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世界史の目

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ギャラリー

第88話


東方問題・その3~ベルリン条約と新たな国際関係の成立~

  1. 東方問題・その1~ムハンマド=アリーとエジプト=トルコ戦争~はこちら
  2. 東方問題・その2~「瀕死の病人」とクリミア戦争~はこちら

 黒海中立破棄を宣言(1870)したロシアは、1873年、ドイツ・オーストリアと三帝同盟を結んだ。オスマン帝国(オスマン=トルコ。1299-1922)主権下にあるバルカン半島の南スラヴ系国家(セルビアモンテネグロなど)によるパン=スラヴ主義運動が激化したことに乗じ、不凍港の獲得を目的としたロシアは、再度南下政策を試みた。

 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(スラヴ系が多く定住)の反乱(1875)はギリシア正教徒が中心であり、これに飛び火したブルガリアの反乱(1876。四月蜂起。南スラヴ系民族)は、さらに激化した。トルコ軍はこれらを虐殺でもって圧したため、トルコからの独立・解放運動はさらに激化した。特にパリ条約1856)で、自治国として認められたモルタヴィア・ワラキア両公国やセルビアなどは、完全独立にむけてスラヴ運動を盛んにした。
 ロシアはスラヴ民族の代表として、パン=スラヴ主義を擁護し、またギリシア正教徒保護を名目に、義勇兵の派遣を決定(1875)、1877年4月、ロシアはオスマン帝国に宣戦布告、これまで数次にわたって行われてきた中で、最後にして最も激しいロシア=トルコ戦争露土戦争1877-78)となった。

 小アジアとバルカン半島が瞬く間に戦場と化した。ロシア軍はオスマン帝国のプレヴェン要塞を陥落させ、イスタンブル南方のサン=ステファノにまで肉薄した。ブルガリアのシプカ峠が激戦地となったが、ロシア軍はオスマン軍を撃退し、遂に最終露土戦争を勝利に導いた。
 形勢不利になったオスマン軍は、すかさずイギリスに支援要請を行い、イギリスも軍隊を派遣したが、イギリスとの衝突を怖れたロシアは、イギリス軍が到着するまでに、露土戦争終結の宣言をサン=ステファノで行った。イギリス軍の戦う出番を阻んだ形となり、オスマン帝国は敗戦国となってしまった。
 オスマン敗北の要因にはもう1つ、オスマン帝国内の変動があった。トルコの専制化をはかるスルタンのアブデュル=ハミト2世(位1876-1909)は、1876年に大宰相ミドハト=パシャ(1822-84)が起草したミドハト憲法がどうしても排除したい思惑があり、憲法制定も、オスマン支配に悩む周辺民族や、新オスマン人階級の懐柔と列強介入を阻むために、スルタンが妥協した結果であった。しかし、結局はパン=スラヴ運動が激化し、露土戦争が勃発する始末であった。あくまでも議会を無視して専制化に固執するアブデュル=ハミト2世は、露土戦争勃発を理由に、1878年にミドハト憲法を停止し、早くも立憲制が崩壊した。これに拍車をかけたように、民衆はさらに暴れだして完全な解放を叫び、外からはロシアの進撃と、内憂外患状態となり、戦局が早々と決定したと言える。
 結局、"憲政の父"と言われたミドハト=パシャは、露土戦争敗戦の原因は憲法制定によるものであるとして、戦争責任を負わされ、大宰相罷免後(1877)、1881年、死刑宣告を受けた。イギリスの仲介でアラビアへの流刑に減刑されたものの、1884年、アラビア半島のタイーフという町で殺害された。民主主義的で、近代法治国家としてのオスマン=トルコを完成させたいというミドハト=パシャの夢は、短期間で崩れ去ってしまった。
 アブデュル=ハミト2世は、これを機に大いなる専制君主政をしくようになり、"パン=イスラム"主義を基軸に、軍部や秘密警察を利用、世論を大胆に抑圧をしかけ、"赤いスルタン(血のスルタン)"の異名を持つようになった。

