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世界史の目

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ギャラリー

第84話


激動チベット

 ヒマラヤ山脈とクンルン(崑崙)山脈に挟まれた標高3500mのチベット高原。黄河・長江・ガンジス川などの源流域で、現在は中華人民共和国の西蔵(シーツァン)自治区(チベット自治区。区都:ラサ)にあり、267万人の人口を擁する(2002統計)。同地史料によると、チベットは7世紀にソンツェン=ガンポ(?-649)なる人物によって歴史がおこされたとしている。

 ガンポは、ラサの東南方面で生まれ、627年頃に王位につき(580年/620年説もある)、629~640年頃の間に高原統一に成功、ラサを首都に吐蕃王朝(とばん。7C-9C)を創始し、神権政治を行った。これまでは特に現在の青海(チンハイ)省にあたる地域において、4世紀からおこった鮮卑(せんび)系の王国・吐谷渾(とよくこん。4-7C)がチベット系先住民を支配していたが、その後は635年(とう。618-907)に支配され、663年には吐蕃に討たれて衰退している。

 東方に唐朝がおこると、吐蕃のガンポ王はしばしば西の辺境に侵攻した。641年、唐の第2代皇帝・太宗(たいそう。李世民。りせいみん。位626-649)は、懐柔策として皇女・文成公主(ぶんせいこうしゅ。?-689)をガンポ王の子クンソン=クンツェン(?-643)に降嫁させた(和蕃公主。わばんこうしゅ)。その後、吐蕃と唐は友好関係が続き、吐蕃に中国文化が流入していった。さらにガンポはネパール王女をも妃に招いたことで、インド文化も流入した。ガンポ王は貴族をインドに留学させ、子音30文字と5つの母音記号を作成させ、これをチベット文字として制定した。また文成公主は降嫁の際、禁制品の蚕をチベットに流入して、養蚕業を広めたとされる。クンツェンが没して3年後、文成公主はガンポ王と婚姻を結び(646)、649年にガンポ王が没すると、中国に戻らず寡婦として吐蕃にとどまり、唐と吐蕃の友好関係維持に力を尽くした。ガンポ王はその後神格化され、観音菩薩の化身とされた。

 吐蕃はその後も唐との友好関係が続き、中宗(ちゅうそう。位683-684,705-710)の養女・金城公主(きんじょうこうしゅ。688-739)の降嫁が行われ(710)、751年には南詔(なんしょう。チベット=ビルマ語族が雲南に建国。?-902)と協力関係をしいた。
 しかしその後の吐蕃は、唐との友好関係が安定せず、唐・玄宗(げんそう。位712-756)の時代になると、辺境での戦闘が著しくなった。754年に即位したティソンデツェン王(位754-797)は、安史の乱(755-763)で弱体化していく唐に対し、内部深くまで侵攻して一時は長安・敦煌などを占領した。軍事大国化した吐蕃は、その後も南詔と共に唐の領域内に侵入した。

 ティソンデツェン王の時代は中国仏教は厳禁とされ、インド仏教(大乗仏教)がチベットの土着宗教であるボン教と融合していき、チベットにおける新たな仏教が創り出された。このチベット仏教の普及により、多くの寺院が建立された。こうした背景に、チベットでは僧院の勢力が増大化していく。

 吐蕃は8世紀末に、強大化する南詔と関係がもつれ、結局断交したが、唐とは吐蕃・ティツクデツェン王(位815-841)の時に和平条約が締結され(821/822。唐蕃会盟)、翌年には唐蕃会盟碑がラサで建立された。絶えていたチベット内の中国文化も再度流入され、インド文化と融合されて、独自のチベット文化が創られていった。ティツクデツェン王時代、吐蕃の領土は最大化した。

