本文へスキップ

世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第85話


ペルシア古代王朝の隆盛

 B.C.7C前半にオリエントを統一した世界帝国・アッシリア(セム系。B.C.2000年紀初-B.C.612。首都アッシュール。B.C.8C末よりニネヴェ)は大征服者アッシュール=バニパル王(位B.C.669-B.C.626)のもとで大いに栄えたが、B.C.612年にリディア小アジア地方インド=ヨーロッパ系)・メディアイラン高原インド=ヨーロッパ系)・カルデア新バビロニアバビロン地方セム系)・エジプト(第26王朝)に分立した(4国分立時代)。

 その後、メディア王国のあるイラン地方では、配下にあったインド=ヨーロッパ系のペルシア人イラン人)が独立を叫ぶようになった。現在イラン南部に位置するパールス(パルサ。アラビア語では"ファールス")がラテン語化し、"ペルシア"と呼ばれるようになったとされる。ペルシア人勢力の民族意識は始祖アケメネス(生没年不明)のもとでおこったが、やがて、キュロス2世(位B.C.559-B.C.530)がペルシア人をまとめるようになってからは、メディアからの解放運動が激化した。B.C.550年、遂にメディアの最後の王を殺害し、メディアを滅ぼしたキュロス2世は、スサ(スーサ。イラン西南部)を都にアケメネス朝ペルシアを建国し(B.C.550-B.C.330)、同国の初代君主となった。

 キュロス2世は、B.C.546年にリディア王国、B.C.538年には新バビロニア王国を滅ぼし、領土を拡大、ペルシアの"大王"と尊崇された。また新バビロニア征服後、バビロン捕囚(B.C.586-B.C.538)を受けていたユダヤ人をパレスチナに解放し、被征服民に対しても信仰の自由、祭祀・慣習許可など寛大な対応を行った。

 キュロス2世没後、王位に就いた子カンビュセス2世(位B.C.530-B.C.522)は、B.C.525年、エジプトにも侵攻して第26王朝を滅ぼし、第27王朝をおこした。これによりアケメネス朝ペルシアは、アッシリアに次ぐ全オリエント統一を達成し、第2の世界帝国となったのである。しかしカンビュセス2世は半ば暴君的要素があったため、キュロス2世ほど人気がなかった。

 アケメネス朝ペルシアを全盛期に導いたのは、カンビュセス2世没後に即位したダレイオス1世(ダリウス1世。B.C.522-B.C.486)である。彼の功績は、イランのケルマンシャー東方にある楔形文字(ペルシア文字)の磨崖碑・ベヒストゥーン碑文(イギリス人ローリンソンが解明。1810-95)に証されている。
 ダレイオス1世は、さまざまな諸改革をおこした。まず、統治策として、全国を約20のサトラッピア)に分け、各サトラッピアにはサトラップ知事。総督)が置かれた。そして巡察官である"王の目"とその補佐官"王の耳"を置いて各地を徹底管理させた。また駅伝制を設け、首都スサと、サルデス(小アジア)などをはじめとする全国の要地を結ぶ国道"王の道"を建設した。最も長いのは約2400kmにも及び、沿道には宿駅がつくられた。
 ダレイオス1世は、これ以外にも軍制・税制(サトラッピア単位に徴税額を決定)・幣制(金貨・銀貨鋳造)を革新的に改め、またスサ南西には王都ペルセポリスを建設した。ペルセポリスには楔形文字で刻まれた碑文(ペルセポリス碑文)が残されている(ドイツ人グローテフェントが解読するが彼の功績が認められたのはローリンソンが承認されてから。1775-1853)。

 その後、ダレイオス1世は、イオニアをめぐってギリシア・ポリスと戦闘を交えるが(ペルシア戦争B.C.500-B.C.449)、一度も成功することなく病没(B.C.486)、即位した子のクセルクセス1世(位B.C.486-B.C.465)がこれを受け継ぐが、結局敗退し、王権が沈んだ。その後クセルクセス1世は寵臣の陰謀で殺され(B.C.465)、子アルタクセルクセス1世(位B.C.465-B.C.424)によって建て直しがはかれるも、その後は衰退し、最後の王ダレイオス3世(位B.C.336-B.C.330)も東方遠征を行っていたマケドニアのアレクサンドロス大王(B.C.356-B.C.323)と戦って敗死、アケメネス朝ペルシアは建国220年目にして滅亡した(B.C.330)。

