語で"平安の都")"と呼ばれた。円城の内部には金門宮殿、モスク、諸官庁が建設され、三重につくられた城壁の出入口にはそれぞれ、シリア門、ホラーサーン門、バスラ門、クーファ門などが設けられた。バグダードは、東西文化が交流する重要交易地であり、その後ティグリス東岸にも拡大し、各地にスーク(市場。アラビア語。ペルシャ語では"バザール")が並んだ。こうした状況から、独自の文化が開けていく。

 マンスールのもとで、アッバース朝の基礎が築かれたわけだが、アッバース朝では代々、『コーラン』とイスラム法シャリーア)に基づき、イスラム教徒の平等化を徹底した。ウマイヤ朝時代では、アラブ人ムスリムはジズヤとハラージュを免除することができたが、これらをはじめとするアラブ人の様々な特権はアッバース朝では廃止され、非アラブ人もイスラム教に改宗すればジズヤを免除することができた。またハラージュにおいては、土地所有者、つまり、開墾に従事すれば、アラブ人・非アラブ人問わず土地所有者としてハラージュは課せられた。これにより、アラブ人の特権は失われ、アッバース朝はアラブ帝国ではなく、完全なイスラム帝国として位置づけられた。また、アラビア語を公用語としたが、イラン人、インド人、トルコ人、ベルベル人(ハム系)など、周辺民族とも交流を深めて独自のイスラム社会を形成していった。

 マンスール没後、子のマフディー(位775-785)、孫のハーディー(位785-786)がカリフを継ぎ、世襲制度も安定した。ハーディーは786年暗殺され、弟が第5代カリフに就いた。このカリフの時代にアッバース朝は政治面、経済面、文化面すべてにおいて全盛期を迎え、首都バグダードは人口が200万に膨れ上がるのである。この黄金時代を現出したハーディーの弟である第5代カリフは、ハールーン=アッラシード(位786-809)という人物である。

 ハールーン=アッラシードは、前々カリフのマフディーと奴隷出身の母との間に生まれた(763/766-809)。代々ワズィール(宰相)は、イラン系の名家であるバルマク家がつとめていたが、ラシードが即位した最初の17年間は、ヤフヤ(738-805)と息子ファドル(?-806)とジャアファル(?-803)兄弟らによるバルマク家がワズィールとして政権を握っていた。ラシードは、803年以後、バルマク家の一掃を図り、ヤフヤ、ファドル、ジャアファルらを捕らえ、同家の一族を大量粛清した。これまでバルマク家を大いに重用していたラシードだったが、権勢のあったバルマク家を追放して親政を行うが為の粛清だったのかどうか、真相は不明である。のちに完成するアラビア語文学の大説話集『アラビアン=ナイト千夜一夜物語)』の中に、バルマク家の惨劇に関する内容が記述されている。

 ラシードの真の脅威は803年の親政後に始まった。791年から西方のビザンツ帝国(395-1453)と戦い、797年にはビザンツの支配する小アジア(アナトリア)への親征も行っていたが、親政後も再度親征を行い(806)、ビザンツからの朝貢を条件に講和した(809)。またフランク王国のカール大帝に使節をおくり、贈り物交換を行ったとも言われている。スンナ派の信仰を徹底、また産業や貿易を振興し、多くの文化人を平安の都バグダードに集めて、学問・芸術を奨励した。このため、バグダードを中心にイスラム文化が発展し、バグダードは"世界に並ぶものなき都"として繁栄した。こうして、ハールーン=アッラシードの権勢は広く知れ渡るようになっていった。

 ハールーン=アッラシードはホラーサーン地方での反乱を鎮圧するため、ホラーサーン親征を決行するが、809年、戦場へ向かう途中、ホラーサーンのトゥース(イラン最大の詩人・フィルドゥシーの出身地として有名。940?-1025。著書『シャー=ナーメ(王の書)』)で病没した。その後は3人の子、アミーン(位809-813)、マームーン(位813-833)、ムータスィム(位833-842)と続き、世襲によるカリフ継承はその後も続けられたが、ムクタディル(位908-932)が登場した頃は、すでに第18代カリフで、ラシードが没して約100年の間、11人ものカリフ位交替を行っていた。これから見ても分かるように、カリフの権威はラシードの没を境に徐々に縮小されていくのであった。そして、アッバース朝の勢力範囲も縮小し、地方総督や軍指揮官ら("アミール"という)の自立が顕著となった。イランのホラーサーン地方ではアミール自立によるターヒル朝(821-873)がおこされた。ターヒル朝はその後イラン人の鍛冶職人がおこしたサッファール朝(867-1003)に倒されるが、イラン系貴族によってアム川以東におこった、中央アジア初のイラン系イスラム王朝であるサーマーン朝(875-999)がサッファール朝を倒してホラーサーン一帯を支配した。サーマーン朝は、東部イランから中央アジアを領有する巨大王朝で、ブハラ、サマルカンド、メルヴといった商業都市を発展させたことで名高い。