 さて、露土戦争によるサン=ステファノ条約1878)は、オスマンを解体してバルカン南下を狙う戦勝国ロシアにとって、好都合な条約となった。オスマン解体に関しては、1856年のパリ条約でオスマン主権下で自立を認められた、ダキア地方のモルタヴィア・ワラキア両公国は、1859年に連合公国を形成し、1866年にホーエンツォレルン家から自治ルーマニア侯としてカロル1世(侯位1866-1881)を迎えていたが、1877年オスマンへの対抗により王国として独立宣言をおこない、今回のサン=ステファノ条約でルーマニア王国(1877-1947。"ローマ人の土地"の意味)としてオスマン帝国からの独立を正式に承認され、ワラキア公国の首都だったブカレストをルーマニアの王都として、カロル1世は初代ルーマニア王となった(位1881-1914)。またセルビアモンテネグロも同時に正式独立を承認された。ブルガリアはオスマン領内の自治国として領域を拡大(首都ソフィア)、独立とまではいかなかったがロシアの保護下に置かれることになった。ロシアの保護するスラヴ国家達が、オスマンから解放された形となる。

 サン=ステファノ条約により、領地が削減されたオスマン帝国は、本当に"瀕死の病人"と化してしまった。逆に領土を拡げたロシアは、ロマノフ朝(1613-1917)の皇帝アレクサンドル2世(位1855-81)のもとで、過去に何度も西欧列強に阻まれてきた南下政策を容易なものとし、地中海進出が完全に決まったかにみえた。

 しかし、ロシアのバルカン進出に対して、イギリスが黙視するはずがなく、ロシアと同じ三帝同盟1873)の一員だったオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世(位1848-1916)も、パン=ゲルマン主義(オーストリアのバルカン半島への膨張政策の一環)を抱えていたため、ロシアのパン=スラヴ主義の拡大に不満を持つようになったため、両国はサン=ステファノ条約の決定に猛反対した。ここに登場するのが、"誠実な仲介人"と自称したドイツのビスマルク(1815-98)である。

 ビスマルクは普仏戦争(1870-71。プロイセン時代のドイツがフランスに勝利)後のフランスの報復を避けるため、フランス孤立化を狙うロシア(アレクサンドル2世)、オーストリア(フランツ=ヨーゼフ1世)と共に三帝同盟を結んだ(1873。ドイツはヴィルヘルム1世。位1871-88)。これはビスマルク外交の第一弾であったが、ロシアのパン=スラヴ主義と、オーストリアのパン=ゲルマン主義という、お互いの強調で、同盟関係が崩れる怖れもあった。実際にはこの利害関係による三帝同盟の空文化は避けられなかったが、ビスマルクはフランス孤立化を徹底させるため、またドイツ優位と威信にかけて、サン=ステファノ条約を含む、東方問題(イースタン=クェスチョン)に関する国際会議をベルリンで開催、ドイツのビスマルクが調停することを提案し、1878年6月から7月にかけて、ベルリン会議が開かれることになった。ウィーン会議(1814)以来の大国際会議であった。

