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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第62話


スエズ運河~緊張と対立~

 フランス・ヴェルサイユに生まれたフェルディナンド=マリー=レセップス(1805-94)は、親に引き続いて自身も外交官となり、アフリカやポルトガルで領事として任務に就いていた。1932年頃から、地中海紅海を結ぶ運河をスエズ地峡に開削する計画を練っていたレセップスは、着工の機会をうかがいながら、駐スペイン大使(任1848-49)、駐ローマ大使(任1849)を務め、同1849年に退職した。

 スエズ地峡での船舶はすれちがいが困難で、途中にある湖で待機する面倒があり、通行に3日かかったという。しかし運河が開通すると、ヨーロッパからアジアへ渡る航路は、これまでのインド航路(アフリカ大陸の喜望峰を通る)より40%も短縮される。

 大使勇退の後、レセップスは本格的に運河開削企画を立ち上げ、エジプト太守(総督)の認可を受けて、資本金2億フラン(40万株)で万国スエズ運河株式会社(「国際運河会社」)を設立(1858)、フランス政府が20万株、エジプト政府が17万株(44%)を取得した。翌年、フランスとエジプトの共同作業によって、運河の着工にとりかかり、大量のエジプト人を雇用して工事が行われた。工事が始まってからは、フランスのライバル国イギリスの妨害や、労働者の疫病感染などもあって苦しんだ時期もあり、結局10年の歳月を要したが、1869年、遂に全長167km、当時の深さ8m、水面幅60~100mの大運河が完工、スエズ運河(Suez Canal)と名付けられ、フランスとエジプトの共同保有となった。スエズ運河の完成によって、ヨーロッパ~アジア間の交通は成長し、これにより、エジプトの重要性は高まっていった。一方で、フランスの英雄となったレセップスはその後パナマ運河に関する開削事業も立ち上げたが(1879)、技術難、資金難、挙げ句の果てには疑獄事件に発展して、計画は実らずじまいとなり、1894年に没した。

 工事の期間中である1861年、アメリカで南北戦争が勃発、アメリカ綿花にかわって、エジプト綿花の需要が急激に高まった。外国投資家はエジプトに集中してスエズ運河だけでなく、工場や鉄道の建設も大規模に進められたが、これらの投資は、エジプト側の外債として残り、エジプトは徐々に財政難となっていった。フランスは当時ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン。位1852-70)の第二帝政だったが、イタリア統一への介入(1859)、メキシコ遠征失敗(1861-67)、さらにはビスマルク(1815-98。首相任1862-90)のいるプロイセンとの戦争(普仏戦争。1870-71)の敗北と、ドイツ帝国(1871-1918)を実現させたビスマルク・ドイツのフランス孤立作戦(ビスマルク外交)によって政情不安定であった。

 こうした情勢の中、スエズ運河に狙いを定めたのがイギリスであった。元来"光栄ある孤立(Splendid Isolation)"を保ち続け、国内の工業力と海軍を中心とする兵力、さらにインドやカナダ、オーストラリアなど管理支配地を蓄えていたイギリスは、1874年保守党ディズレーリ(1804-81)が首相(任1868,74-80)に再就任してから徐々に帝国主義政策へと転換し、翌1875年、外債償還に苦しむエジプトの財政難に乗じて、エジプト太守イスマーイール(位1863-79)に迫った。株式保有をあきらめたイスマーイール政府は遂にスエズ運河のエジプトの持株44%をイギリスに売却した。
 エジプトはその後動揺が走った。イギリスからの干渉に反対した陸相アフマド=アラービー(アラービー=パシャ。1839/41-1911)は、1881年9月、"エジプト人のエジプト"をスローガンに反英軍事行動を起こしたが(アラービー=パシャの反乱1881-82)、同月イギリスに鎮圧され、スエズ運河地帯を軍事占領し、アラービーはスリランカへ流刑となった。そして1882年、エジプトは事実上、イギリスの支配下に入った(エジプトの保護国化)。その後イギリスのエジプト支配に対し、ムスタファ=カーミル(1874-1908)が指導する反英組織ワタン党(国民党)の創設など、独立運動が国内各地で頻発した。
 スエズ運河株買収に成功したイギリスは、これ以降アフリカ縦断に乗り込み、南アフリカのケープタウンCapetown)、エジプトのカイロCairo)、インドのカルカッタ(Calcutta)と結ぶ広大な世界3C政策を展開していった。1914年6月に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはエジプトに対して、オスマン帝国の宗主権を否認し、同1914年12月エジプトを完全保護国化した。これにより、エジプトの反英闘争はさらに強まった。
 終戦後の1918年、エジプトは独立を求めて翌1919年パリ講和会議に、エジプトの民衆により結成されたワフド(Wafd。アラビア語で"代表"の意)の代表団を派遣しようとする運動が起こった。"エジプト人のエジプト"をスローガンに、ワフドはリーダーであるサード=ザグルール(1857-1927)が中心となって活動していたが、サードが同年3月に逮捕され、カイロを中心に反英運動は過激さを増した。これにより、1922年、イギリスは保護権を放棄して、条件付きで独立を承認(エジプト王国。1922-52)、1924年にはワフドを中心とする民族主義政党としてワフド党が結成された。ワフド党は完全独立を目指し、1936年イギリス=エジプト同盟条約締結にまでたどり着き、エジプトの主権が回復した。しかし、スーダンの統治権、スエズ運河地帯の駐兵権は残ったため、第二次世界大戦(1939-45)においてもエジプトはイギリスの軍事基地となり、政局は現実的にイギリスが介入するなど、完全回復には至らず、形式的な独立として不満は消え失せなかった。