 カリフの権威が縮小した理由として、イラク南部(バスラ近郊)で起こったザンジュの乱がある(869-883)。ザンジュとはアラビア語で"黒人"の意味がある。当時イスラム帝国下では、私領地(ダイア)を所有するカリフや官僚、また商人たちが、東アフリカ出身の黒人奴隷を用いて、私領地改良事業を大規模に行っていたが、貧農身分であるザンジュは悪条件での労働生活に不満を爆発させ、大規模な反乱を勃発させた。一時は南イラクを征服するなど強勢を誇り、アッバース朝カリフ・ムータミド(位870-892)も対応に困ったが、883年には鎮圧に成功するも、10年以上も続いた戦乱でカリフの権威は大いに揺らぎ、中央政府による帝国維持体制の機能は万全ではなくなった。これによって、アミールの自立化、王朝の分立化が促進したとも言える。

 北アフリカ・東アフリカも分立化が促進した。モロッコではシーア派のイドリース朝(789-926)がおこり、エジプトでは、アッバース朝のトルコ系奴隷軍人がバグダードの納税を拒否して自立し、トゥールーン朝(868-905)を建設した。シリアをも支配したトゥールーン朝はエジプトを中心に繁栄を極めたが、結局はアッバース朝に再び支配された。
 トゥールーン朝以上に勢いのあったのが、チュニジアにおこったファーティマ朝909-1171)である。シーア派の一分派であるイスマーイール派過激シーア派)の宣教が実を結び、オバイドゥッラー(生没年不詳)はマフディーという名でファーティマ家の初代カリフに立った(位909-934)。シーア派イスラム帝国によるカリフ誕生は、スンナ派アッバース朝カリフの動揺を激化させたが、その後、先の後ウマイヤ朝においても8代目当主アブド=アッラフマーン3世(889/891-961。位912-961)のもとで全盛期がおとずれ、彼もファーティマ朝に対抗して後ウマイヤ朝の初代カリフを称したため(位929-961)、東カリフのアッバース朝、西カリフの後ウマイヤ朝、間に中カリフのファーティマ朝と、3つのカリフが鼎立する、イスラム帝国の政治的分裂が決定的となり、"神の使徒の後継者・代理人"の概念が見失われてしまった。

 ファーティマ朝は、エジプトを征服(969)後に新都カイロを建設(973)、紅海貿易で富を得、高等教育機関(マドラサ)であるアズハル学院を創設するなど、シーア派帝国としての存在感を強く示した。また後ウマイヤ朝においても、アブド=アッラフマーン3世の尽力で959年にはイベリア半島のほぼ全域を掌握し、産業振興と軍力整備を徹底した。これにより、首都コルドバは人口も膨れあがり、商業的・文化的にも中心的都市となっていった。
 これに対し、アッバース朝の支配領域はバグダードを中心としたイラク周辺に留まっており、過去にあれだけ脅威的存在を誇っていたカリフも無力化状態であった。権力の第一の支えであったホラーサーン軍も、サーマーン朝の出現で容易に編成できなくなり、いつ敵がバグダードに入城しても陥落はやむを得ない状況にあった。

 そこで、アッバース朝カリフは、9世紀以降、ホラーサーン軍に代わる新しい軍隊整備を行った。それは、奴隷軍人(アラビア語で"マムルーク")の採用である。マムルークは、はじめは白人奴隷として買われたトルコ人やスラヴ人などが、専門の訓練学校において、軍事的戦術と学術(アラビア語、『コーラン』、イスラム法など)の養育を行ったあと、奴隷身分から解放され、忠誠心でもって政治・軍事的集団として主に仕えた階級である。アッバース朝はマムルーク購入を実施して強力な軍隊を組織していくのだが、この強力さが仇となり、国政に関与し、アッバース朝カリフを脅かして、カリフ位の改廃もマムルークが自由に行うようになっていく。イスラム世界の唯一の指導者的役割を果たしたカリフはすでに他の2王朝(後ウマイヤ朝・ファーティマ朝)が擁立し、マムルークの台頭によって、アッバース朝はカリフの国ではなくなりつつあった。

