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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第66話


光と影 ~オランダ天才画家の生涯~

 17世紀、ヨーロッパは絶対王政下で政治経済が動いていた。それだけでなく、文化面においても王室の影響が色濃く出ていた。国王が支持する芸術は、16世紀を彩った貴族的・保守的なルネサンスの反動であり、また絶対主義時代を象徴するかのように豪壮華麗であった。こうした絶対王政期に流行した芸術様式はバロック式(16C後半~18C初め)と呼ばれ、全欧諸国にバロック文化が花開いた。建築ではヴェルサイユ宮殿が造営され、音楽ではヴィヴァルディ(1678-1741。イタリア)、バッハ(1685-1750。ドイツ)、ヘンデル(1685-1759。ドイツ)らが登場した。

 この時代、最も成熟した芸術は絵画であり、全欧に多くのバロック画家を生みだした。フランドル地方で活躍したルーベンス(1577-1640)とファン=ダイク(1599-1641)、スペインではエル=グレコ(本名キリアコス=テオトコプロス。1541?-1614。El Grecoはスペイン語で"ギリシア人"の意味。クレタ島生まれのギリシア人のため、こういう名がある。活躍の場がスペインである)、ベラスケス(1599-1660)、ムリリョ(1617/18-1682)らがでた。こうした中、独立後(1581)のオランダから出たオランダ画派も活躍した。フランドル派は宗教画が中心であったが、オランダ画派は庶民的な生活画・風物画が描かれ、フェルメール(1632-1675。『牛乳を注ぐ女』『真珠の耳飾りの少女』)らが現れた。そして、フェルメールのほかにもう一人、オランダの代表画家がいる。17世紀におけるオランダ美術の代表、レンブラント=ハルメンスゾーン=ファン=レイン(1606-69)である。

 レンブラントは、オランダのライデン(オランダ西部)に、1606年、製粉業者の子として生まれた(10人兄弟の末子)。ライデン大学に入学後、絵画を志望したため、数ヶ月で退学(1626)、中心都市アムステルダムに渡り、徒弟として画家の修業を積んだ。そして、1629年、23歳のレンブラントは自身の「自画像」を発表、周囲から好評価を受けた。続く1632年には『トゥルプ博士の解剖学講義』が出世作となり、名声を確立した。アムステルダムに移住後、肖像画家として多額の収入を得、自身の徒弟も急増した。

 この背景にはアムステルダム市の発展が大きい。元来ネーデルラント独立戦争(1568-1609)で、これまでヨーロッパの経済活動の中心だったアントワープがスペイン領となり衰退(1585)、活動の中心はアムステルダムに移り、1609年にはアムステルダム銀行が設立、中継貿易と金融を主とするめざましい経済発展を遂げていた。しかもその後のオランダは対外政策も積極的に乗り出し、オランダ東インド会社の設立(1602)後、ジャワ島でバタヴィア市(現在のジャカルタ。インドネシアの首都)を建設(1619)、台湾でも城塞ゼーランディアを建設(1624)、さらにはマラッカ・セイロンなど東南アジア諸地域を占領して植民地とし、香料と胡椒の貿易を独占的に支配するようになった。すると今度はオランダ西インド会社(1617)を設立して新大陸進出も果たし、ハドソン下流域に植民地ニューネーデルラントを建設(1614)、中心都市としてニューアムステルダムをマンハッタン島に建設(1625)と、立て続けの植民地経営によって、オランダの貿易は世界規模になっていった。

 こうしたオランダの経済成長により、アムステルダム市民は富裕化し、多くのブルジョワジーが生まれた。レンブラントにはこうした裕福な画商から肖像画の発注が殺到し、自身も富裕化していった。そんな中で、画商の紹介から、6歳年下で上流階級の娘サスキア(1612-42)と結婚(1634)、生活はますます向上し、彼の人生における最も華やかな時代が訪れた。そして、1635~36年もの間、『アブラハムの生贄』『ガニュメデスの誘拐』『ダナエ』『目を潰されるサムソン』など、傑作・力作を発表した。

