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世界史の目

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ギャラリー

第236話


儒教の世界・その2
孟子の思想

その1・孔子の誕生はこちら

 孔子(こうし。B.C.552?/B.C.551?-B.C.479)が没し、儒教・儒学の教えは弟子たちに継承されていった。たとえば曾子(そうし。B.C.506-?)は「(こう)」の道を極め、その思想は孔子の孫である子思(しし。B.C.483?-B.C.402?)らが受け継いだ。また特に文学(学問のこと)に秀でていた子夏(しか。B.C.507?-B.C.402)や子游(しゆう。B.C.506-B.C.443)などは社会規範である「(れい)」を重視して門人に伝授していった。

 その後、春秋時代(しゅんじゅう。B.C.770-B.C.403)の(しん。現在の山西省。B.C.11C-B.C.376)から(かん。B.C.403-B.C.230)・(ぎ。B.C.403-B.C.225)・(ちょう。B.C.403-B.C.228)が独立し、戦国時代(B.C.403-B.C.221)が始まると、儒家は多くの学派に分裂していったとされる。それは大きく分けて8つの学派に分裂していったといわれ(儒家八派)、たとえば、前述の子思(しし。B.C.483?-B.C.402?)の学派をはじめ、『論語(ろんご)』の「先進(せんしん)第一」で、孔子によって、子夏と比較された子張(しちょう。B.C.503?-B.C.447?。"過ぎたるは猶及ばざるがごとし"の由来。"過ぎた"方が子張、"及ばざる"方が子夏)の学派、子思の門人の下で儒学を学んだ孟子(もうし。B.C.372?-B.C.289)の学派、趙の出身である思想家、荀子(じゅんし。B.C.313?/B.C.298?-B.C.238)の学派などがでた。その中でもとりわけ、人は生まれながらの本性を持っている(性善説。せいぜんせつ)ため、他人に対し自然に親愛の心を持つ意味の"(じん)"を重んぜよという孟子と、人は生まれながらの本性を持っている(性悪説。せいあくせつ)ため、社会規範である"礼"を重んぜよという荀子の2学派が主流となっていった。

  孟子は孔子が没しておよそ100年後に曲阜(きょくふ)近郊の小国・邾(ちゅう。?-B.C.4C。雛とも。すう。現在山東省の雛城。すうじょう)に生まれた。孟子の前半生は不明な部分が多いが、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)に登場する歴史書『列女伝(れつじょでん)』によると、孟子は幼くして父と死別し、母親の手で育てられた。霊園の近くに住居があったためか、孟子はしきりに葬式の真似をしたため、困り果てた母親はのちに市場の近くに転居した。すると今度は市場のせりを行う商人の真似をしきりにし始めたため、母親は再度転居した。再転居先は学校の近くであったため、孟子はひたすら学問や礼儀を学ぶようになり、ようやく母親は安心したという"孟母三遷(もうぼさんせん)"の故事が記されている。
 『列女伝』では他にも孟子に関する有名な話が残されている。孟子は学問への挫折感から、学業を中断して帰宅してきた。家では、母親が生計を立てるための織布を織っている最中であった。孟子が学業を中断して帰宅してきた姿を見て、母親は作業を中断し、織っていた布を切断してしまった。母親は断ち切られた織布を孟子に見せて、孟子に対して、学業をやめることは母が(生計を立てるために行っている)織物をやめてしまうことと同じだと戒めたという内容である。これが"孟母断機(もうぼだんき)"の故事として知られている。

 孟子は、子思の門人について儒教を学んだ。孟子が理想とする統治は、力で支配する覇道政治ではなく、仁をもつ有徳な君主が支配する王道政治であった。この王道政治ができる有徳な君主とは、他人への親愛心である"仁"と、社会における人の正しき道(道理)である"(ぎ)"、つまり"仁義(じんぎ)"を道徳の中心として重んじる人物、すなわち、君主権ではなく人民を尊ぶことを重要と考える人物こそふさわしいと説いた。これは、四書の1つ『孟子』の「告子章句(こくししょうく)の上」での"仁人心也。義人路也(仁は人の心なり義は人の路(みち)なり)"で記されている。孟子がいう仁とは、"孝"や"忠恕"といったこれまでの思想に加えて、"同情心"を養うことを重視した。同情というのは、他人が背負った不幸を見過ごすことができないとする心で、たとえば、井戸に落ちそうになって泣いている赤ん坊を見て、無意識に助けようとする心をいい、孟子はこの心を仁を芽生えさせる"惻隠(そくいん)の心"と説明し、惻隠の心を養い育てることで仁という徳が完成すると説いた。
 また義という徳を完成させるには、正しくないこと(不正)や悪いこと()を恥じてこれを憎み、正しい行いを守る正義感を養い育てることが必要であり、孟子はこの心を義を芽生えさせる"羞悪(しゅうお)の心"と説明し、羞悪の心を養い育てることで、義が完成すると説いた。こうした、徳を完成させるための発端となる"惻隠の心"や"羞悪の心"というのは、すべての人が生まれながらにして、から授かった天命とも言うべきの本性や天性であり、性善説を正当とする根拠となった。

