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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第110話


途切れないドラマ

 総裁政府(1895-99)崩壊直前のフランス。トゥールにある富裕官僚の家があった。この家主の妻はアンヌ=シャルロット=ロール(1778-1854)といい、当時20歳の若さであり、51歳の夫とは31歳の年下だった。1798年5月20日、その家で長子が誕生したが夭逝(ようせい。若死にすること)し、アンヌは子育てに恐れるようになった。アンヌは美貌に恵まれた才女であったが、神経質な性格と、神秘主義的傾向を合わせ持つ人物でもあった。

 長子を失ってちょうど1年後の、つまり長子が誕生した5月20日、また一人の男児が生まれた。アンヌと夫は次子を"オノレ"と名付けたが、養育に迷うことで彼を里子に出してしまった。このオノレこそ、後にフランスの文豪と言わしめた、オノレ=ド=バルザックである(1799-1850)。折しもこの年の11月には、いわゆるブリュメール18日のクーデタで、ナポレオン(1769-1821)が統領政府を立ち上げていく、激動の時期であった。
 アンヌはその後2人の娘を出産後、夫ではなく、他の貴族(マルゴンヌ家)との間にも男児を設けた。アンリと名付けられた末子は、アンヌによって、バルザック以上に寵愛された。アンリが生まれたとき、バルザックは8歳だったが、彼はとある寄宿学校に寄宿生として入った。孤独な少年期を過ごし、末子アンリを寵愛するアンヌとの面会は数える程度であったという。母親からの愛情の欠乏はその後のバルザックの人生に多大な影響を与えることとなる。

 1813年、バルザックは過度の読書により昏睡状態に陥った。このため寄宿学校を出される形となり、家族の扶養を受けた。ナポレオン時代が地に墜ちた翌1814年、父親の転勤でトゥールを離れてパリへ赴いたバルザックは、公証人を目指して欲しいという両親の希望もあって、パリ大学法学部へ入学した(1816。17歳)。しかし、バルザックの中には公証人になる意志はなく、執筆業を志望していた。20歳の時(1819)、バルザックは完全に文学の道に進むことを決意、家族の反対を押し切って、パリ近郊の屋根裏部屋にこもって戯曲を何作か執筆、翌年、彼にとっての自信作であった悲劇『クロムウェル』を家族・親戚の前で朗読した。朗読を鑑賞した家族の中には劇作家の義弟がいたが、『クロムウェル』はその義弟によって失格の烙印を押され、しかもバルザックは義弟から文学の道へ進むことも拒絶されたのである。やむなく戯曲をあきらめたバルザックであったが、文学の道は捨てず、戯曲から小説へ転向し、『ステニー』などの作品を残した。その後も大衆小説家と共作したり、匿名・別名で執筆した小説を著すなど、若さならではの作品を次々と発表した。

 1822年、23歳になったバルザックは初めて恋愛を経験した。相手は22歳年上のベルニー夫人(1777-1836)という貴族であり、7児の母である。母アンヌからの愛情の薄かったバルザックは、アンヌと年齢が近いベルニー夫人を、理想の母親のように愛した。その後のバルザックは多くの年上の貴族夫人と知り合い、愛を求めた。

 次々と著作品を発表していくものの商業的には停滞気味であったバルザックは、1825年出版業に手を出して自活をはかったが失敗、直後にベルニー夫人からの出資でもって印刷業(活字鋳造)も始めたが、莫大な負債を残して倒産を余儀なくされた(1828)。開業に懲りたバルザックは、再び執筆に向かい、本名で歴史小説『ふくろう党』を著し、その名が徐々に知られることとなる(1829)。 
 この頃からサロン(上流社会の社交・会合の場)での出入りが激しくなったバルザックは、多くの友を作り、さらなる交流を深めた。交流によって執筆活動も促進、多くの短編を残し、一日の仕事が終わると再度サロンに参加した。30代のバルザックは執筆とサロン参加の繰り返しであったが、特に執筆業においては、毎日のように大量(一日およそ50杯ほど)のコーヒーを飲み、夜間を中心に12~18時間創作と推敲に集中するという、神業的活動であった。また七月革命(1830)で政局が混乱しているのをよそに、私生活でも貴族夫人と愛を育んだが、一方でバルザックは、その後政界にも興味を示し、王党派に属して議員選挙に2度出馬している(結果は落選)。