 しかし、ティツクデツェン王が没し、ボン教徒である弟ランダルマ(位841?-843?)が即位すると、吐蕃は衰退に向かった。ランダルマ王はチベット仏教を禁じて、大規模な廃仏運動を行った。このためランダルマ王は暗殺され(843?)その後は王位継承に関する内紛がおこされ、王族の一部は西チベットにチベット仏教国であるグゲ王国(842?-1630)として独立するなど、吐蕃は分裂状態に転落し、その後滅亡に至った(877年。その後中国王朝では、"吐蕃"がチベット地方の代名詞として使われた)。同じく雲南の南詔は、その後も唐朝圧迫を続けていくが、結局902年に漢人系家臣の簒奪で滅亡、その後タイ族白蛮の大理国(だいりこく。937-1253)が興った。
 吐蕃滅亡後のチベットでは、僧院勢力が各地の氏族と結びついていき、独特の社会を築き上げていった。チベット仏教は一時衰えたが、11世紀、インド学僧アティシャ(982-1054)の尽力で復興していった。

 その後、チベットはモンゴル民族に支配され(1250年代)、中国が王朝(げん。1271-1368)としてモンゴル民族に支配されると、チベットは元の属国となった。サキャ派の4代座主サキャ=パンディタ(1182-1251)はモンゴルで布教を行い、結果サキャ派のチベット仏教がモンゴルに浸透した。またパンディタの甥で、サキャ派の5代座主であるパスパ(八思巴。パクパ。1235/39-80)は元朝皇帝フビライ=ハン(クビライ。世祖。せいそ。位1271-94)の信任を得て国師となり、元の仏教行政の参与し、またフビライの命により、チベット文字を基材にパスパ文字(パクパ文字)をモンゴル文字として考案した。モンゴル文字はパスパ文字からやがてウイグル文字となり、パスパ文字は儀式用に使われるようになる。こうして中国におけるチベット仏教はサキャ派は第一勢力となり、元朝では熱狂的信仰でもって、矢継ぎ早に仏教寺院が建立された。こうして、元朝が隆盛を誇っている間、チベット仏教はサキャ派勢力が最も栄えていた。

 しかしこうした寺院の建立は元の財政を悪化させた。このため元の主要紙幣である交鈔(こうしょう)を大乱発して打開しようとしたが、結果インフレを招くことになる。民衆の間では、当時邪教であった白蓮教(びゃくれんきょう。救世主である弥勒仏が降臨するというもの。弥勒下生説という。みろくげしょう)が広まり、その信者による大反乱が勃発(1351紅巾の乱。こうきん。白蓮教徒の乱)、1368年、江南から興った漢民族の朝(みん。1368-1644)の北伐軍によって元朝はモンゴル高原に追いやられた(元朝滅亡。1368)。元の衰退によってサキャ派も衰退し、カギュ派が台頭した。カギュ派からはカルマ派など、多数の分派が発生し、その勢力を伸ばしたが、1409年にガンデン寺(ラサ北方)を創建し、ラサのモンラム(祈願会。現在も行われている)の行事を始めたツォンカパ(1357-1419)の新宗派である新たな勢力、ゲルク派が急激に伸張した。

 こうして、チベット仏教は諸宗派が分立する傾向となり、明の時代にはニンマ派・サキャ派・カギュ派・ゲルク派といったチベット仏教の4大宗派がでた。ニンマ派は、吐蕃王朝時代に帰する教義が中心であり、カギュ派は"伝統"や"伝授"を意味し、密教伝統を重んじた。サキャ派はサキャ地方(西チベット方面)の宗派の意味があり、サキャ寺が創建されている密教色の濃い宗派である。そして開祖ツォンカパのゲルク派は、「ゲルクパ(=徳行)」重視の宗派であった。より厳格な戒律(飲酒や妻帯の厳禁など)を中心に、規律正しい仏教を広めようとし、サキャ派、カギュ派そしてニンマ派といった、中国王朝の厚遇によって堕落した旧宗派を鋭く非難した。ツォンカパのゲルク派僧侶は、黄色の帽子を着用したことで黄帽派(こうぼうは)と呼ばれ、宗派も黄教(こうきょう)と呼ばれた。これに対して、古株のニンマ派が紅い僧帽を着用していたことで、サキャ派やカギュ派を含め、旧来の3宗派は紅帽派(こうぼうは)、宗派も紅教(こうきょう)と呼ばれた。