 私生活では、妻サスキアの肖像画も数多く描かれたが、家庭の裕福化と、サスキアの生まれ育った家庭環境などから、美術品の収集など浪費に走る傾向もある一方、レンブラント自身は誰よりもましてサスキアを愛し、家庭の幸福を追求していた。しかしその願望とは裏腹に、必ずしも順風満帆ではなく、立て続けに大きな悲劇が彼に襲った。レンブラントと妻サスキアとの間には3子を出産したが、成長に恵まれず、相次いで3子は幼くして他界した。レンブラントはサスキアの療養も兼ねて、1639年、借りた資金で、豪邸(通称:レンブラントハウス。現在レンブラント美術館)を購入した。しかし1642年に4人目の子ティトゥス(1642-1668)を授かるも、生後1年も満たないうちに、今度が最愛の妻サスキアが、ティトゥスの成長を見ずして他界するという不幸に見舞われた(享年30歳)。その後ヘールチェなる女性がティトゥスの乳母となったが、サスキアを紹介した得意先の画商から注文を断られるなど、作業にも影響が及び、彼の収入も少しずつ縮小していくことになる。

 こうした不運が襲いかかる中で発表したのが同1642年に発表した名作『夜警』であった。画家レンブラントの心中の変化によって、これまでの画風が深化していき、人間の心の奥深さを追究するようになっていった。『夜警』の正式名称は『フランク=バニング=コック隊長の市民隊』といい、1639年、市民隊のモデルである火縄銃手組合員(オランダ独立戦争の時に結成された市民による防衛隊)から、集団肖像画の依頼を受けて、完成に3年を費やしたレンブラントの集大成であった。注文代は組合員がそれぞれ均等に出し合い、完成を待ち望んでいたが、評価は最悪の結果となった。
 できあがった作品には市民隊の姿が均等に描かれていなかった。暗すぎて全身が描かれている肖像が少なく、また市民隊に無関係の人物まで描かれている。また『夜警』とあるが、実際は昼の時間を描いており、左から太陽らしき光線が暗闇に差し込めているのである(当時は夜の絵として評価されていた)。当然依頼者から注文代の返金をはじめとしたクレーム・訴訟の嵐に巻き込まれていった。その後レンブラントは商業的な絵画作業を嫌い、自己の個性を生かした作品を追究するようになっていく。レンブラントへの受注は激減するのであった。 

 1646年、レンブラントはヘールチェと別れを告げ、当時18歳のヘンドリッキェ(1628-1663)なる女性を家政婦に雇った。その後レンブラントは、別れたヘールチェから婚約破棄に対する訴訟を受け、多額の支払いを義務づけられたため、生活は貧窮化した。レンブラントはヘンドリッキェとの婚約はなかったが、彼女との間に1子(コルネリア)を授かった。これでティトゥスを含め4人家族となり、第2の人生が始まるはずであった。
 しかし今度は仕事に支障を来した。激減した受注のなかで遣り繰りを行わなければならず、しかも、美術品採集からくる浪費癖、受注契約の不履行、前述のヘールチェとの裁判沙汰や、年齢差ある愛人関係など、多くの醜聞によって悪評がおこされ、1656年、レンブラントは遂に破産を宣告された。豪邸や所持品は差し押さえられ、家族は貧民街に転居することとなる(1660)。しかしこのような事態に陥っても、ヘンドリッキェとティトゥスはレンブラントを保護する決心をし、転居後、ヘンドリッキェとティトゥスは画廊を始めた。レンブラントは従業員という名目で絵画作業を続けていくことにしたのである。画風が衰えることはなく、名作『修道士に扮する息子ティトゥス』などを残したが、債権者の取立は相変わらず続き、この地においても、画風の評価は再燃せず、名画家としての再興は難色を示した。