 こうした中で、932年、カスピ海の西南デイラム山地におこったイラン系十二イマーム派穏健シーア派)の軍事政権・ブワイフ朝(932-1062)の一派が、混乱の続くアッバース朝の首都バグダードに向かって出征し始め、946年(945年?)、遂に入城した。ブワイフ朝は、これまでカリフが握っていた全イスラムの統治権、つまりイスラム法の施行権を強要した。アッバース朝カリフ・ムスタクフィー(位944-946)は遂に屈服してブワイフ朝政権に"大将軍(アミール=アル=ウマラー。大アミール)"の称号を与えさせられた。カリフに代わる新しいイスラム指導者"大アミール"を得たブワイフ朝はシーア派でありながら、アッバース朝のスンナ派をも保護するという相互関係を取り結んだため、アッバース朝は滅亡を免れた。しかし、この時点でアッバース朝は有名無実状態であり、同王朝カリフはブワイフ朝の傀儡政権であった。
 ブワイフ朝政権は功臣や兵士に土地分封を行い、戦時には従軍させる一種の封建制度(イクター制)を導入した。また文化面においても厚く保護・奨励し、病院など多くの施設が建設された。

 ファーティマ朝や後ウマイヤ朝といったカリフ国もまた、以前のような勢いが見られず後退していく中、トルコ人のイスラム化が促進されたことで、イスラム世界の激動は、11世紀になると、西方のアラビアから東方のトルコへと移っていった。サーマーン朝は、9世紀(?)におこった中央アジアのトルコ系カラ=ハン朝(840?-1212)に滅ぼされ、またサーマーン朝のマムルークだったアルプテギン(?-963)がアフガニスタンでトルコ系ガズナ朝ガズニ朝。962-1186)をおこし、その後インドにも進出した。カラ=ハン朝が衰退し東に後退した中央アジアのホラーサーンでは、1038年トルコ系スンナ派セルジューク族を率いたトゥグリル=ベク(995-1063。位1038-63)が君主となってセルジューク朝(1038-1194)を開基し、ガズナ朝からイランを奪うなどして領地を拡大していった。
 そのセルジューク朝は、東方イスラム世界において大きく発展し、領土も拡大、宰相ニザーム=アル=ムルク(1017?-92)は、ブワイフ朝でも導入されたイクター制を大成させて、王朝の充実を図った。

 セルジューク朝は王権充実を図って、イスラム世界の指導者としての称号を得るべく、ブワイフ朝の打倒とカリフ奪取を考えていたが、シーア派国家ブワイフ朝の圧力統治に不満を抱えるアッバース朝カリフ・カーイム(位1031-75)は、同じスンナ派であるセルジューク朝の救援を求めた。
 好の機会ととらえたセルジューク朝のトゥグリル=ベクは、カーイムの招きに応じて1055年、バグダードに入城した。入城後、ブワイフ軍を駆逐し、シーア派追放に成功、アッバース朝カリフのカーイムから、イスラム世界の世俗君主"スルタン(=支配者)"の称号を受けた。トゥグリル=ベクは初代スルタンとなった(位1055-1063)。こうしてスルタンは、スンナ派イスラム国家の君主の称号として広く知られていくのである。一方教権保持者のカリフによる神権政治は完全に闇に葬られていき、アッバース朝は、1258年、モンゴル帝国のフラグ(フレグ。1218?-65)のバグダード侵攻によりついに首都バグダードは陥落、アッバース朝における最後のカリフ・ムスタースィム(位1242-58)は殺害された。こうして、イスラム帝国としてイスラム世界を君臨し続けてきたアッバース朝は名実ともに滅亡した(アッバース朝滅亡)。

 アッバース朝カリフは、初代カリフのアブー=アルアッバースから数えて、実に37代に及んだが、ムハンマド時代、正統カリフ時代を経て、剛健で強勢を誇り、隣接する周辺国家を脅かした初代イスラム大帝国の500年余の治世は、完全に幕を閉じることとなった。しかし、『コーラン』やイスラム法に基づく全ムスリムに平等な待遇を与えた同帝国は、アラブ・非アラブ問わず、社会への進出を可能なものとし、アラビア語を優位性を強調して、周辺域の社会・文化を吸収して誕生した、独自のイスラム文化が開花し、中世文化の頂点に躍り立つこととなる。


 連載81回目の今回は、アッバース朝を中心としたイスラム世界をご紹介しました。世界史の中で、イスラム史を苦手としている受験生も多いと思いますが、その原因は、馴染みの薄い地域でのお話であること、馴染みの薄い宗教の教義で歴史が変化することなどが挙げられます。