 ベルリン会議の参加国は開催国ドイツをはじめ、ロシア・イギリス・オスマン=トルコ・オーストリア・フランス・イタリアの計7ヵ国である。すべてが東方問題に関わった列強間で、ベルリン条約が締結された(1878.7)。サン=ステファノ条約の改廃に伴い、ブルガリアは自治公国として、貢納はありながらも自治を正式承認し、領地は削減されたが主権の半回復が決まり、ブルガリア南隣の東ルメリアはキリスト教徒総督のもとで準自治州として、マケドニアはトルコの支配に戻され、俗にバルカン3国(ルーマニア・セルビア・モンテネグロ)の独立は承認された。そしてスラヴ系住民の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナは、ゲルマン系であるオーストリアが統治することになり、イギリスはトルコからキプロス島を獲得した。イタリアとフランス間においては、チュニジア問題があり、オスマン領チュニジアの管理においては、フランスの優位が認められ、イタリアは後退した。一方ロシアは、ベッサラビア地方と小アジアの一部のみの回復、ドナウ川の航行権、8億フランの賠償金の獲得が決まり、ロシア拡大策を警戒する列強にとっては、ロシアの影響力を排除する結果を生んだ。
 こうしたベルリン条約の内容は、終始イギリスの提案が主であった。つまり今回もイギリスによってロシアの南下政策を阻んだ結果となり、ロシアのパン=スラヴ主義を利用したオスマン解体はまたしても失敗した。一方で、ドイツは"誠実な仲介人"ビスマルクのもと、中立的な立場で進行するというものであったが、実際はイギリスの主張を支持し、イギリスの好意を受け入れながらの進行であった。イギリスは"光栄ある孤立(Splendid Isolation)"という外交政策であり、他の列強のバランス=オヴ=パワー(勢力均衡)を図ることによって、国益を守ることを貫いていたことをビスマルクは逆手に取り、イギリス以外のヨーロッパ列強をドイツの有利な外交につなぎとめようとしていたのである。それの第一歩がフランス孤立化であり、三帝同盟であり、ベルリン条約であった。ベルリン条約は、イギリスにとっても、ドイツにとっても優位策となったのである。とうとうロシアは南下政策を断念して、中央アジアや中国へ進出する方針へ傾いていったが、1881年、皇帝アレクサンドル2世は、ナロードニキ運動におけるテロの犠牲となっていく(アレクサンドル2世暗殺)。

 新たな国際関係の中においても、オスマン帝国は、スルタン・アブデュル=ハミト2世のもとで専制政治を断行していた。しかしベルリン条約でバルカン3国を失ったため、財政は窮乏化し、弱国と化した。また、領内の諸民族も3国と同様に独立解放運動が激化し始めていた。こうした中で、技術産業は以前と変わらず西欧式を取り入れ、電信機導入、鉄道建設と幅広く、トルコ内に西欧文化は保たれた。そのため、西欧の教養を身に付けた多くの新オスマン人が育ち、官僚や軍人にも新オスマン人階級が入り込んでいた。もともと新オスマン人階級というのは、立憲制の成立に基づくスルタン専政批判思想を持っており、ミドハト憲法廃止後は、オスマン帝国の復活と憲法再発布、さらにスルタン専政の打倒を掲げて運動を行っていた。彼らは新オスマン人に代わる、"青年トルコ人"と呼ばれて、1889年頃、「進歩と統一委員会(俗称:青年トルコ党)」を結成した。

 アブデュル=ハミト2世は、すぐさま青年トルコ党への弾圧をはかった。このため、党は軍内部へ支持を拡大しながらも、弾圧を逃れて一時パリへ拠点を移した。その後もクルド人・アルメニア人などの諸民族も加わり、1906年、オスマン領であるギリシアのテッサロニキサロニカ。古代名テッサロニケ。エーゲ海北西端。ギリシア第2の都市)に党本部を樹立した。サロニカに駐屯する青年将校の支持を得たが、彼らは大国ロシアがバルカン南下政策からアジア政策に転じたものの、小国日本に大敗を被った(日露戦争1904-5)ことが励みとなり、青年トルコ党に大いなる自信が身に付いたとされる。これにより、パン=スラヴ主義・パン=ゲルマン主義に対抗して、全トルコ諸民族の統一を掲げる"パン=トルコ主義"の思想が誕生した。

 1908年、青年将校のエンヴェル=パシャ(1881-1922。パシャの称号を受けたのは1914年)らによって、ミドハト憲法復活とパン=トルコ主義を呼びかけて、武装クーデタを起こした(青年トルコ革命。サロニカ革命)。専政継続を断念したアブデュル=ハミト2世は、やむなくミドハト憲法復活とトルコの憲政を承認、翌1809年、革命勢力排除をおこして廃位され、幽閉処分を受けて1918年没し、その後は弟たちがスルタンを継承していった(メフメト5世。位1909-18→メフメト6世。位1918-22)。

