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世界史の目

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ギャラリー

第128話


(チュン)姉妹の反乱

 中国戦国時代(B.C.403-B.C.221)から後漢時代(ごかん。AD25-220)にかけて、その文化的影響を受けていたベトナム北部紅河流域。青銅器・鉄器をおこし、中国文化を積極的に導入し、土着の文化と融合させて、独自の文化を築いてきた。特に青銅器が発達していた紀元前の文化は、儀式用の銅鼓(どうこ。青銅製の片面の太鼓)など大量の埋葬品が出土された墓地がある村の名をとり、ドンソン文化と呼ばれた(東山文化。B.C.4C?~A.D.1C)。ドンソン村はタインホア省(西にラオス、東にトンキン湾に接した省。清化省)にあり、銅鼓はドンソン式(ヘーゲルⅠ式)と呼ばれる。もともと銅鼓は紀元前5世紀に雲南で最初に製造され、交易を通じて東南アジア各地に輸出された。

 文化を誇っていても、多種民族のベトナムでは完全に独立した民族王朝は当時出現せず、中国では、江南地方やベトナム全域をまとめて"百越(ひゃくえつ)"と呼んでいた。伝説上では、紀元前3世紀半ばまでヴァンラン国(文郎国)、その後アン・ズオン王(安陽王。位?-B.C.208?)が建設したアウラク国(甌雒国。B.C.257?~B.C.207?)などといった現在のキン族(狭義のベトナム人。ベト族)の祖先民族が創始した国家があったとされているが、現在確認されている最古のベトナムは中国・王朝(しん。?-B.C.206)の時代に南海郡(3~4郡。B.C.214設置。中心は現在の広東省)が置かれた時代からである。南海郡はその後南越国(なんえつ。B.C.203-B.C.111)に呑まれたが、南越も前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の冊封体制(さくほう。中国と封建的関係を結ぶ)に組み込まれていった。武帝(ぶてい。位B.C.156-B.C.87)の時代になると、前漢は高圧外政をとり、南越を攻撃してこれを滅ぼし、再び南海郡(9郡)を置いた(B.C.111)。

 9郡の1つである交趾郡(こうしぐん)は、実際は唐代(。とう。618-907)まで郡の機能が続いた。19世紀にフランスが事実上占領する同地域を"コーチシナ(英語 cochin china)"と呼んだのは、この交趾郡の言葉が由来である(狭義では、フランスが占領したのはコーチシナ南部、つまり下コーチシナであり、その後その地方だけがコーチシナと呼ばれるようになる)。その交趾では、中華王朝の厳格な支配体制によって、重税と重労役が強いられ、郡民は苦悩の日々が続いていた。

 後漢(ごかん。AD25-220。首都:洛陽)、光武帝(こうぶてい。位25-57。劉秀。りゅうしゅう)の時代になると、統一策はますます強化され、支配下地域においてはさらに高い圧力がかかり、搾取には過激さが増した。そして紀元後40年(39年?)、後漢王朝の圧力に対抗しようと、遂に一人の青年が立ち上がった。詩索(しさく。詩策?。ティ=サック。?-39?/40?)という人物である。ハノイ郊外にあるミーリン(麋泠。麊泠。びれい)の豪族出身の彼は、後漢王朝の体制に不満と抵抗を示し、交趾の太守に諫書を送った。交趾郡の太守は貪欲に郡民を圧して搾取していたため、詩索の行為を反逆と判断、彼を捕らえ、処刑した。

 詩索の処刑は、郡民に大きな動揺を与えた。それは、反漢精神と光武帝政権打倒への覚醒、そしてベトナムにおける民族解放運動へ発展していくことになる。中心となったのは、当時26歳(?)の女性で、詩索の妻であった、徴側チュン=チャック。14?-43)で、妹の徴弐チュン=ニ。?-43)とともに民族解放運動を引っ張っていった。40年、戦象と同志を集めて挙兵した徴姉妹の軍は交趾郡にとどまらず、彼女らに呼応した民が各地で挙兵、9郡に組み込まれている日南郡(にちなん。じつなん)や九真郡(きゅうしん)といった近隣の郡まで広がる大反乱となっていった(徴姉妹の反乱)。徴姉妹は戦象を使って一瞬に65の城を攻め落とし、ついに夫・詩索を死に追いやった交趾郡太守を郡から追放した。
 こうして、中国勢力を締め出して民族解放を達成した徴姉妹は、徴側を王(徴王)として新政権を立ち上げ(徴氏政権。徴王朝。40-42)、ミーリンに首都を定めて統一体制を組織していった。ベトナムにおける中華王朝からの独立達成の瞬間であった。

 この事態は洛陽の中央政府にすぐ伝わり、41年、光武帝は信頼ある名将・馬援(ばえん。B.C.14-A.D.49)を伏波将軍(ふくは。雑号将軍の1つ。雑号将軍とは将軍号の総称)に任じ、副将の劉隆(りゅうりゅう。?-57)とともに全力で徴姉妹を討伐するよう命じた。馬援と劉隆は2万とも3万とも言われる大軍を率いて交趾へ向かった。
 馬援の軍隊は、水陸両面から進軍した。当初は電撃戦法で、瞬時に片をつけようとしていたが、交趾の山川などの地理的環境や、熱帯に属する気候の不慣れから、衛生面で兵士が病死するなど問題を来し、また徴軍側も徹底的に抗戦し、戦況は長期戦の構えを見せ始めていた。

