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世界史の目

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ギャラリー

第119話


仲父・呂不韋
~秦王朝の興亡・その1~

 中国・戦国時代(B.C.403-B.C.221)。中国では王朝(しゅう。B.C.11C-B.C.256)の諸侯だったのいわゆる戦国の七雄が割拠する戦乱の時代となった。この七雄の中で最も強大化したのが、君主孝公(こうこう。位B.C.361-B.C.338。25代目公とされる)の率いる(しん。B.C.8C?-B.C.206)である。

 孝公は魏(ぎ。B.C.403-B.C.225)に仕えていた法家(ほうか。諸子百家の1つ)の商鞅(しょうおう。?-B.C.338)を招いた。法家を重用したのは理由があり、空疎に走る諸子百家が多い中で、法家が最も実践的であったことである。法がつくられば、国が守られるのはもちろんのこと、信賞必罰の規定によって国家君主の権力が強大となる。そこで孝公は、法家の思想に基づいて秦の中央集権化を目指した国づくりを考えた。法治国家を築くことによって、これまでの無力な礼ではなく、有力な法によって、人・社会・政治を動かし、国が強くなるという法家の主張を大胆に取り入れたのであった。

 かくして秦の富国強兵策が行われ、商鞅の変法改革が始まった(B.C.359/B.C.356~)。B.C.350年、都は渭水(いすい)北岸の咸陽(かんよう)に遷され、直轄地を県、辺境地域を郡とし、王の任命による官吏を派遣して統治する郡県制を導入し、より強固な官僚制度を施行した。また什伍(じゅうご)という隣保制度を導入して民を10家・5家単位に組織し連帯責任を負わせ(什伍の制)、成年男子が2人以上いる家族を分家させて戸籍を増やし、生産力増大につとめた(分異の法)。さらに度量衡の統一、軍功をあげた民への授爵など、商鞅を中心に様々な改革が施された。この結果、秦朝は七雄における最強国となった。

 しかし急激な改革の施行は保守派貴族や反法家たちに嫌われ、孝公が没した直後、商鞅は捕らえられて車裂きの刑に処されたが(B.C.338)、孝公没後、君主の自称が"公"から"王"に変わっていったように、集権的支配の精神は引き継がれていった。

 しばらく経ち、七雄の1つ、韓(かん。B.C.403-B.C.230)の呂不韋(りょふい。?-B.C.235)という人物が現れた。呂不韋は商人の子として生まれた人物で、各地を往来して商売を行い、巨万の富を手に入れた人物である。
 秦の昭王(昭襄王。しょうじょうおう。位B.C.307-B.C.251)の時代、呂不韋は七雄の1つ、趙(ちょう。B.C.403-B.C.222)に訪れていた。そこで、昭王の孫で、趙の人質になっていた子楚(しそ。?-B.C.247)を見かけた。子楚は王位継承者から見放されていたため、秦と対立する趙に追いやられていた。
 落ちぶれた子楚をみた呂不韋は、このまま黙って過ぎ去るには惜しいと考え、珍しい品(=奇貨)は後に値打ちが上がるので、買っておいて時機を待とうと考え、子楚にお金を与えて、彼を秦王にして地位向上を考えた。これが"奇貨居くべし(きかおくべし。良い機会に乗ずる意味をなす)"の由来である。
 呂不韋は子楚の後見となり、秦の皇室にも巧みに工作した。やがて昭王没後、次男が王位を継承、孝文王となった(こうぶんおう。位B.C.251-B.C.250)。呂不韋の工作によって、孝文王は世子を帰国した子楚と決めていたため、事実上の太子であった。

 呂不韋の好機は続いた。孝文王は在位1年で没し、ついに子楚が荘襄王(そうじょうおう)として即位した(位B.C.250-B.C.247)。呂不韋は行政における最高官職にあたる丞相(じょうしょう)に就くことになったのである。
 荘襄王の夫人は、もともと趙出身であり、呂不韋の愛人であった。荘襄王が気に入り、呂不韋からもらい受けたのだが、その夫人と荘襄王との間にできた子が、のちに大物となりうる人物、(せい。B.C.259-B.C.210)である(実は、その夫人がすでに呂不韋との間の子を身籠もっていたのが、政であったとする説もある。となれば、政は呂不韋の子となる)。

 荘襄王がB.C.247年に没すると、13歳の政が秦王に即位した(位B.C.247-B.C.221)。この頃の呂不韋の名声は頂点を駆け上ったとされており、称号"仲父(ちゅうほ)"を授けられた。学者を食客(しょっかく)として居候させて養い、のちにでる法家の李斯(りし。?-B.C.208)も食客の一人であったとされている。
 また食客らに命じて百科事典『呂氏春秋』を編纂したが、このとき呂不韋が、"文章一字でも添削できるものなら大金を与えよう"とて自慢し、「一字千金」の言葉が生まれたとされる。それほど呂不韋の権勢はすさまじいものであった。