 さらにこの根拠は他に2つあり、"辞譲の心"と"是非の心"があると孟子は言う。この2つに"惻隠の心"と"羞悪の心"をあわせた、徳を完成させるための四つの発端を"四端(したん)"という。"辞譲の心"とは自身をへりくだり、他人に譲る心であり、この心を養い育てることで、礼儀作法や社会規範が実現され、つまりという徳が完成する。また"是非の心"とは物事の善と悪や正と不正を分別する心であり、この心を養い育てると、道徳的な判断力が完成される。この徳を"(ち)"という。孟子はこれら、という四徳(しとく)を重んじ、人の生まれながらにして持っている善の本性をなすための素質、つまり四端を修養すれば誰でも四徳を身につけた有徳な人格者になれると説いたのである。これが性善説である。春秋時代以上に弱肉強食の様相を呈した戦国時代に生きた孟子は、四徳を失い覇道に突き進む覇者は人心を失い国家を統治することはできず、天は天命を革(あらた)めて(革命)、四徳を身につけて王道に突き進む王者にとって変わる(易姓)、つまり易姓革命の理論を正当化した。

 『孟子』の「公孫丑章句(こうそんちゅうしょうく)の上」には、"自ら反(かえり)みて縮(なお)ければ、千万人と雖(いえど)も吾(われ)(い)かんと(自分のことを反省してみて、正しいと思うならば、相手が何千何万といようとも、逃げないで堂々と信ずる道に向かって進んで行こう)。"という言葉がある。それだけ強い信念でもって自身の道徳的人格を確信すれば、必ずやあらゆる道徳をしっかりと実践することができる。義の実践を積み重ねていくことで養われる、まっすぐと天地に満ちた力強い広大な気分・気力が"浩然(こうぜん)の気(き)"であり、孟子はこれを常に養って四徳を高めた有徳者となることを理想とし、この浩然の気を常に養っている人物を大丈夫(だいじょうぶ)と呼ぶ。
 さらに、大丈夫と呼ばれる高い道徳をもつ善の本性は、誰もがが生まれながらにして持っており、この理想を実現するためには、正しく基本的な人間関係を規律する五倫(ごりん。親子関係の、君臣関係の、夫婦の、長幼の、朋友の)を守らなければならない。親(しん)は親愛、義(ぎ)は礼儀、別(べつ)はけじめ、序は順序、信は信頼を意味し、人倫(人道)に根ざした生き方を必要とした5つの徳目である。

 孟子は混迷した戦乱時代の解決に、王道政治の必要をうったえ、諸国を遊説したが結局は受け入れられず、帰国後は弟子の教育と著作活動に専念し、B.C.289年に没した(孟子没。B.C.289)。孔子を尊び、その教えを戦国時代の世に発展させることに力を尽くし、多くの儒家に大きな影響を及ぼした孟子は、儒教においては孔子に次ぐ重要な儒家として、"孔孟(こうもう)"と呼ばれるのであった。


 今回は孟子です。孟子もたくさんの語録がありますが、『孟子』の「梁恵王章句(りょうけいおうしょうく)の上」では、孟子が戦国の七雄の一つ、(ぎ。B.C.5C-B.C.225。首都が開封(かいふう。かいほう)にあったときの国号は梁(りょう))の恵王(けいおう。王位B.C.369-B.C.319)と問答をしている有名なお話があります。王は「凶作で貧しい隣国の人民を豊かな自国に移住させるなど、人民のために王道政治を貫いているはずの自分になぜ人が集まらないのだろう。」と孟子に尋ねたのに対し、孟子は「たとえば、戦争で五十歩逃げて踏みとどまった兵士が、百歩逃げて踏みとどまった兵士を嘲笑するのはいかがなものでしょうか。」と応え、恵王は「百歩逃げなかったとしても五十歩逃げたのだから、逃げたことに変わりはない。同じことだ。」と返し、孟子は、「その理由がおわかりでしたら、自国の人口が隣国の人口よりも増えることを期待しないことです。隣国に貧民が多いことを凶作のせいにするようでは、他の国と何も変わりません。」と教えました。これが有名な"五十歩百歩"の故事です。
 孔子が教えた"孝"や"忠恕"といった"仁"の思想は曾子へ受け継がれて、その後曾子から子思へ受け継がれていき、そして子思の門人についた孟子が広めようとした王道政治は、戦国時代にはなかなか広まることはありませんでしたが、その後の儒教界に大きな影響を及ぼしたのは間違いございません。

 さて、今回の大学受験世界史の学習ポイントを見て参りましょう。儒家のナンバー2・孟子の存在は重要。性善説を唱えたことは非常に重要で、次回に登場する荀子の性悪説とともにワンセットで覚えてしまいましょう。私は予備校時代"孟善荀悪(もうぜんじゅんあく)"と、四字熟語にして覚えていました。あとは、易姓革命を評価したこと、力で治める覇道政治と徳で治める王道政治の内容も余裕があれば知っておきましょう。倫理分野での孟子は性善説はもちろんですが、王道と覇道、易姓革命、四端(惻隠・羞悪・辞譲・是非)の心を養って四徳(仁・義・礼・智)を完成させること、人間関係は五倫が必要であることなどを知っておきましょう。

 さて次回、性悪説をとなえる荀子の教えとは?次回に続きます。

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。邾(ちゅ。左側は朱、右側はおおざと)。