 アケメネス朝ペルシアでは、ゾロアスター(ツァラトゥストラ。生没年不明)が始めたゾロアスター教を国教とした。ゾロアスターは、天地創造主の光明・善の神であるアフラ=マズダと、これに対する暗黒・悪の神アーリマンの2神からなる善悪二元を体系付け、両神を闘わせて、最終的にはアーリマンを退け、アフラ=マズダに帰依するという教義を確立した。2神による絶え間ない闘争の結果、勝利を収めた善の神によって、人々はその恩恵を得、楽園へ導かれるとする("最後の審判"。ユダヤ教やキリスト教にも使われた)。これがゾロアスター教である。アフラ=マズダの祭壇には""が置かれ(拝火檀)、火を神聖視するため"拝火教(はいかきょう)"とも言われる。また、その後中国にも伝わり、祆教(けんきょう)"と呼ばれた。

 アケメネス朝滅亡後、ペルシアはアレクサンドロス帝国による支配下に置かれた。アレクサンドロス大王没後、帝国は分立し、領土の大半を継承したセレウコス朝シリア(B.C.312-B.C.63)の統治となった。その後、中央アジアからバクトリアギリシア系)、カスピ海東南地方(パルティア地方)からパルティアイラン系)が独立した。その1つパルティアはイラン系遊牧民の一派パルニ族首長アルサケス(生没年不明)がティリダテス1世(位B.C.250/248?-B.C.226)として、ヘカトンピュロスを首都にアルサケス朝パルティア(B.C.248?-A.D.226?。中国では"安息"と呼ばれた。あんそく)を創始したことに始まる。セレウコス朝を西へ追って、領土を拡げていったパルティアは、ミトリダテス1世(B.C.171-B.C.138。アルサケス6世)のとき王国として確立し、バビロニア侵入後、ティグリス河畔にあったセレウコス朝のセレウキアを陥れた(B.C.141)。またB.C.129年には同地近郊に新都クテシフォンを建設、セレウコス朝滅亡後はローマと戦いを交わした。

 そのクテシフォンを奪ったのがペルシア人だった。A.D.3世紀、パールス地方のペルセポリス付近に定住し、パルティアに支配されていたペルシア人の貴族アルデシール1世(アルダシール1世。?-241?)は、パルティア王と対立し、224年王を討ち、翌々226年クテシフォンを陥れた。パルティアは衰退、滅亡への道へと下り、アルデシール1世はペルシア王となった(位226-241?)。さらにアケメネス朝時代からペルシア人の拠り所であり、アルデシール1世が祭司の家柄であるササン家(サーサーン家。ササンはアルデシール1世の祖父の名か?)出身であることから、ゾロアスター教を国教にして(230)、国家統一をはかった。こうして、クテシフォンを首都にササン朝ペルシア(サーサーン朝ペルシア。226-651)が誕生した。アケメネス朝ペルシア以来のペルシア人の王国の誕生である。

 アルデシール1世は、ローマ皇帝セウェルス=アレクサンデル(位222-235)と長きにわたって戦い(226-233)、破れはしたが、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)に対して脅威を知らしめた。この頃のローマ帝国は、軍人が皇帝を擁立するという時代であり、アレクサンデル帝没後はいっそう甚だしくなった。一般に軍人皇帝時代(235-284)と定義されている期間は、実に26人の皇帝が出現した。
 アルデシール1世没後、王位を継承した子のシャープール1世(シャープフル1世。位241-272)は、父の偉業を継承してペルシアの中央集権化に努めた。優れた武人で、"イラン人および非イラン人の諸王の王"と自称、インドのクシャーナ朝(1-3C)を敗ってアフガニスタンに進出した。また、父の代から抗争を続けるローマとも戦い、軍人皇帝ヴァレリアヌス(位253-260)と対決し、皇帝を7万余のローマ軍とともに捕虜とした(エデッサの戦い。260)。ペルセポリス近郊にあるナクシェ=ルスタムの岩壁に刻まれた戦勝記念碑には、ヴァレリアヌス帝が馬上のシャープール1世の前で跪いている姿が彫られている。