 42年、徴姉妹の軍は遂に交趾郡の奥地にある浪泊(ろうはく。広東省か?)で、漢軍と衝突した。ここでも我慢の抗戦を展開した徴軍だったが、勢いを盛り返した馬援の軍は悉く徴姉妹の軍を玉砕、千余の首をはね、一万人が投降した。そして遂に彼女らの本陣も崩され、姉妹は山中へ逃亡、首都ミーリンも陥落した。
 翌43年2月6日、徴姉妹は馬援の軍に捕らえられ、斬殺された(あるいは入水自殺したとも伝えられている)。2人の首は後漢王朝の首都洛陽に届けられた。馬援は徹底して抵抗する徴姉妹の残党を殲滅、徴氏派を完全に根絶させた。強力な反漢政権を理想とした徴姉妹の王国は、2年あまりで終焉となった。その後、再び後漢王朝の支配下となった。

 ベトナム語では徴姉妹のことを"ハイ=バー=チュン"と呼ぶ。"ハイ"は「2」、"バー"は「婦人」をそれぞれ意味する。徴姉妹の功績はベトナム人に国民的英雄として語り継がれていった。その後ベトナムでは呉王朝(ゴー。938-966)のとき、衰退期だった中国・王朝(618-907)から独立を果たし、次の丁朝大瞿越国(ディン。だいくえつこく。966-979。)では事実上、初の統一独立国家となった。そして、前黎王朝(ぜんレー。979-1010)を経て、1009年、初の安定した長期統一国家である李朝大越国(リー。だいえつこく。1009-1225)が前黎の部将李公蘊(リー・コン・ウアン。位1009-28)によって創始された(首都はハノイ。当時は昇竜と呼んだ。タンロン)。そして李朝時代、徴姉妹を祀った寺院、ハイ=バー=チュン寺がハノイ南部に建立され、かつて中華人民共和国の初代首相・周恩来(しゅうおんらい。1898-1976。任1949-76)も参拝するなど尊敬の念は止まない。現在においても彼女達の命日となる2月6日には盛大な祭りがハノイで行われ、ハノイだけでなくホー=チ=ミン市にハイ=バー=チュン通りなる大通りがその名を残すなど、現在においても彼女達はベトナム国民の記憶に留められているのである。


 後世において"ベトナムのジャンヌ=ダルク"と呼ばれたチュン=チャック・チュン=ニ姉妹の活躍を中心にご紹介しました。ベトナム史はvol.34「インドシナ」の学習ポイントの項でも紹介しましたが、そこでは主に李朝大越国以降が中心で、本編では統一前のベトナムが中心です。

 徴姉妹は私が浪人中にはじめてその名を目にしました。当時は手元に確実な資料があまりなかったため、人名辞典などの情報のみでしたが、この頃からずっと気になっていました。そして今回、この場でようやくご紹介することができたわけです。受験世界史ではマイナー系なので彼女らの伝記に関して出題されることはまれですが、時代背景はよく知っておく必要があります。

 では、学習ポイントに参りましょう。今回の中心地はベトナム北部です(ベトナム中部から南部にかけては、2世紀末以降、チャム人の王国チャンパーがおこります。これも重要)。中国の戦国時代から後漢時代にかけてベトナムでおこったドンソン文化でベトナム史の幕が開きます。銅鼓が1つのキーワードとなります。ベトナム人はモン人クメール人らと同様、南アジア語系に属します(本編でのキン族という呼び方では出題されることはありません)。

 中国の秦・始皇帝時代南海郡が置かれ、途中南越によって占領され、また前漢王朝(武帝時代)に再度南海9郡が置かれます。漢時代の南海9郡は南海郡・交趾郡・日南郡が有名で、今回の舞台は交趾郡です。ハノイに置かれたのが交趾郡で、"コーチシナ"の語源です。ちなみに日南郡はユエ(フエ)に置かれた最南の郡です。ローマ帝国皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス(位161-180)だとされている大秦国王安敦(たいしんこくおうあんとん)の使者が訪れた地で有名です。

 中国では後漢の時代、冊封体制が本格化します。光武帝が倭(日本)と君臣関係を結ぶ時、奴国へ漢委奴国王印(いわゆる金印)を授けたことは誠に有名ですが、中国はこの体制から朝貢を発展させて中国の皇帝の権威、また中央集権強化をおおいに高めることになります。冊封体制は用語集の頻度数は高い数字なので注意が必要。

 さて、ようやく徴姉妹が登場しますが、用語集の頻度数は1で、寂しいながら実にマイナー系です。"徴姉妹"、"チュン姉妹"、"ハイ=バー=チュン"、"チュン=チャックとチュン=ニ"、"徴側と徴弐"といったいろいろな表記で参考書などに登場します。後漢光武帝にたてついたベトナムの姉妹というぐらいで覚えておけばいいでしょう。40年代であることも知っておきましょう。

 の後はベトナムでは独立統一国家建設にむけて中国からの独立をタイミング見計らって計画していきます。俗に独立王朝時代の幕開けを告げるのは、大瞿越国をつくった丁朝です。入試では全く出ませんが、大瞿越国は旧課程には登場していました。ちなみに、これをつくった丁部領(924-979。ていぶりょう。ディン=ボ=リン)は、父がかわうそで、人間である母親とのハーフであるという珍伝説があります。

 大瞿越国のあと、ベトナムにおいて初の長期安定国家として誕生したのは大越国で、王朝は李→陳(チン。チャン。1225-1400)→黎(レー。1428-1527)→分裂期→西山朝(タイソン。1786-1802)とつづきます。そして次に、阮朝(グェン。1802-1945)の越南国が登場しますが、この間フランスに占領され、フランス領インドシナの一部として形成されていきます。ここでは李・陳・黎・阮の4王朝の順番を"りちんれいげん♪"とリズム良く覚えてしまいましょう(細かいところでは、難関私大に登場する西山朝もホントは覚える必要はあるのですがね)。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。ミーリン(麋泠。麊泠。びれい)→"び"は麋の鹿と米が逆さま。"れい"はさんずいに"令"。