 レンブラントの転落人生に、さらなる不運が伴ったのは、祖国オランダの情勢である。オランダは貿易面・金融面で経済成長を続けていたが、国内では商業資本重視のためマニュファクチュアの発展が遅れていた。こうした中で、オランダの経済発展が断たれる決定的な事件が起こったのである。
 イギリスが1651年に発布した航海法である。ピューリタン革命(1642-49)を実現したイギリスが、重商主義政策の一環で制定した法律で、イギリスとその植民地に輸入する貨物は、必ずイギリス船または原産地の船に限定すると決められ、これによって、中継貿易で利を得ていたオランダは入港禁止となり、国内の貿易商は打撃を被った。このためオランダは第1次英蘭戦争(イギリス-オランダ戦争。オランダ-イギリス戦争。1652-54)にふみきるが、終始イギリスが優勢、逆にオランダは戦争の影響で経済打撃が深刻化した。新大陸経営においても英蘭戦争の敗戦で1664年にイギリス領となったニューアムステルダム市は、ニューヨークと改名され、新大陸のオランダ領は瞬く間にイギリス領となっていく。アジアでは1661年、台湾のゼーランディア城塞が、鄭氏台湾(ていしたいわん)の建設を目指す鄭成功(ていせいこう。1624-62)によって攻略された。さらに英蘭戦争は第2次(1665-67)・第3次(1672-74)と行われたが、再びオランダに海上覇権がめぐってくることはなかった。イギリスやフランスはその後植民地貿易によって国益を上げていき、新たな植民地をめぐって、その獲得競争に熱を上げていくことになる。オランダはバタヴィアを拠点とするオランダ領東インド経営を残すのみとなり、一気に経済活動が低下した。これにより、オランダ国内はこれまでの盛況から一転して不況に見舞われることになった。

 不況のため、レンブラントの絵画も需要が伸びなかった。そして、1663年、サスキア亡き後、彼を支え続けてきたヘンドリッキェが当時大流行した黒死病のため病死した。24歳の息子ティトゥスは1666年、マグダレーナなる女性と結婚し、レンブラントは祝福を表して、作品「イサクとリベカ」を、2人をモデルに描き上げた。しかし、2年後の1668年、ティトゥスも黒死病に感染、病死した。悲しみに包まれたレンブラントは、1636年のいわゆる彼の黄金期に制作されたエッチング『放蕩息子の帰宅』を再度、ティトゥスに捧げるかのごとく、同じタイトルで、名作『放蕩息子の帰宅』を描いた。その後マグダレーナは女子を産み、初孫を授かったレンブラントが彼女の名付け親となった。

 レンブラントは、これまで自身の『自画像』を50枚以上描き続けてきたが、1669年、最後の自画像である『63歳の自画像』を描き上げ、10月4日、貧窮・孤独の中で、細々と暮らしてきたヘンドリッキェとの子コルネリアと、マグダレーナ親子たちに看取られながら、63歳で没し、アムステルダム西教会の共同墓地に埋葬された。

 レンブラントの作品は総数2000点以上に及ぶと言われる。聖書や神話を取り上げた宗教画、実社会とそれに生きる人々を題材に描き上げた肖像画・風景画・風俗画など多岐に渡り、また制作ジャンルにおいても油絵のみならず、エッチング(銅版画)、水彩画、デッサンなど数多い。彼が作品を発表し続けるごとに追究した描写とは、肖像画などにおける魂が宿ったような動的・写実的手法はもちろんだが、それに加わった"明暗の強調"である。色彩による明暗、そして、の中にを差し込み作られる明暗...光の当たった"明"の部分を強調すると同時に、影となった"暗"をも強調させる、立体感あるドラマティックな独創性...これがレンブラントの独特の描法であった。こうした技巧は近代油絵描法を完成させ、名実ともにレンブラントはその確立者/大成者である。事実、没後彼の作品は再評価され、特に『夜警』は彼の代名詞的作品となり、彼に対する再認識が高まり、"光と影の画家"・"魂の画家"と叫ばれたのである。活気に満ちた時代のオランダで残した多くの作品は、現在もアムステルダム国立美術館をはじめ、オランダ国内、イギリス、ドイツなどの各美術館で保存され、貧しく辛い人生であっても、ひたむきに描き続けた入魂の作品は、いまだ衰えることはない。

参考文献・資料:レンブラント 名画壁紙美術館(Stephan's Sanctuaryのコンテンツより。ただし現在残念ながらリンク切れとなっております。2018.3.31追記))


 2006年が生誕400年となるオランダ最大の画家・レンブラントをご紹介しました。彼の伝記は、高校世界史の学習などで存じていましたが、今回の研究で、あらためて彼の生涯の悲運さと孤独さを理解し、書き終えた後、余りにも悲痛で涙がこぼれました。正直申し上げて、彼の作品はこれまで『夜警』しか見たことがなく、この『夜警』が発表当時、私が想像する以上に、非常に不評だったこと、そしてこの作品が、彼の没後にその評価が認められたというのが、非常に印象的です。レンブラントの生涯は、『夜警』や『放蕩息子の帰宅』といった多くの名画によって語られており、まさに"入魂の作品"です。とくに彼の23歳から63歳まで数多く描かれた『自画像』は、40年間の自伝的内容が込められた作品だと思います。