 しかしワフド党は王政を守るため、第二次大戦ではイギリスと協力する姿勢を見せ始めた。大戦後も宮廷の腐敗、議会の形骸化も露呈し、政情は不安定になるばかりであった。この情勢で1945年3月、エジプトはアラブ諸国家を集めてアラブ諸国連盟を設立して、1948年に建国したばかりのユダヤ人国家イスラエル(共和国)と戦争するも(第1次中東戦争パレスチナ戦争)、連盟の不協和音やエジプト国王の腐敗など満足には戦えず、実質的には敗北した。この結果、敗戦の原因は王室の腐敗にあるとし、パレスチナ戦争に従軍した一部の青年将校の反英秘密組織が立ち上がった。これが自由将校団である。ナギブ団長(1901-84)によるクーデタは1952年進められ、7月、当時のエジプト国王ファールーク(ファルーク1世。位1936-52)をイタリアに亡命させ(七月革命)、幼少の皇太子アフマド=フワード2世(位1952-53)を即位させ、ナギブは首相に就任、翌1953年6月にはアフマド=フワード2世を退位させて王政を廃止し(エジプト共和国)、ナギブが初代大統領に就任し(任1953-54)、ワフド党も解散させられた。

 このナギブによる一連のエジプト革命によって事実上の植民地状態から脱出したエジプトだったが、実はナギブは実質の革命首謀者ではなかった。陰の黒幕はナセルという人物で(1918-70)、自由将校団はナセルがエジプト王国の腐敗政治除去を目指して、密かに結成したものであった(1949)。ナギブを団長に選んだのも、ナギブを大統領に選んだのも、すべてナセルの主導によるものであった。ナセルはナギブと共鳴して革命を成功させたが、ナギブはその後自由主義化して革命終結の立場を取り始めたため、さらなる革命の徹底化を主張するナセルとの対立を深めた。結局、ナギブは翌1954年、ナセル暗殺を謀ったとして失脚させられ、ナセルは首相に就任(任1954-56)、同年スエズ運河地帯のイギリス軍を撤退させることに成功し(スエズ運河地帯駐兵権完全廃止)、1955年にはインドネシアのバンドンで開催されたアジア=アフリカ会議(AA会議。バンドン会議)にも米ソ東西両陣営に属さない非同盟主義国として出席した。中東では反共軍事同盟であるバグダード条約機構(中東条約機構。METO)が結成されたが(1955)、ナセル・エジプトはこれには加盟せず、METOに加盟していたイギリスとの関係が悪化した。さらにナセルは、当時の東欧社会主義国チェコスロヴァキアとの接近で東側寄り姿勢とみなされ、今度はアメリカとの関係も悪化した。

 翌1956年、ナセルは国民投票で大統領に就任した(任1956-70)。実は1954年に、ナセル・エジプト最大の国家プロジェクトであるアスワン=ハイダム(上エジプト。シャルキーヤ砂漠西部)の建設を決め、イギリス・アメリカからの融資を約束していた。しかし、前述55年におこった英米との対立によって融資約束は撤回され、IBRD(国際復興開発銀行。世界銀行)からも出資停止が下り、ダム建設の必要資金が調達できなくなった。この処置に激怒したナセルは、イギリスからの手がゆるめられたスエズ運河に着目し、ダム建設費援助をソ連に承諾、1956年7月、ナセルはスエズ運河会社の国有化を宣言し、全世界が驚倒した。

 スエズ国有化によって、1億ドルにも及ぶ運河収入がエジプト財政の潤いとなり、通航も、さらには通航商品であるアラブ原油の供給能力も抑えられてしまうため、イギリスやフランスなどの西欧圏やイスラエルは、いっきに不安が集中した。英仏は運河の無料通航を要求してエジプト侵攻を決意、この危機に対処して開かれた国連安保理事会は英仏の拒否権で機能しなかった。同1956年10月29日、イスラエルはナセル打倒にむけて、エジプトに軍事侵攻し、これに続いてイギリス・フランス両軍がスエズ地区に出兵した(第2次中東戦争スエズ戦争スエズ動乱1956-57)。このため、11月1日の国連緊急総会はスエズ運河国有化の正当化と、即時停戦を決議し、英仏のエジプト侵攻を非難、ソ連はエジプト支援と英仏へのミサイル攻撃警告を発した。国際世論に圧した英仏とイスラエルは遂に侵攻を断念、1957年3月までに撤退した。ナセル・エジプトを代表とするアラブ民族主義の大勝利であった。これによりスエズ運河国有化は完成し、スエズ運河はエジプトのもとで運営されることが決まった。アラブ民族主義のリーダーとして名声をあげたナセルは、大企業の国有化や計画経済など、社会主義政策を推進してますますソ連に近づく姿勢を強めていった。

