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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第184話


翠玉の聖島・最終話

~永遠の祈り~

  1. -Vol.177- その1~ある伝道師の布教~はこちら
  2. -Vol.178- その2~イギリスの侵略~はこちら
  3. -Vol.179- その3~残酷な征服~はこちら
  4. -Vol.180- その4~反撃と合併~はこちら
  5. -Vol.181- その5~オコンネルの魂~はこちら
  6. -Vol.182- その6~王冠なき国王と自治法案~はこちら
  7. -Vol.183- その7~事実上の独立~はこちら

 戦後、1949年にイギリス連邦からの離脱を果たした南アイルランド(南部26州。カトリック系)のアイルランド共和国(旧称・1922年アイルランド自由国→1937年エール)と、南北統合を拒みイギリスに編入されたアルスター地方の北アイルランド(北部6州。プロテスタント系)。第二次世界大戦では南は中立を貫いたが、北はイギリスの一部として連合国側につき、戦争協力を行った。

 南側のこうした経緯は、イギリスのウィンストン=チャーチル(1874-1965。首相任1940-45,51-55)やアメリカのフランクリン=ルーズヴェルト(1882-1945。大統領任1933-45)からの戦争協力を南アイルランドのエイモン=デ=ヴァレラ(1882-1975。首相任1937-48,51-54,57-59。大統領任1959-73)が拒否したことによるものであった(しかし結局はいくらかの支援があった)。
 当時南アイルランドの経済は必ずしも良くなかった。保護関税貿易を行っていたが、効率が悪化し不況が進行、失業者も膨大となって海外移住も増加するなどして、戦後は経済体制の幾度もの転換が行われた。しかしカトリック教会の存在がある限り、ナショナリズムでもって独立を勝ち取った国家として、その後の国民は常に弱気になることはなかった。宗教的には南に籍を置くプロテスタントも緩やかにカトリックと同化していき、政治面では、アイルランド共和党(フィオナ=フォイル)と統一アイルランド党(フィナ=ゲール)が交互に政権をとって主導している。デ=ヴァレラが大統領に就任した1959年以降は外資導入で経済発展を促進、移民減少と人口増加につながった。なお、デ=ヴァレラは1973年(この年、アイルランド共和国はEC(ヨーロッパ共同体。European Community)加盟を果たした)、91歳にして政界を引退、1975年1月に夫人に先立たれた後、追うようにして8月末にダブリン近郊にて没した(デ=ヴァレラ死去。1975)。子、孫は政界入りした。

 一方の北アイルランドは、イギリスへの戦争協力と、イギリスに戦勝をもたらしたことで、南よりも優位に立った。また戦時中イギリスへの軍事物資調達による特需景気をもたらし、戦後は大いに繁栄、イギリスにおける社会福祉政策(いわゆる"ゆりかごから墓場まで")の保障を受けた。しかし、ナショナリストやカトリック教徒が多数を占め、民族的・宗教的統一が円滑に行われた南アイルランドに対して、北アイルランドではイギリスとの統合を望むユニオニスト(その後"ロイヤリスト"という語も使用された)が全人口の60%ほどにすぎず、プロテスタント優位の政治・社会活動に対抗する、アイルランド人としてのナショナリズム高揚、南部との統合、イギリスからの離脱、カトリック解放を願う人たちもおり、民族的・宗教的統一は南アイルランドよりは容易ではなかった。またその解放を願うカトリック教徒の差別も社会問題となり、北アイルランドはいたって政情不安定が続いた。

 1968年、北アイルランドではアメリカ公民権運動の影響を受けて、プロテスタントとカトリック間の宗教的対立が顕在化した。北アイルランドではユニオニスト系の政党(アルスター統一党など。Ulster Unionist Party)が北アイルランド議会(ストーモント議会ともいう)でも発言権が増し、プロテスタント優位に動いたため、カトリックへの冷遇は進行した。具体的には住居差別、公職差別、選挙差別(有利に選挙区を区分けするゲリマンダーなど)、娯楽差別などが北のカトリック教徒に対して行われた。このためカトリック教徒の差別撤廃デモが頻発するも、力でねじ伏せられ、社会不安がなお一層増大した。