 ロシアは、ドイツのビスマルクがおこしたベルリン条約や、オーストリアとの民族主義対立などで、三帝同盟を離脱することになるが、ドイツはその後オーストリアと協調関係を図り(独墺同盟。どくおう。1879-1918)、1881年、フランス孤立化を維持するビスマルクによって、ロシアとオーストリア間におけるバルカンの利害調整と、アレクサンドル2世暗殺後帝位に就いたアレクサンドル3世(位1881-94)の了解で三帝同盟を復活させ、フランス孤立化を徹底した。
 ビスマルク外交の手腕はこれだけに留まらなかった。ローマ時代からチュニジアの永久支配を夢見ていたイタリアが、フランスによってチュニジア保護国化を達成させられた(1881)ことで苛立ちがあり、フランスと対立を深めていった。ドイツはフランス孤立化を完全なものにする絶好の機会と考えて、イタリアを新たな軍事同盟結成に誘い、ここにドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟1882-1915)が成立した。同盟条約には、期限5年の軍事的相互援助関係を保つもので、その後はバルカンやアフリカに関する条項を付加していった。
 しかし、ビスマルクによってつくりあげた同盟関係だったが、やはり三帝同盟に関しては、バルカンにおけるパン=ゲルマン主義のオーストリアと、パン=スラヴ主義のロシアとの対立は緩和できず、1887年、三帝同盟を解消することとなった。ドイツとオーストリアは独墺同盟と三国同盟で関係を維持していくが、フランス孤立化徹底策として、ベルリン条約でやぶれかぶれとなったロシアがフランスにつくことをビスマルクは怖れた。ビスマルクは、オーストリアとロシア間は無理にしても、ドイツとロシア間での保障関係は維持したいと考え、ドイツとロシア間に再保障条約(再保険条約。1887-90)を成立させた。バルカン半島における国境の現状維持、条約国の一方が攻撃される際の中立を約した。この条約は二重保障条約とも呼ばれ、オーストリアとロシアが対立して三帝同盟が崩壊しながら、ドイツは独墺同盟を維持しつつもロシアとも手を組むという、卓抜な外交術をみせつけた、ビスマルクのこの上ない手段であった。

 ドイツは国内でも産業が発達、普仏戦争によって獲得したアルザス・ロレーヌ両州の鉱産資源によって、重化学工業が急成長した。ビスマルクは保護貿易を強化して(保護関税法ビスマルク関税)、国内製品重視型産業により、ドイツは工業の代表国となった。
 ドイツ初代皇帝であるヴィルヘルム1世は1888年没し、子のフリードリヒ3世(位1888)の急逝を経て、孫のヴィルヘルム2世(1859-1941)が29歳で帝位についた(位1888-1918)。
 ヴィルヘルム2世は、ビスマルクとは違い、積極的な対外政策を試みた("世界政策")。豊富な経済力に支えられて育ったヴィルヘルム2世は、国家を軍艦になぞらえ、"針路は前と同じ、全速力で前進"と叫び("新航路")、世界政策を進める方へ向かい、海軍の増強を施す計画をたてた。東方問題とフランス孤立化を利用して、苦心してつくりあげたビスマルクの外交は、ヴィルヘルム2世の外交とは大きな開きがあった。海軍増強となると、当時の海軍国であったイギリスとの関係も悪化し、ヨーロッパの大きな国際転換となってしまう。
 しかし最後までヴィルヘルム2世と意見が合わなかったビスマルクは、1890年、宰相・首相・外相の辞任を申し入れ、遂に民間に下野した(ビスマルク辞職)。
 親政を始めたヴィルヘルム2世は"ドイツの将来は海上にあり!"と艦隊法を3度に渡って制定(1898年以降)、イギリスに対抗した海軍大拡張政策が始まった。また1890年6月、独露間の再保障条約の更新を破棄し、事実上失効となったことで、ロシアはドイツと離れ、孤立化していたフランスに接近した。ユダヤ系金融資本家一族のロスチャイルド(ロートシルト)家はフランス・パリにおいても威力を発揮していたが、ロスチャイルド財閥は、ロシアの公債を引受け、ロシア兵器のフランスへの流入の進展で急速に結び付きが強まっていった。1891年8月、遂に両国は政治協定を結び、翌92年8月、軍事協定が調印、94年、フランス政府の軍事協定承認通告でもって、露仏同盟が誕生した(1891-1917)。三国同盟に対する新しい国際同盟の成立であった。