 今回のお話は、彼のドラマティックな生涯と、彼の財産であるオリジナリティー溢れた名画を知ってもらいたくべく、いつもお世話になっている参考文献に加えて、レンブラント 名画壁紙美術館(現在リンク切れです。2018.3.31追記)も参考にさせていただきました。本編に登場する作品群はこのサイトで鑑賞できます。『夜警』も好きですが、個人的に『ガニュメデスの誘拐』『放蕩息子の帰宅』に心打たれました。実はこのサイトはレンブラントだけでなく、他の偉大な名画家の作品もたくさん鑑賞できます。美術ファンの方はお薦めしますよ。

 レンブラント自身は色覚異常、つまり色盲であったともいわれています。色覚が普通の人と異なる画家は、後にオランダに登場する後期印象派のヴィンセント=ヴァン=ゴッホ(1853-90)も有名ですが、画家の気持になって考えるとすれば、"この色はどう見えるか"というより、"この色でどう表現するか"なのですね。

 さて、今回の学習ポイントです。絶対王政期の文化は本編で解説したバロック芸術が主ですが、建築分野と絵画分野には、バロックの後に登場したロココも知っておきましょう。バロックは"ゆがんだ真珠"という意味なのですが、ロココとは"岩(=rock)"から由来し、庭園に置かれる岩の装飾をロココと呼んだことに始まるとされています。バロックの豪華さに加えて繊細さや優雅さといった装飾性を取り入れた芸術で、バロック建築がヴェルサイユ宮殿なら、ロココ建築の代表はドイツのサンスーシ宮殿(無憂宮)でしょう。プロイセンの啓蒙専制君主であり、"君主は国家第一の下僕(しもべ)"と自称した大王・フリードリヒ2世(位1740-86)の命で建造された宮殿です。ロココ絵画では、マイナーですがワトー(1684-1721。フランス)がいます。

 本編に登場したバロック音楽(ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル)、バロック絵画(ルーベンス、ファン=ダイク、エル=グレコ、ベラスケス、ムリリョ)は覚えておきましょう。また彼らの出身地、とくに絵画分野はオランダ画派やフランドル派、ヴェネツィア画派、スペイン画派で区別できるようにしておきましょう。ちなみにエル=グレコはヴェネツィア画派、ベラスケスとムリリョはスペイン画派です。そして当然今回の主役レンブラントはオランダ画派です。レンブラントの作品は『夜警』を知っておきましょう。そして、キーワードは"光"、"影"、"明暗"といったところです。本編に登場したフェルメールも、美術界の中ではメジャー級なのですが、高校世界史では登場しません。
 ちなみにバロック音楽の後、ドイツで広まった古典派音楽も、絶対王政期に流行した音楽ジャンルの1つです。交響曲の父ハイドン(1732-1809。オーストリア)やモーツァルト(1756-91。オーストリア)が該当します。モーツァルトに至っては、2006年というのは生誕250周年なのですね。レンブラントと並んで記念の年になっています。

 絶対王政期の文化は、他にも文学や哲学においても様々な進展がありましたが、これらを説明するにはもう少しスペースが必要なので、またの機会にしましょう。

 最後に、レンブラントの生涯に合わせて、オランダの情勢にも触れさせていただきました。オランダのアジアと新大陸の経営に関しては、制圧した地域を必ずおさえておいて下さい。バタヴィア市はもちろんですが、ケープ植民地、セイロン、マラッカ、台湾のゼーランディア、あと、本編には触れなかったモルッカ諸島も大事です。オランダの1600年代といえば、何と言っても日本の鎖国後における長崎貿易を独占して、蘭学を日本に広めたことです。日本史分野では常識事項ですね。新大陸は西インド会社が関わったこと(設立した1617年も重要)と、ニューネーデルラント植民地で建設されたニューアムステルダムは、後のニューヨークであることはよく出題されますので覚えておきましょう。植民地経営関連もまた、近いうちにご紹介したいと思います。