 明は第3代・永楽帝(えいらくてい。成祖。せいそ。位1402-24)の没後、北虜南倭(ほくりょなんわ。明の外患。北方のオイラート部タタール部といったモンゴル勢力、南の倭寇勢力など)に苦しんだ。その中のタタール部韃靼。だったん。モンゴル系)の首長アルタン=ハン(位1551-82)は、チベットを支配下に入れたが、この時チベット仏教を篤く保護し、チベットにおける政治・宗教の最高権力者として、モンゴル語で"大海"を意味する"ダライ"と、"師(仏僧)"意味する"ラマ"をあわせた"ダライ=ラマ"の称号を、当時のゲルク派の高層ソナムギャムツォ(1543-88)に贈り、教主(法王)とした(1578。前世2代である、ツォンカパの2人の弟子から与えられるとし、ソナムギャムツォはダライ=ラマ3世の称号を与えられた)。このため、チベット仏教は"ラマ教"という別称を持つ。さらにアルタン=ハンは、ダライ=ラマに次ぐ副教主として"パンチェン=ラマ"を贈った。アルタン=ハンによってモンゴル民族に普及した黄帽派は、ラサを首都としてチベットの政教を担うようになり、チベット仏教の主流派として成長した。またアルタン=ハンの曾孫はダライ=ラマ4世(1589-1616)となった。歴代のダライ=ラマは、ラサ郊外の観音菩薩の聖地マルポリ山(赤山)の頂上に、かつてソンツェン=ガンポ王が創建した宮殿を、1647年、ダライ=ラマ5世(1617-82)により白石で11層に築き、ポタラ宮殿として居住した。
 ダライ=ラマは、臨終の際、遺言で指定した地域において、地位・財産を、1年以内に誕生した幼児の中から選んで相続させ、その人物を"転生者"とした(転生相続制度)。妻帯を禁じる黄帽派の教主継承法である。この継承法によって選ばれた"転生者"は、前代高僧の「生まれ変わり」であり、化身僧(けしんそう。化身ラマ)であった。"化身"は仏の意識の実体化を意味し、中国語で化身僧は"活仏(かつぶつ)"と言われ、現在に至っている。 

 ダライ=ラマ5世の時、中国では李自成(りじせい。1606-45)の武装蜂起(李自成の乱。1631-45)が起こり、明王朝は滅んだ(1644)。その後、満州人(女真族)の後金(こうきん。1616-1636)の侵入がおこった。1636年、後金は清朝1616-1912)と改め、1644年に明が滅ぶに乗じて北京遷都を行い、元朝以来の中国征服王朝となった。これによりチベットは清朝に服属することとなり、内モンゴル・外モンゴル・青海(せいかい。チベット高原北東部)・新疆(しんきょう。東トルキスタン。回部)とともに自治権を有した藩部(はんぶ)となって、清朝の間接統治下に置かれた。
 清朝では、明代に悩ませられた北虜を反省し、元代にチベット仏教を盲信した過去があるモンゴル民族に対して、再度チベット仏教の布教に努め、その統制を果たした。ダライ=ラマ5世は、モンゴルだけでなく、満州人、ネパール人への布教も怠らなかった。しかしダライ=ラマ5世没後以降は、継承や高位をめぐって、モンゴルや満州の両民族との抗争が発生するなど不穏だった。また20世紀に入ると、イギリスの介入もあって(ラサ条約。1904)、ダライ=ラマ政府による安定化は改善しなかった。

 辛亥革命(しんがいかくめい。1911-12)による清朝滅亡(1912)で、チベットは翌1913年、ダライ=ラマ13世(1876-1933)のもとで事実上の独立を果たした。チベット内の中国勢力を駆逐し、1914年、イギリスと条約を結び、国際的承認を受けた。しかし中華人民共和国が北京において成立すると(1949)、中国政府は1951年、ダライ=ラマ政府(ダライ=ラマ14世。1935-。1940年即位)とチベット協定(17条協定)を結ばせ、チベットは中国領内に併合された。中国政府はチベット民衆の不満を解消させるため、チベット自治準備委員会をラサに創設して政治経済の諸改革を推進した。
 チベット人民は、"上からの圧力"からの解放、チベット仏教の自由布教、政教一致の原則を求め、1959年3月、ラサで僧侶を中心とした大規模な反中国・反共産運動が勃発した(チベット反乱。チベット動乱)。中国人民解放軍が虐殺を主に徹底鎮圧し、ダライ=ラマ14世はインドに亡命、翌1960年にインドのダラムサラでチベット亡命政府を樹立した。その後中国はチベットを保護したインドと対立を深め、中印国境紛争(1959.9-1962.11)の契機となった(チベット問題)。ダライ=ラマ14世はその後インドで亡命政府を指導、非暴力を貫き、チベット人の解放を主張、またこのチベット動乱によって生み出された十数万のチベット難民の救済に努めた。これらの活動が評価されたダライ=ラマ14世は、1989年、ノーベル平和賞を受賞した。