 1831年に出版した『あら皮』で脚光を浴びるようになったバルザックは、社交も積極的になり、貴族夫人との愛人関係も多く生まれた。また1832年、バルザックが初めての年下であるポーランド貴族のハンスカ夫人(1800?-1882)と知り合って以降は、年下の女性とも愛情関係を持つようになった。また政治家、芸術家、作家、評論家など、サロンで得た多くの友人によって、創作活動にも幅を利かせることとなり、天才的な創作でもって作品集を次々と発表していく。

 こうした活動が展開される中でバルザックは、フランスの社会階層と、当時の風俗を如実に文章で表現した(作品をひとまとめにして『風俗的研究』として出版。1834-37)。また『風俗的研究』だけでなく、『哲学的研究』・『分析的研究』にまで創作の幅が拡がり、あらためて才能の豊かさを周囲に知らしめることとなる。私生活や田園生活、パリや地方での生活など、さらには政治・軍事生活おけるさまざまな"情景"を言葉に表し、過去に前例がないほどの細やかな人間観察ぶりで、読者の興味を誘った。こうして彼がこれまで残した長編・短編合わせて約90作品が、1842年を皮切りにまとめあげられた。これが不朽の大傑作『人間喜劇』として世に残るのである。

 収録された作品には、『トゥールの司祭(1831)』・『ウージェニー=グランデ(1833)』など初期の作品も含まれ、『"絶対"の探求(1834)』・『ゴリオ爺さん(1835)』・『谷間の百合(1836。主人公のモデルは、この年59歳で死去したベルニー夫人である)』・『浮かれ女盛衰記(1843)』など、今でもなお愛読されている作品群である。日常における人間社会を限りなく写実的に表現し、19世紀のフランスの市民社会を疑似体験できるような臨場感をかきたてる作風ではあるが、この作風が現在においてもなお新しさを失わないのは、それぞれの作品が相互に有機的に関係しているという、つまり、それぞれの作品に登場する人物が、別の作品に同一人物として繰り返し再登場させているというものである(人物再登場法。人物再現法)。内容が異なれど、登場人物が繰り返し現れる手法によって、作品と作品は途切れない。バルザックは『ゴリオ爺さん』執筆中にこの方法にひらめいたとされている。ヴォートラン、ラスティニャック、ニュシンゲンなど、ある登場人物が、1つの作品では脇役もしくは端役である一方、もう1つの作品では主役、また準主役となる構成で、同一登場人物の喜怒哀楽があらゆる作品でみることができる、まさに『人間喜劇』のタイトルに相応しいものとなった。『人間喜劇』によって、バルザックは歴史に残る文豪となり、先に出た作家スタンダール(1783-1842)と並んでフランス写実主義リアリズム)文学の代表作家とされ、後に出たフロベール(1821-80)によって写実主義文学が確立していき、これらをさらに強調させて次の自然主義(ナテュラリズム)文学へと移っていくのである。
 『従妹ベット』が刊行された1846年、『人間喜劇』は全16巻でもって完結した。しかしバルザックは『人間喜劇』を単にこの年で終わる構想は持っていなかったとされ、その後も『従兄ポンス(1847)』など、『人間喜劇』用の短編を書きつづった。

 バルザックは浪費癖の持ち主として有名であり、ヨーロッパ全土への旅行、社交界への出入り、多飲多食も甚だしかったが、無理がたたり1843年頃から体調不良となった。借金・借財も膨らみ続け、病状は徐々に悪くなっていくが、最後の愛人とされるハンスカ夫人との、バルザック自身、生涯初めての結婚に気を寄せていた。1850年3月に念願の結婚を実現させたバルザックだったが、同年8月18日夜、51年の生涯をパリの豪邸で閉じた。『現代史の裏面』が最後の作品となった。3日後に葬儀が行われ、1827年以来、長く交流を続けていたロマン主義作家ヴィクトル=ユーゴー(1802-85)が追悼を述べた。