 イギリスは、スエズ運河株買収(1875)によって保護国化としたエジプト(エジプト保護国化1882)、さらにスーダンを支配下に入れ(1899。イギリスとエジプトの共同管理)、アフリカ大陸南部のケープ地方からアフリカ分割を縦断政策として北進した。オランダ系移民ブーアブールの国であるオレンジ自由国(1854-1902)・トランスヴァール共和国(1855-1902)を苦心して併合し(南ア戦争ブーア戦争。1899-1902)、カイロケープタウンの縦一直線の支配が形成された。さらに、もう1つの大植民地インドにも着目して、都市カルカッタをアフリカ支配線と結んで、3C政策を完成した。一方で、フランスもアフリカ分割を進めて、1830年にフランス領となったアルジェリアと、ベルリン条約で勝ち取ったチュニジアを拠点とし、1894年、サハラ砂漠をフランス領西アフリカとして占領、大陸東側の同フランス領マダガスカルやジプチにむけて横断政策をおこない東進した。
 1898年、イギリス縦断政策とフランス横断政策は、スーダン南東部のファショダで衝突した(ファショダ事件)。中世から敵対関係にあった両国の衝突は、英仏植民地戦争の再燃かと思われたが、ドイツに孤立化政策を強いられたフランスと、やはりドイツと建艦競争において対立を深めたイギリスという、共にドイツの急激な進出に対する脅威が一致しており、共にドイツを敵国として相互協力を約す方向へ進んだ。結果ファショダでの衝突はおさまり、1904年、イギリスは、モロッコにおいてフランスが優越権をとることを承認し、フランスは、エジプトにおいてイギリスが優越権をとることを承認するという英仏協商が結ばれ、長きにわたった英仏間における植民地の利害関係は緩和された。

 ドイツは英仏がアフリカ分割を推進している間、オスマン帝国に接近した。東方では、トルコのコンヤからバグダードを経てペルシア湾に至るバグダード鉄道(バグダードバーン)の建設を予定しており、その敷設権を各列強が獲得に動いていた。ヴィルヘルム2世は、1899年、他国の隙を見てバグダード鉄道の敷設権を獲得、1903年鉄道会社を設立した。ドイツのバルカン進出の第一歩であった。オスマン帝国から協力を得たドイツは、イギリスの3C政策の対抗としてベルリンイスタンブル(元ビザンティウム)、バグダード3B政策を始めた。これは、イギリスやフランスだけでなく、ロシアにも脅威を与えた。東方問題はまだ終わっていなかったのである。

 ドイツのオスマン帝国進出が進展すると、イギリスはペルシアや中央アジアにおけるロシアとの利害関係を調整する必要に迫られ、1907年英露協商が結ばれた。東方問題でことごとくイギリスに痛めつけられたロシアであったが(実は南下政策を断念したロシアが、アジア進出に方向転換したため、イギリスはこれにも容赦なく、アジア進出の警戒を日本に任せて、1902年日英同盟を結んでいた)、ここへきて、両国間に大きな緩和が生まれたのである。こうして、1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、そして1907年の英露協商が完成し、ドイツに対する英仏露の三国協商が完成し(~1917)、独墺伊の三国同盟に対抗した。

