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世界史の目

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ギャラリー

第4話


帝政ローマ(元首政~軍人帝政編)

 アクティウムの海戦B.C.31)でプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラ、並びに彼女に魅了されてローマを裏切ったアントニウスを敗り、エジプトを併合(B.C.30)したオクタヴィアヌスは、内乱の1世紀に終止符を打ち、元老院による帝政をしいた。共和政ローマが終わり、帝政ローマの誕生である。元老院による共和政の形式が尊重され、元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれた。ローマ帝国の誕生である。

  1. アウグストゥス時代(B.C.27~A.D.14):オクタヴィアヌスは元老院からアウグストゥスの称号を受け、自称”第1の市民(プリンケプス)”としての元首政を行った。五賢帝時代末まではパックス=ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる安定期がおとれるが、途中、暴君ネロ帝の出現もあり、乱世もあった。
  2. 五賢帝時代(96~180):①ネルヴァトラヤヌスハドリアヌスアントニヌス=ピウスマルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人。ここでのポイントはローマの領土が最大になったのは、トラヤヌス帝のとき。またハドリアヌス帝のときに、辺境に長城を建設し、ブリタニア遠征を行っている。さらにマルクス=アウレリウス=アントニヌスは、”大秦国王安敦”の名で、中国・後漢の頃、前漢時代に征服・建設した南越9郡のうちの日南郡を166年に訪れている(『後漢書』より。しかし非同一人物説もある)。
  3. 軍人皇帝時代(235~284):五賢帝の後、ローマの市民権が属州(イタリア半島以外の征服地)にも拡大され、212年はカラカラ帝のいわゆるカラカラ勅令によって全属州の自由民にローマ市民権を与えた(セウェルス朝)。実は、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの頃より異民族の侵入、帝国の財政悪化など、徐々ではあるが帝国は疲弊しつつあった。マルクス帝の死後は完全に乱れ、帝位をめぐる争いが激化し、近衛軍団を従えるなど、各地の軍隊が勝手に皇帝をたてて争う時代に突入した。これが軍人皇帝時代で、193年のセヴェルス帝から始まるが、乱立が激しくなるのは235年になったからである。さらに東方で226年にササン朝ペルシアがおこってからは、国境で度重なる衝突が繰り返され、軍人皇帝ヴァレリアヌス帝がペルシア皇帝シャープール1世によって捕虜されるなど、3世紀は荒れに荒れた。

 その後、ディオクレティアヌス帝(位285~305)→コンスタンティヌス帝(位324~337)→テオドシウス帝(位379~395)と、元首政にかわる、より安定した専制君主政(ドミナートゥス)が行われたが、この間はキリスト教をめぐる大事件が起こったり、ゲルマン民族の侵入などがあり、挙げ句の果てには帝国東西分裂といった大きな出来事ばかり起こりますが、専制君主政についてはまた別の機会にお話しするとしましょう。

ちなみに、五賢帝の順番の覚え方は、寝るネルヴァ)トラヤヌス)ー(ドリアヌスとアントニヌス=ウス)丸くなる(マルクス=アウレリウス=アントニヌス)という覚え方があります。

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