 このような状況から一時鳴りを潜めていたIRAアイルランド共和軍。Irish Republican Army)も再びアイルランド島での南北統一を掲げ、北のカトリック住民たちと結びついて、ゲリラ活動・テロ活動を再開した。またこれに対してUVFアルスター義勇軍の再編。The Ulster Volunteer Force)が三たび組織され、カトリック住民に対する圧力を強めた。
 1969年、IRA内においてもゲリラ作戦に支持が得られず、正統派暫定派に分裂した(IRA分裂)。正統派(OIRA。Official IRA)はマルクス主義に則り、行政を動かして南北統一を達成させようとし、暫定派(PIRA。Provisional IRA)は武力行為でもってイギリスの撤退と南北統一を果たそうとする組織となった。この頃からIRAは特に北アイルランド警察との衝突が激化し、その後イギリス軍が派遣され(駐留英軍部隊)、戦闘鎮圧に乗り出した。これが北アイルランド紛争の幕開けであった。北アイルランドの中心都市、ベルファスト(アントリム州)やロンドンデリー(デリー州)などでの衝突が際立ち、カトリック住民の多いデリーのボグサイドではイギリス軍との大規模な市街戦が展開された。
 またシン=フェイン党(Sinn Féin)はIRAの中でも暫定派や北アイルランドのカトリック住民との結びつきが強く、その後も英国下院議会には出席せず、北アイルランド議会で威力を発揮した。

 1972年1月30日(日)、ロンドンデリーで市民数千人のデモ行進が行われた。ここでは武装する姿は1人となく、平和的デモ行進を行う形で行われた。
 そして、デモ行進がボグサイドにたどり着いたところで、悲劇は起きた。イギリス陸軍の落下傘部隊がデモ行進する非武装の市民に銃撃、27人が撃たれ、14人が死亡(その半数が20歳未満)、ボグサイドは血の海と化した。これが"ブラッディ・サンディ(血の日曜日)"・"ボグサイド虐殺事件"と呼ばれた事件である。しかもこの直後にイギリスによって行われた裁判では発砲したイギリス軍には無罪判決が下された。この事件に端を発して、その後カトリックとプロテスタント間、ユニオニストとナショナリスト間との衝突が後を絶たず、北アイルランドは無機能状態と化した。このため北アイルランド議会は閉鎖され、イギリスの直接統治となったが、その後も紛擾が絶えなかった。こうして、アイルランド問題は北アイルランド問題として集中的に取り上げられるようになった。

 1977年にイギリス政府は北アイルランド紛争で投獄した囚人に対して国事犯・政治犯として取り扱わないと発表した。すでに大量のPIRA(暫定派IRA)のメンバーが獄中にいたが、彼らは囚人服を脱いで抗議するブランケット・プロテスト行為を行い、イギリス政府に対抗した。この行為にPIRAとその支持者に強い反響を呼び、PIRAのメンバーである囚人のボビー=サンズ(1954-1981)は1981年4月、イギリス下院議員に立候補し、獄中当選を果たすまでに発展した。囚人たちが同年3月1日から始めた66日間のハンガー・ストライキ(1981年ハンスト)の最中の出来事であった。しかしサンズは当選して26日後に餓死し、あわせて7名が餓死する結末となった。

 ハンスト闘争以後、イギリスと北アイルランドの80年代はイギリス保守党政権とPIRAの全面対立が大規模に示された。1979年に首相に就任したマーガレット=サッチャー(保守党。任1979-90)は、このような行為にもまったく妥協を許さなかった。こうした態度にPIRAはイギリス本土にもテロ活動を開始した。1984年にはイギリスのブライトンで保守党の党大会が開かれた際、首相、党議員、党閣僚が宿泊していたホテルでPIRAによる爆弾テロ事件が発生(ブライトン爆弾テロ事件)、サッチャー首相は無事であったが、議員やその家族など5人が爆死、30余人のけが人が出た。またロンドンやマンチェスターといったイギリスの大都市においてもテロ行為が行われた。

 サッチャー政権はその間もイギリス領フォークランド諸島(マルビナス諸島)を占領したアルゼンチン軍に対して強硬路線でこれを破るなど(フォークランド紛争。1982.3-82.6)、強い信念と強硬な政治方針でもって敵と戦った。サッチャーは1990年に首相を辞任するが、保守党政権は維持した(ジョン=メージャー政権。首相任1990-97)。しかしその後イギリスでは政権交代が行われ、労働党トニー=ブレア政権が発足、3期続いた(首相任1997-2007)。

 メージャー政権になるとPIRAのテロ活動は縮小し、軍事的活動から政治的活動に転換を見せ始めた。そしてブレア首相は北アイルランド問題解決に向けて、本格的な和平交渉を提案し、アイルランド共和国首相バーティ=アハーン(任1997-2008)と協議をすすめた結果、1998年4月10日ベルファストにおいてイギリスとアイルランド間に和平合意が成立した(1998.4.10。ベルファスト合意復活祭の前々日が復活祭前の金曜日、すなわち聖金曜日だったため、グッド・フライデー合意とも)。この合意によって、北アイルランド議会が同年7月より復活し、これまでのアイルランド統治法にかわる北アイルランド法が成立、北アイルランドとしての自治が認められた。そして北アイルランドの武装組織は武器の放棄と紛争の休止が取り決められた。一方南のアイルランド共和国には北部6州領有権の放棄が決められた。