 20世紀がはじまり、ヨーロッパは東方問題に端を発した、新たな国際関係が成立した。三国同盟、三国協商という両陣営は、全世界に緊張をはりつめさせた。緊張が武装によって起こされると、これは全世界を戦争に巻き込む大惨事となり得るかもしれなかった。
 こうした体制下で、1908年10月5日、青年トルコ革命の混乱に乗じて、スラヴ系ブルガリアが独立宣言を発した。また翌6日、ベルリン条約の時にボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州の行政管理権を得たオーストリアが、青年トルコ革命で混乱の渦に巻き込まれていたスラヴ民族の住む同両州を、完全に併合してしまった(オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合)。パン=ゲルマン主義を掲げるオーストリアによって、バルカン半島は再びナショナリズムの嵐が吹き荒れることとなる。


 ギリシア独立戦争、エジプト=トルコ戦争、クリミア戦争と続いた列強の介入は、本編の露土戦争で東方問題のクライマックスを迎えたといって良いでしょう。サン=ステファノ条約は破棄され、ベルリン条約によって、ロシアは南下政策をまた挫折させられます。

 東方問題の難しいところは、ドイツの介入にあって、イギリス、フランス、ロシア、トルコだけの問題が、ベルリン会議という大国際会議を開いたため、いろいろな利害が絡む結果となりました。もともとビスマルクの時代は普仏戦争の報復を警戒して、フランス孤立化を大前提に掲げていました。その後、イギリスとフランスの緩和、オーストリアとロシアが民族主義対立で敵対するにもかかわらず、ドイツはロシアを手放そうとはしない、イタリアとフランスの対立、イギリスとロシアの緩和、そしてドイツのイギリスとの対立と、オスマン帝国接近...やがて、三国同盟や三国協商といった国際関係が成立します。こうした中で、オスマン領のバルカンでルーマニアなどが誕生し、スラヴ民族とゲルマン民族が対立し、国内でも青年トルコ革命が起こるなど、ひと言では語れない多くの事件が、時代を足早に駆け抜けていったという印象です。

 さて、本日の学習ポイントはめちゃめちゃ多いのでご覚悟を!
東方問題の重要点は戦争が行われている時の列強の協力関係を理解することです。これは、どの時代でも同じ事が言えますが、では、東方問題におけるここまでの諸戦争の協力関係を整理しておきましょう。

  1. ギリシア独立戦争:ギリシアvsトルコ(オスマン帝国)。ギリシアには英・仏・露が支援。アドリアノープルの和約とロンドン会議。
  2. 第一次エジプト=トルコ戦争:エジプトvsトルコ。エジプトには英・仏が支援、トルコにはロシアが支援。ウンキャル=スケレッシ条約。
  3. 第二次エジプト=トルコ戦争:エジプトvsトルコ。エジプトにはフランスが支援、トルコには英・露・墺(オーストリア)・普(プロイセン)が支援。ロンドン四国条約。
     ※ちなみに、トルコを支援した4国は、ウィーン体制のとき結成された四国同盟と同じ国々です("英墺普露"→"栄養風呂"という覚え方を予備校で教わりました)。
  4. クリミア戦争:ロシアvsトルコ。トルコには、英・仏・サルディーニャが支援。パリ条約。
  5. 露土戦争:ロシアvsトルコ。サン=ステファノ条約→ベルリン会議。ベルリン条約。

 大学受験の世界史で学ぶ東方問題に関する戦争は以上の5つです。要はオスマン=トルコ領をめぐって、ヨーロッパ列強がトルコと戦った、あるいは、オスマン=トルコから独立を目指す被支配国がトルコと戦い、被支配国にヨーロッパ列強が支援・介入したところに特徴があります。それと、今回登場した5大戦争の講和条約とその内容はそれぞれ覚えておきましょう。とくに本編で登場したサン=ステファノ条約とベルリン条約はその内容がよく出ますので注意してください。ブルガリアはベルリン条約では独立までにはいたっていないことに注意しましょう。またルーマニア王国はモルタヴィア・ワラキア両公国が前身です。セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはスラヴ系民族であることも重要です。このセルビアやボスニア・ヘルツェゴヴィナがパン=スラヴ主義であることで、パン=ゲルマン主義のオーストリアとの緊張が高まっていきます。あと、イギリスのキプロス領有、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ行政管理権獲得(青年トルコ革命後に併合)も重要です。結局、ロシアの南下政策はすべて失敗に終わることになります。