 シャープール1世は、文化・社会面においても熱心で、多くの都市建設を施し、またギリシアやインドの学問を発展させた。また父に倣ってゾロアスター教を国教としたが、マニ(216?-276)が創始したマニ教(ゾロアスター教・仏教・キリスト教が融合)にも関心があったとされる。しかし結局はマニ教は弾圧されて国外に流布していった(教祖マニも276年磔刑に処される)。ゾロアスター教の経典『アヴェスター』も編纂され、パフレヴィー語(ササン朝のペルシア語。アラム文字から変化したパフレヴィー文字を使う)による『アヴェスター』の注解書『ゼンド』とともに『ゼンド=アヴェスター』と呼ばれた。

 ローマとの戦いは、10代目シャープール2世(位309-379)のときが激戦であった。シャープール2世はローマに大勝し(363)、さらにバフラーム4世(位388-399)のとき、アルメニア地方をローマと分割して統治した(389)。ローマとササン朝との抗争は、アルメニアの帰属をめぐっておこされた戦いであった。その後ローマは東西に分裂(395)、ササン朝にとっては東ローマ帝国ビザンツ帝国。395-1453。コンスタンティノープル遷都の年である330年を建国年とする場合もある)が新たな敵となる。

 しかし、他にも敵はいた。遊牧騎馬民族エフタル(トルコ系?イラン系?)の出現である。5世紀中頃にアフガニスタン東北部からおこった同民族は、450年頃に独立王国を建設、非常に活動的であり、トルキスタンや西北インドにも侵入し、クシャーナ朝やグプタ朝(320-550?)を圧迫した。ササン朝第15代バフラーム5世(位421-439)の頃、エフタルと激戦が交わされた(425)。ササン朝は西のビザンツ帝国、東のエフタルと、2大強敵と戦う宿命に立たされた。
 また国教ゾロアスター教にも動揺が走った。ゾロアスター教の祭司であるマズダク(?-528)が異端となったマニ教に関心を示し、これを発展させて不殺生・禁欲・土地財産と女性の共有など、半ば共産主義的な思想をマズダク教として発展させ、王朝を混乱に陥れた(マズダク教の反乱。488)。しかし528年、ササン朝第20代カワード1世(位488-531)のもとで徹底的に弾圧されたマズダク教は衰退、教祖マズダクも処刑された。

 カワード1世の後、王位に就いたのは、"アノーシールワーン(アヌーシールヴァーン。不滅の魂を持つ者)"の異名を持つササン朝最大の君主・ホスロー1世(フスラウ1世。位531-579)であり、ササン朝の全盛期を現出した。562年には、エジプト遠征、翌563年にはトルコ系遊牧騎馬民族突厥(とつけつ。552-744)と同盟を結んでエフタルを挟撃してこれを滅ぼし、バクトリア地方を征服、570年には南アラビア(イエメン地方)遠征を行い、同地を占領した。
 ホスロー1世の最大の対決相手は、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス(ユスティニアヌス1世。位527-565)だった。当時のビザンツ帝国は、周辺のゲルマン国家を次々と征服して国力を上げ(534年にヴァンダル王国、555年に東ゴート王国を征服)、首都コンスタンティノープルは重要産業都市として繁栄していた。ユスティニアヌス1世に仕えた将軍ベリサリウス(505?-565)やナルセス(487?-573?)らの功績も大きかった。
 しかし、ユスティニアヌスが即位5年目にして、重税に苦しむ市民が"ニカ(勝利)"と叫んで暴動をおこし(ニカの反乱。532)、コンスタンティノープルは荒れ始めた。これに怖れたユスティニアヌスは逃亡をはかろうとしたが、皇后テオドラ(497?-548)の説得で励まされ、反乱はベリサリウスらによって鎮圧された。こうした不安定な時期に乗じて、ホスロー1世とユスティニアヌス帝との激突は遂に起こった。すぐさま和議が成立したものの、ホスロー1世は、再び侵攻をはかり(540)、休戦と開戦を繰り返し、結果、かつてセレウコス朝の首都で、ビザンツの所領アンティオキアを攻略、ササン朝を優位にすすめた講和で長期対戦を終えた(562)。