 ダライ=ラマのいないチベットでは、パンチェン=ラマ10世(1938-89)が指導者となったが、その後のチベットは、中国から人民公社の導入など高圧的な政策をうけなければならず、1965年、遂にチベットは区都をラサとするチベット自治区(西蔵自治区)となった。その後中国では文化大革命プロレタリア文化大革命文革。1966-70初頭)の時代に突入、紅衛兵(こうえいへい)によって、チベット寺院など歴史的文化財が次々と破壊された。

 ダライ=ラマ14世がノーベル平和賞を受賞した1989年、チベットでは、パンチェン=ラマ10世の急逝が伝えられた。ダライ=ラマ14世は、転生パンチェン=ラマ(パンチェン=ラマ11世)となる人物を亡命政府で認定したが、中国が認めず、別の転生者を中国側が独自に擁立した。このため、チベットで再度民族反乱が勃発した。
 チベット人にとって、ダライ=ラマ、パンチェン=ラマは、時代が変わっても常に精神的指導者であり、また政治的宗教的指導者であった。現在、いまだその多くが未解決であるチベット問題は停頓状態になりつつあるが、チベット人民の精神には、常に、これまでの激動の歴史が刻み込まれている。


 今回はチベットの古代から現代までに至る激動の歴史をご紹介しました。10年近く前にチベットを舞台にしたというアメリカ映画がありましたが、中国では上映が受け入れられず、歴史的問題が文化面にも影響を与えたことに衝撃を受けた記憶があります。

 隣接するのが中国ですから、チベットでは古代から中国関連における歴史的諸事件がおこりました。チベットは今中国の自治区ですが、順風満帆な歴史展開ではなく、緊張の連続でありました。また宗教的内容からいえば、チベット仏教において様々な宗派が誕生し、ツォンカパの時代に黄帽派が確立するところは、まさにチベット版"宗教改革"です。

 さて、今回の学習ポイントです。まずは吐蕃時代から。吐蕃は7世紀から9世紀に存在したことを知っておきましょう。中国では唐王朝の時代です。首都であるラサ、統一者ソンツェン=ガンポの名は重要です。チベット文字はインド文字が母体となっていることも要注意です。ちなみに、本編に登場したパスパ文字は、元朝の内容が出題されるとよく出ます。
 また隣国には南詔という国がありました。雲南にあったですが、南詔が滅ぶと、しばらくして同地に大理国が成立していることも大事ですね。
 チベット仏教関連では、ラマ教という別称も知っておきましょう。ラマ教の盲信で、元朝が崩壊したことも重要項目です。4大宗派が出てきましたが、これらは入試には出題されませんので覚えなくても良いと思います。ただ、ツォンカパの時代は重要で、これまでを紅帽派、ダライ=ラマが誕生してからは黄帽派が主流となることは覚えてください。中国では、明朝・清朝の時代に当たります。ポタラ宮殿の存在も知っておきましょう。山の頂にある崇高な建物です。

 そして現代ではチベット問題がたまに出題されます。現代アジア史(中ソ論争、文化大革命、中印国境紛争、印パ紛争)に付随して出されることが多いです。

 最後に重要項目として、チベット系民族も知っておきましょう。タングート族によっておこされた西夏王朝(せいか。1038-1227)はチベット系です。本編とは関係ありませんが、同時期にでてきた中国征服王朝である遼(りょう。916-1125。モンゴル系契丹族。きったん)や金(きん。1115-1234。ツングース系女真族。じょしん)などと対比してよく出題されます。