 さて、そのトルコですが、アブデュル=ハミト2世の時に、青年トルコ革命が起こります。露土戦争勃発の際にハミト2世は、アジア最初の憲法であるミドハト憲法を停止していますが、革命が起こると、憲法は復活します。このプロセスは知っておきましょう。エンヴェル=パシャも有名なのですが、あまり試験には出題されません。新課程の用語集も名前が消えています。

 そして、帝国主義時代での列強の状況ですが、まず、ビスマルクの行った複雑な同盟関係は知っておきましょう。三帝同盟は独(ヴィルヘルム1世)・墺(フランツ=ヨーゼフ1世)・露(アレクサンドル2世)、独墺同盟はその名の通りドイツとオーストリア、そして再保障条約は独露間、これはビスマルク辞任後に次皇帝ヴィルヘルム2世が更新を破棄しました。
 ビスマルクは外交ばかり目立ちますが、プロイセンをドイツに仕立てた名宰相で、内政もかなり重要です。中央党(ドイツのカトリック政党)の反抗(文化闘争)を長きにわたって鎮圧しています(1871-80)。またベーベル(1840-1913)やラサール(1825-64)ら社会主義者の台頭や、ドイツ社会主義労働者党といった社会主義政党も出現しますが、1878年、2度に渡るヴィルヘルム1世への狙撃が起こり(皇帝狙撃事件)、ビスマルクは社会主義者を抑える好機として、これを口実に社会主義者鎮圧法(1878-90)を制定して弾圧をはかりました(実際社会主義者は狙撃事件に関与していませんでした)。しかし、労働者の反発も怖れて、緩和策として災害保険法医療保険法老廃疾者保護法といった社会政策も実施します。いわゆる飴と鞭(アメとムチ)の政策です。1890年、ビスマルクが下野しますと、社会主義者鎮圧法も同年廃止となり、ドイツ社会主義労働者党は、マルクス主義的革命を主張した「エルフルト綱領」を定めて、政党名を社会民主党と改めます。派閥は左右対立などもあり、1896年、"修正主義"論を唱えた右派のベルンシュタイン(1850-1932)なども登場しました。この辺りも出題頻度が高いですので知っておく必要があります。

 アフリカ分割はイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーの各諸政策を知らなければならないのですが、今回は英仏のみご紹介しました。実はここも重要単元で、ジョセフ=チェンバレン(1836-1914)、セシル=ローズ(1853-1902。"ローデシア"の名は彼に由来)、キッチナー将軍(1850-1916)といった人物が活躍するのですがね。今回出た内容はイギリスの3C政策(ケープタウン・カイロ・カルカッタ)とドイツの3B政策(ベルリン・イスタンブル・バグダード)が重要です。覚えておきましょう。アフリカ分割の詳しい内容はVol.93あたりでご紹介する予定ですのでご期待下さい。

 そして三国同盟と三国協商ですが、三国同盟はイツ・ーストリア・タリア("ドオ"と覚える)、三国協商は露仏同盟(1891)・英仏協商(1904)・英露協商(1907)の集合体です。それぞれの年代は予備校時代、"悔いなく死なん三国協商"という覚え方を教わりました。

 さて青年トルコ革命が勃発すると、トルコの混乱に乗じて、ブルガリアでは独立宣言、オーストリアではボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合といった事件が相次ぎます。東方問題のシリーズは今回で終了ですが、次回、強烈なエピローグをご紹介します。東方問題から発展した国際関係は、とんでもない事態に突入していきます。舞台はバルカン半島です。お楽しみに!