 ホスロー1世は、対外政策を有利に進めるばかりでなく、内政においても有能であった。国土を4行政区に分割して土地台帳をつくり、地租制度を入れて財政を強化した。バビロニアでは運河を建設、灌漑農業を発展させ、国内の交通路も整備した。
 また過去の君主と比べても群を抜く文化の保護者であり、諸外国から学問・芸術品・特産物を取り入れて、アケメネス朝以来の伝統文化にインド、ギリシア、ローマといった東西の諸外国文化を融合させ、新しいペルシア文化を開花させた(ササン朝美術)。語学ではこれまでのパフレヴィー語に加えギリシア語・サンスクリット語が研究され、宗教では、マズダク教の弾圧とキリスト教の寛大策がある。即位前にマズダク処刑を実行にうつしたのは彼であり、即位後もマズダク教徒の残存勢力を徹底弾圧した。また431年にビザンツ帝国におけるエフェソスの公会議で、異端とされたキリスト教・ネストリウス派(キリストの神性と人性を分離)を、ホスロー1世は反ローマ派として受け入れた。
 文化において最も輝きをなしたのは工芸品である。金・銀・青銅・ガラスなどを材料にして皿・瓶・香炉・陶器などが製作された。この工芸文化は、その後ペルシアに現れるイスラム世界でも影響を受け、西は地中海諸国を中心に、東はインド・中国(南北朝・隋唐時代)をへて、日本の飛鳥・奈良時代にも伝播するのである。奈良の正倉院(しょうそういん)には白瑠璃碗(しろるりわん)・漆胡瓶(しつこへい)、同じく奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)においても獅子狩文錦(ししかりもんきん)などがその代表である。

 ホスロー1世は579年に没した。ホルムズド4世(位579-590)を経て、ホスロー2世(位591-628)のときも、長年の宿敵ビザンツ帝国と何度も戦った(有名なのは627年のニネヴェの戦い。ビザンツ皇帝ヘラクレイオスの軍と激突。位610-641)。ホスロー2世はシリアやエジプトを攻略するなど、"パルヴェーズ(勝利)"の異名を持ち、ササン朝の版図は最大となった。しかし、対外政策における軍費負担は、ササン朝財政を逼迫させ、内紛が相次いだ。ホスロー2世没後のササン朝君主はほぼ1~2年の王位交代劇を繰り返し、その間もビザンツ帝国と戦わねばならなかった。そして、新たなる敵・アラブのイスラム軍の来襲も始まった。

 ササン朝最後の王ヤズデギルド3世(位632-651)のとき、アラブはちょうど正統カリフウマル(ウマル1世。位634-644)の治世であった。ウマルが放ったイスラム軍は642年、ササン朝における交通の要衝であったニハーヴァンド(ザクロス山脈北西方面)でペルシアと大戦争を繰り広げた(ニハーヴァンドの戦い)。全盛期を過ぎ去ったペルシア軍には、もはや反撃の好機すら見えず、ヤズデギルド3世の軍はウマルの軍に完敗、ウマルはササン朝ペルシアの領域を占領した。ヤズデギルド3世はカラクーム砂漠南部のメルヴまで逃亡したが、651年、遂にアラブ軍に捕まり、殺害された。これをもってササン朝ペルシアは滅亡した。

 イスラムに征服されたペルシア人はその後数多くのイスラム帝国に支配されていき、イスラム教を受容、多大なイスラム文化を築いていくこととなる。


 「西アジアの激動Vol.2」以来のイラン編です。前回は近現代史でしたが、今回は紀元前後から中世に入りかかる頃のイラン(ペルシア)をご紹介いたしました。アケメネス朝・ササン朝とも大学入試では避けては通れない非常に重要な単元でして、古代では、ギリシア史・ローマ史と並ぶほど出題される確率が非常に高いです。覚える要素もたっぷりありますので注意が必要です。