 では、今回の学習ポイントを見ていきましょう。まずはアラブ帝国・ウマイヤ朝から。始祖ムアーウィア、首都ダマスクスは重要項目です。ダマスクスといえば、古代アラム人の中心地でしたね(Vol.45東地中海の民参照)。また、現在のシリアの首都でもあります。
 イスラム史において避けて通れないのが、宗派の分裂です。まず、多数派がスンナ派で、ムハンマドの言行を務める代々のカリフを正統と認めた宗派です。現在ではシリア、トルコ、サウジアラビア、パキスタン、ヨルダン、アフガニスタンなどに多いです。一方数派のーア派("し"・"シ"つながりで覚えてください)は、正統カリフ最後のアリーとその子孫を正統とみなす宗派で、信仰上の指導者をイマームといいます。イマームはスンナ派など他の宗派でも指導者的意味で用いられます。またシーア派には主要の穏健派の十二イマーム派、過激派のイスマーイール派などがあります。現在ではイラン、イラク(約6割)などにシーア派が多いです。ただイラクは旧フセイン政権のときはスンナ派が主導権を握っていました。アッバース朝、セルジューク朝はスンナ派王朝、ブワイフ朝、ファーティマ朝はシーア派王朝です。

 あと、財政ではジズヤとハラージュを覚えておきましょう。ウマイヤ朝はアラブ第一主義で、アラブ人にはこれらが免除されて、年金が支給されるなどの特権がありましたがが、非アラブ人にはたとえマワーリー(改宗者)となっても免税は不可能でした。これが王朝打倒運動につながっていきます。今回は触れませんでしたが、ウマイヤ朝は711年西ゴート王国を征服したあと、フランク王国とトゥール=ポワティエ間の戦い732)に敗れて退いています。これは頻出事項ですね。

 そして、本日のメインであるアッバース朝です。建国は750年、滅亡は1258年、首都はバグダード、始祖はアブー=アルアッバース、もしくはサッファーフ、全盛期はハールーン=アッラシード、建国の翌年に唐とタラス河畔の戦いに勝った、アラブ人特権廃止で、非アラブ改宗者もジズヤ免除、ハラージュは全員に賦課、これらは重要項目です。難関受験では、イラン人の要職進出、中国では大食(タージー)と呼ばれて、広州・泉州で居留地(蕃坊。ばんぼう)を置いたことなども大事ですね。
 これ以外では、サッファール朝やサーマーン朝が独立したこと、ブワイフ朝が946年(945年)、セルジューク朝が1055年にバグダードに攻めてきたこと、モンゴルのフラグによって滅ぼされたことも大事です。アッバース朝カリフは、ブワイフ朝には大アミール、セルジューク朝にはスルタンの称号をプレゼントしています。なお、アッバース朝カリフについては、サッファーフとハールーン=アッラシードの2人を覚えておけば大丈夫ですが、余裕があればバグダードを建設したマンスール、アッバース家の先祖アル=アッバースも知っておけば万全です。ちなみに『アラビアン=ナイト』に登場するシンドバッドの冒険は、ハールーン=アッラシードの時代のお話です。

 あと、イベリア半島でおこった後ウマイヤ朝やチュニジアのファーティマ朝も知っておきましょう。後ウマイヤ朝(756-1031)の首都はコルドバ、全盛期はアブド=アッラフマーン3世。ファーティマ朝(909-1171)はエジプト支配後に、現在のエジプトの首都であるカイロを建設しています。

 最後に、トルコ系イスラム王朝ですが、これが意外と大事なんです。よく出題されます。中央アジアのトルコ化で"トルキスタン"となったのは9世紀、トルコ系遊牧騎馬民族のウィグル人が住みついてからです。やがて、トルコ人のイスラム化をうけて、最初にトルコ系のイスラム王朝が建設されたのは、10世紀半ばにおこったカラハン朝です。カラハン朝は西遼(カラ=キタイ)に滅ぼされますが(1186)、アフガニスタンではサーマーン朝のマムルークだったアルプテギンがおこしたガズナ朝が有名で、この建国年は、神聖ローマ帝国が誕生した962年と同じ年です。アルプテギンの苦労人("オットーの苦労人"。オットー1世の戴冠。962)というべきなのでしょうか。ガズナ朝は、セルジューク朝にイランの領土を奪われ、最終的に同じアフガニスタンでもイラン系ゴール朝(1148?-1215)に滅ぼされます(1186)。またガズナ朝のトルコ人奴隷がセルジューク朝に仕えてアム川下流域を支配してできた王朝がホラズム朝(ホラズム=シャー朝。1077-1231)です。ゴール朝を滅ぼしてイランやアフガニスタンに領土を拡げましたが、モンゴルのチンギス=ハンに征服されて(1220)、およそ10年後に滅亡しています。他にもマグリブ(アフリカ北岸のモロッコやアルジェリア・など)とインドのイスラム王朝や、イスラム文化にも触れたかったのですが、スペースの都合で別の機会にさせていただきます。