 この間呂不韋は、荘襄王が没して以降、太后(政の母。つまり元愛人)と密通するようになっていった。呂不韋は、この密通は秦王政に知られずにおくために、嫪毐 (ろうあい。?-B.C.238)という別の男を宦官(かんがん)として太后に紹介させた。しかしこの宦官は太后に気に入られたために国政に関与するほどの権力を持ってしまったが、所詮彼は無能者であり、密通が発覚するのは時間の問題であった。結果、呂不韋の密通は露呈され、嫪毐 はB.C.238年に反乱を起こして失敗、太后との間にできた子たちとともに処刑された。

 かつて商鞅が決めた連座制に基づいて、呂不韋も罪に問われた。結果、先王への功績によって死罪は免れ、丞相の地位を剥奪、仲父の称号も取り消され、洛陽に隠退させられた(B.C.237)。しかし呂不韋の名声は下る様子ではなく、彼に集まる食客が減らなかったため、謀反をおそれた秦王政は、B.C.236年、呂不韋の四川への流刑を言い渡した。翌B.C.235年、呂不韋は、自身の将来を憂い、自ら命を絶ったとされている。

 はついに親政を始めた(B.C.238)。呂不韋を退かす前に、彼の食客だった法家の李斯を仕えさせ、絶大なる中央集権化を徹底的に行わせた。このとき李斯は韓出身の韓非(かんぴ。韓非子。かんぴし。?-B.C.234/B.C.233)を、李斯の讒言によって自殺させている。同じ法家だが、韓非は李斯のライバルでもあった。

 法家の採用は孝公時代から行われてきたことであり、政においても同様であった。ただこれまでと違ったことは、政の独裁主義は過去のどの君主よりもまして強硬であり、徹底していたことだった。
 その勢いに顕れるのは対外政策である。かつての七雄(秦を除く六国)を次々と併呑していく有様は、過去の君主にない勢いであり、初の中国統一を予感させた。B.C.228年、趙が秦によって首都である邯鄲(かんたん。河南省)を陥れられると、秦の強大化に危機感を感じた趙の隣国・燕(えん。?-B.C.222)は、政の暗殺を計画し、刺客の荊軻(けいか。?-B.C.227)を秦に派遣したが失敗に終わり、ついにB.C.222年、趙とともに燕は滅ぼされた。

 そしてB.C.221年、六国の最後、斉(せい。B.C.386-B.C.221)を滅ぼし、秦は中国史上初めて、本国全土の統一に成功するのである(秦の中国統一)。
 これまでの王朝の君主は"王"と呼ばれ、その死後生前の功を称えて諡(おくりな)がつけられていた。しかし政は、自身の統一達成という偉業からこの王号を嫌い、万物の起源を為し得た古代の理想的君主、三皇・五帝(さんこう・ごてい)の称号を合わせて"皇帝"と称し、さらに諡を臣下がつけるのは不敬として取りやめた。そして、自称を"朕"と呼び、王命は"制"、王令は"詔"と定めることにし、政を初代皇帝"始皇帝(しこうてい)"として、子々孫々に永遠に受け継ぐものとしたのである(帝位B.C.221-B.C.210)。

 始皇帝は李斯を丞相に任命し(B.C.221?)、法家思想に基づいた専制君主体制を築いていく準備を整えた。
ここにおいて、まさに独裁帝国の猛進が始まろうとしていた。


 連載119話目にして、ようやく始皇帝の登場となりました。といってもシリーズでお送りいたしますので、今回は始皇帝というより、彼の生みの親(?)ともいうべき呂不韋のお話がメインとなりました。"奇貨居くべし"や"一字千金"の由来は彼によるものなのですね。呂不韋のお話は司馬遷(B.C.145/B.C.135?-B.C.86?)が書いた紀伝体の名作史書である『史記』の中の「呂不韋伝」に詳しく収められています。

 また荊軻も登場しました。政を暗殺する大役を任された刺客です。壮途に上るに際して、死する覚悟を決めて"風蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し、壮士ひとたび去って複た(また)還らず"のうたを遺しました。これが「易水送別の歌」で、『史記』の中でも名場面のひとつです。

 さて、本日の学習ポイントですが、呂不韋のお話は非常に興味深いものがあるのですが、受験世界史には全くと言っていいほど出ません。さらに荊軻の始皇帝暗殺未遂事件の話は、本国で映画化されるなどして有名ですが、これも同様で、用語集にすら載っていません。今回大事なのは、孝公の時代、法家の商鞅を使って中央集権国家としての秦を形成した紀元前4世紀中葉、そして政の時代に六雄を破って中国統一を果たし、始皇帝と名乗った紀元前221年の2時代です。この2つは是非とも重要ですので覚えましょう。ちなみに、始皇帝は李斯を起用しています。商鞅、李斯、そして韓非子と、中央集権的な専制君主の必要を説いた3人の法家たちもそれぞれ覚えましょう。また当然のことながら首都・咸陽も覚えてください。

 さて次回は始皇帝のその後をご紹介します。泣く子も黙る大改革の連続です。お楽しみに!!

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。嫪毐 (ろうあい)→女偏に"翏"と、冠が"士"で下が"毋"。