 またブレア政権期には独立調査委員会を発足させて、1972年のブラッディ・サンディ事件の再調査も行った。こうして、北アイルランド紛争は解決の方向に出、北アイルランド問題を含む全アイルランド問題は徐々に解決の方向に出ている。しかしPIRAはベルファスト合意成立後に内部分裂を起こし、PIRAからRIRA(Real IRA。真のIRA)が分派し、ベルファスト合意に反対してアイルランド南北統一を掲げた。RIRAは1997年から98年に多くのテロ活動を行って多くの被害者を出し(最大は8月のティロン州のオマー市商店街爆弾テロ事件。一般市民を含む29名が死亡、約220名が重軽傷を負う)、2000年代でも銃撃発砲事件が後を絶たないなど、流血の惨事はいまだ続いている。2002年にはまたも政情不安に陥り、イギリスによる北アイルランドの自治が凍結され、直轄統治が復活する事態となった。

 しかし2007年になるとやや落ち着きを取り戻し、同年5月8日にはセイント・アンドリューズ合意に基づいて、北アイルランド自治政府(The Northern Ireland Executive)が再建された。これまで敵対関係にあったプロテスタント系ユニオニスト政党である民主統一党(DUP。Democratic Unionist Party。1971年創設。第1党)とカトリック系ナショナリスト政党であるシン=フェイン党(第2党)による連立自治政府の誕生であった。そして同年7月、1969年の派兵以来北アイルランドにおける駐留英軍部隊は直後に活動を終え、2010年春、警察権・司法権のイギリス政府から北アイルランド自治政府へ移譲することが決定された。こうして、平和に向けた発展的・前進的な活動が行われ、アイルランド問題の全面解決へ進もうとしている。

 シャムロックによって全土をエメラルド色に染められたアイルランド。恒久の平和を求めて、常に祈り続けられていくのである。


 B.C.7500年頃にアイルランドに文化が形成され、432年、聖パトリックの布教(387?-461)の三つ葉のクローバー伝説に始まったカトリック布教、その後イギリスの侵略、征服、宗教対立、そしてアイルランドの国家統一・自治・独立問題、最後に北アイルランド問題と、いつの時代においても血を見なければならない事態に置かれたアイルランドの歴史を、8編に渡ってご紹介いたしました。そしてここへ来て、ようやく最終話をご紹介することができました。これもひとえに最後までお読みいただいた皆様のおかげであります。本当にありがとうございます。

 さて8編を通して、アイルランド問題がここまで複雑で、短時間では解決し得ない問題であることがお分かりいただけたかと思います。アイルランド問題は、中世の侵略期を発端として、現在に至るまでも、宗教、政治、社会、文化、そして民族自決といった、あらゆる角度からみても避けては通れないというのが感じられたのではないでしょうか。今年になって、北アイルランド問題の解決に近づく、警察権・司法権のイギリス政府から北アイルランドへの移譲が決まったニュースもありました。あとは自治政府が上手に行政をとりまとめて社会安定に努めてもらい、平和を祈るばかりです。

 では今回の受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。北アイルランド問題は世界史AB、現代社会、政経などでもとりあげられるほどポピュラーな題目です。世界史に限って言えばヨーロッパ現代史やアイルランドのテーマ史などで登場しやすい分野です。今回の覚えるべき内容は、「イギリスの統治となった北アイルランド内のカトリック系住民とプロテスタント系住民との対立が続き、カトリック系にはシン=フェイン党と関係の深い、アイルランド島としての国家統一とイギリスからの独立を果たそうとするアイルランド共和軍、いわゆるIRAがテロ活動を行うが、1998年にイギリスのブレア政権下で和平合意が成立した」といった内容で知っておきましょう。本当はブラッディ・サンディ(血の日曜日)も知って欲しいのですが、世界史受験生にとっては同じ"血の日曜日"でも1905年のロシア革命の方を覚えておきましょう。またIRAも分裂しましたが(OIRA、PIRA、RIRAなど)、そこまで詳しく覚える必要はございません。地名では、9州から成るアルスターですが、うち6州が北部にあたります。ここはプロテスタント系住民が多く、イギリスとの連合を良しとしている人が多いという事情も知っておくと良いでしょう。 

 余談ですが、ダブリンのロックバンド・U2の、アルバム『WAR(闘)』の中に収録された"Sunday Bloody Sunday"という曲がありますが、この曲のライブPVでもボーカリストのボノ氏が白い旗を掲げて歌い上げるシーンが非常に目に焼き付いていました。この"Sunday Bloody Sunday"とは本編にあった、1972年の"ブラッディ・サンディ(血の日曜日)"です。また個人的に愛聴しているスコットランドのロックバンド・シンプルマインズも、全英1位を記録した『Belfast Child(ベルファスト・チャイルド)』などは本編の北アイルランド問題が取り上げられています。非常に個人的な趣味を話しております。すみませんm(_ _)m

 さて、8編続いたアイルランド史、いかがでしたでしょうか。次回よりまた別の世界と時代へ移ります。