 アケメネス朝の時代では、アッシリア→4国分立→アケメネス朝の段階を知る必要があります。アッシリアは世界史上初の世界帝国と呼ばれ、ニネヴェを首都に繁栄し、B.C.612年に滅んだ("路頭に迷うアッシリア"と予備校時代に覚えました)というわけですが、今の入試ではこれだけ覚えておけば万全でしょう。難関受験では、全盛期の王アッシュール=バニパル、国家神のアッシュール神も登場します。バニパル王は大図書館を設立するなど文化面で貢献はありましたが、国民にとっては残忍な王様で、専制君主を貫いて、気に入らぬ人物を次々と殺していきました。旧課程の用語集ではティグラトピレセル3世(位B.C.745-B.C.725)の名も出ていますが、彼の名を書かすような問題があるとするなら、超難関校ですね。
 4国分立の4つは全て覚えましょう。メディアはイラン高原のインド=ヨーロッパ系、リディアは世界最古の鋳造貨幣、新バビロニアはバビロン捕囚、がキーポイントになるでしょう。
 さて、アケメネス朝ですが、以前はキュロス2世→カンビュセス2世→レイオス1世の3大君主はよく出たのですが、最近はダレイオス1世ばかり出るようになりました。予備校時代は"キュロカンダ"で覚えた記憶がありますが、ダレイオス1世のみならず他の2人も重要だと思うのですがね。リディアとメディアを征服したのはキュロスで、エジプトを征服して統一を完成したのはカンビュセスです。ダレイオス1世の時は、スサに次ぐ王都ペルセポリスに宮殿を建設、サトラップ(知事)・王の目・王の耳・王の道(スサ~サルデス間)を建設、ペルシア戦争で敗れる、といったところでしょうか。文化では、"火"を清浄として、アフラ=マズダとアーリマンの善悪二元論にもとづくゾロアスター教が大事です。またグローテフェント(ドイツ人)のペルセポリス碑文、ローリンソン(イギリス人)のベヒストゥーン碑文も覚えましょう。

 アケメネス朝時代のあと、イランはパルティア時代を迎えます。パルティアは同時期に栄えたバクトリアと比較されて登場しますが、中でもパルティアはイラン系、バクトリアはギリシア系であることは覚えましょう。ただ紛らわしいですが、パルティアの公用語はギリシア語なので気を付けてください。それと両国はセレウコス朝シリアから独立してできた国で、ヘレニズム文化・ギリシア文化の影響を受けています。パルティアの始祖アルサケスに因んで、アルサケス朝ともいい、中国では"安息国"と呼ばれていることも重要。

 そしてササン朝時代ですが、首都はクテシフォンです。君主の名は最低3人、つまり始祖のアルデシール1世、第2代のシャープール1世、第21代のホスロー1世だけ知っておけば大丈夫です。余裕があればホスロー2世、最後の王ヤズデギルド3世も知っておけば万全ですが、入試にはほとんど出ません。シャープール1世の時代では、ローマの軍人皇帝ヴァレリアヌスを捕虜し、ゾロアスター教を保護しました。経典『アヴェスター』も覚えましょう。宗教がらみではマニ教が興ったことも重要。ホスロー1世の時代ではユスティニアヌス帝と戦ったことや突厥と協力してエフタルを滅ぼしたことが大事です。あと、マイナーですが、マズダク教弾圧も余裕があれば知っておくと便利です。ちなみに、ネストリウス派キリスト教は、中国史で登場します。ササン朝から伝わり、中国では"景教(けいきょう)"と呼ばれました。

 最後の642年のニハーヴァンドの戦いは、予備校時代、"虫に刺されてニハーヴァンド"という覚え方を教わりました。イスラム世界では、正統カリフ時代の第2代ウマルの時代にあたります。 

 (注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。祆教(けんきょう)→へんは"示"、つくりは"天"