 ナセルのエジプト社会主義化は、イスラエルにとっては脅威的であった。1967年6月、イスラエルは電撃戦を試みてエジプト、シリアを攻撃し、6日間で勝利に導いた(第3次中東戦争。6日間戦争)。この敗戦でスエズ運河東岸のシナイ半島をイスラエルに占領され、ナセルの威信は失墜し、ナセル自身も大統領辞任を申し出たが認められず、アスワン=ハイダムが完成して3ヶ月後の1970年9月、心臓発作のため急死した。
 この戦争でスエズ運河は、軍艦の沈没がもとで通航できなくなり、閉鎖状態になった。その後イスラエルとエジプト・シリアらアラブ側とは1973年10月に再び戦闘を始め(第4次中東戦争。10日間戦争。国連軍の派遣で休戦)、スエズ運河は閉ざされたままであった。1975年6月、軍艦が取り除かれ、ようやく通航が再開されたのである。

 1869年の開通以来、政略的、商業的、そして軍事的に利用され、緊張感に包まれてきた海上交通の要路は、現在では穏やかに営まれ、また運河北口のポートサイド市(地中海側)は人口49万2千人(1998統計)、運河南口のスエズ市(スエズ湾・紅海側)も人口43万7千人(1998統計)を誇り、両都市は重要港湾都市として繁栄している。


 日本の建設業社がスエズ運河の拡幅工事を手がけるなど、私たち日本においても関わりの深いスエズ運河が、今回の学習テーマです。運河の成り立ちや用途そのものより、それを取り巻く国々の緊張・対立を、軍事面・経済面・政治面と様々な角度でご紹介いたしました。2つの大戦が中心となる帝国主義時代と、大戦後の冷戦時代に大きく分かれますが、やはり中心はエジプトでしょう。エジプト最後の王朝であるムハンマド=アリー朝時代(1811-1952)、共和国になった以降もまた、スエズ運河を舞台に歴史はめまぐるしく変わります。

 さて、学習ポイントです。まず、時代によってスエズ運河の支配国が変わるのは本編の内容のとおりなのですが、整理すると、開通した1869年はフランスとエジプトの共同支配(レセップスはフランス人です)、1875年に株式売却によってイギリスの手に渡り、1956年エジプトの国有化宣言によって、エジプトの手に帰した、といった具合です。

 本編でイギリスの3C政策が出てきましたが、これに対してドイツの3B政策も知っておきましょう。3Bとは、ベルリン・イスタンブル(古名"ビザンティウム")・バグダードの3都市です。

 そして、エジプト革命。革命政権ができてからの大統領の名前は全員知っておく必要があります。でもナギブ→ナセル→サダト(任1970-81)→ムバラク(任1981-2011。※2011年追記)の4人だけですので、大丈夫ですね。余裕があるなら革命が起きた時追放された国王ファールークも知っておくと便利です。

 最後に4つの中東戦争ですが、今回の大目玉です。実は近いうちに(できればVol.70に到達するまでに)、パレスチナやイスラエルの歴史と合わせて、中東戦争も紹介しようかと思っています。ですので、今回は箇条書きで対戦国のみ、列挙させていただきます。

  1. 第一次中東戦争(1948):パレスチナ戦争。アラブ諸国(エジプト・シリアイラクなど)vsイスラエル(1948建国。ユダヤ人の国)
  2. 第二次中東戦争(1956):スエズ戦争。エジプトvsイスラエル・イギリス・フランス
  3. 第三次中東戦争(1967):アラブ諸国(エジプト・シリアなど)vsイスラエル
  4. 第四次中東戦争(1973):アラブ諸国(エジプト・シリアなど)vsイスラエル

 予備校時代、上記4つの年号の下一ケタをとって、「ハロー、ナミダのパレスチナ」という覚え方を教わりました。なお、第四次中東戦争の結果、アメリカの仲介でエジプトとイスラエルとの間に平和条約が調印され、他のアラブ諸国やパレスチナ解放機構(PLO。議長はアラファト。1929-2004)はエジプトを厳しく非難、断交にまで発展していきました。またアラブの産油国がイスラエル支持国に対して原油の輸出制限と原油価格引上げを実施する、いわゆる石油戦略をふみきったことで、1973年、当時高度経済成長を続けていたわが国・日本も石油危機にみまわれたのであります。