 バルザックの残した莫大な負債は、ハンスカ夫人の手によって清算された。浪費癖に加えて、女性遍歴がひどく激しかったバルザックであったが、年下のハンスカ夫人にだけは、1832年以来、生涯にわたって純情を捧げた恋人であり、18年文通を途絶えさせることなく結婚に結びつけた相手であった。バルザックが言い放ったとされる「結婚は一切のものを呑み込む魔物と絶えず戦わなくてはならない。その魔物とはすなわち.....習慣のことだ」の言葉にもそのことが表現されている。

 バルザックが没して4年後の1854年、バルザックの後を追うようにして、母アンヌ=シャルロット=ロールが他界している。享年76歳だった。皇帝ナポレオン3世(位1852-70)の第二帝政(1852-70)がすでに始まり、クリミア戦争(1853-56)においてロシアに宣戦した激動の年であった。


 登場人物は2,000人、舞台はフランス全土、時代範囲はフランス革命(1789-99)直後から二月革命(1848)直前。タイトルや登場人物の多さ、さらには"人物再登場"手法から見て、"人間"がテーマのように見て取れまるようですが、バルザックの作品を読むと、どうやら登場人物の人間像をテーマにしているというよりは、当時のフランスにおける社会的、経済的事情、あるいは階級的背景が中心となっているみたいですね。この『人間喜劇』は全部読んでいるわけではないのですが、バルザック独自のリアリズムによってその世界にハマってしまい、彼の作品を全部読んでみようという気になるのです。不思議な魔力ですね。

 さて、1日50杯のコーヒーを飲み続け、数々の名作を創り上げたバルザックの生涯を今回ご紹介致しました。今回の学習ポイントですが、受験世界史では、19世紀の文化史の中でバルザックは登場します。ここでは、出題されやすい19世紀の文学史を取り上げてみましょう。太字は特に要チェックですよ。スペースの都合でロマン主義から自然主義までをご紹介致します。

  1. ロマン主義(ロマンティシズム)】18C末~19C半。ウィーン体制時代。古典主義や理性絶対の啓蒙主義に対抗。個性と非合理性を強調。
    〔ドイツ〕
    ①ノヴァーリス(1772-1801):『青い花』
    ②シュレーゲル兄弟(兄1767-1845。弟1772-1829)
    グリム兄弟(兄1785-1863。弟1786-1859):『グリム童話集』
    ハイネ(1797-1856):『歌の本』『ドイツ冬物語』
    〔フランス〕
    ユーゴー(1802-85):『レ=ミゼラブル
    スタール夫人(1766-1817)
    ③シャトーブリアン(1768-1848)
    〔イギリス〕
    バイロン(1788-1824):『チャイルド=ハロルドの巡礼
    ②ワーズワース(1770-1850):『抒情詩選』
    ③スコット(1771-1832):『湖上の美人』『アイヴァンホー』
    〔アメリカ〕
    ①エマーソン(1803-82)
    ②ホーソン(1804-64)
    ホイットマン(1819-92):『草の葉
    〔ロシア〕
    プーシキン(1799-1837):『オネーギン』『大尉の娘』
  2. 写実主義(リアリズム)】19C半。フランス中心。ロシアのトゥルゲーネフ以下4人などは自然主義とカテゴライズされる場合もありますので注意して下さい。
    〔フランス〕
    スタンダール(1783-1842):『赤と黒』『パルムの僧院』
    バルザック(1799-1850):『人間喜劇
    フロベール(1821-80):『ボヴァリー夫人
    〔イギリス〕
    サッカレー(1811-63)
    ディケンズ(1812-70):『二都物語』『オリヴァー=トゥイスト』
    〔ロシア〕
    ①ゴーゴリ(1809-52):『死せる魂』『検察官』
    トゥルゲーネフ(1818-83):『猟人日記』『父と子
    ドストエフスキー(1821-81):『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』
    トルストイ(1828-1910):『戦争と平和』『アンナ=カレーニナ』『復活』
    ⑤チェーホフ(1860-1904):『桜の園』
  3. 自然主義(ナテュラリズム)】19C後。写実主義をさらに強調
    〔フランス〕
    ゾラ(1840-1902):『居酒屋』『ナナ』
    モーパッサン(1850-93):『女の一生
    〔北欧〕
    イプセン(ノルウェー。1828-1906):『人形の家
    ②ストリンドベリ(スウェーデン。1849-1912)