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世界史の目

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ギャラリー

第199話


東ローマ帝国・後編

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 東ローマ帝国ビザンツ帝国。395-1453)はイサウリア朝(717-802。シリア朝)の治世に入った。開祖はレオン3世(レオーン3世。位717-741)である。レオン3世は侵入してくるウマイヤ朝(661-750)の軍を一掃して首都コンスタンティノープル現イスタンブール)を守った。対外的に優勢となった帝国は、その後国力を回復していった。

 レオン3世は726年聖像禁止令を発してイコノクラスムといわれる聖像破壊を推進し、730年には皇帝教皇主義(カエサロパピズム)の立場からコンスタンティノープル総主教(コンスタンティノープル教会の最高位)のゲルマノス1世(位715-730)を罷免した。コンスタンティノープル教会はキリスト教五大本山(総大司教座教会。五本山。他にローマ、アンティオキア、アレクサンドリア、イェルサレム)の1つで、教会最高位である教皇(法王)をたてるローマ教会と首位性を主張し合っていた。
 西ローマ帝国(395-476)の滅亡時(476)、コンスタンティノープル教会の最高位である総主教はこれまで以上に首位性を主張し、両教会は強く対立した。こうした中、聖像崇拝論争が持ち上がり、異教徒への布教の手段として聖像崇拝を容認するローマ教会に対し、コンスタンティノープル教会のある東ローマ帝国では、皇帝の障害となっていた、聖像崇拝容認派の修道院勢力を抑える必要があったのである。聖像禁止令はこのような経緯によるものであった。しかし結果的には安定せず、聖像崇拝論争はその後も続き、ローマ教会では教皇レオ3世(位795-816)がフランク国王カール1世(王位768-814)に戴冠して西ローマ帝国を復興させ(カールの戴冠800カール大帝。帝位800-814)、東ローマ帝国を後ろ盾するコンスタンティノープル総主教に対抗した。東西のローマ帝国はこうした経緯によって、統一の機会は完全に失われたのである。
 聖像崇拝論争は843年に聖像崇拝が正統と認められて終わり、その後キリスト教界は1054年、ローマ教会のローマ=カトリックと、東ローマ帝国管理下のコンスタンティノープル教会のギリシア正教会(東方正教会)とにそれぞれ互いに破門しあって分裂した。東ローマ帝国は、西欧よりも東方での権威を確立するため、皇帝教皇主義の立場からスラヴ人への布教活動を行い、その結果、9世紀にブルガリア第一次ブルガリア帝国。681-1018。870年ボリス1世の時。王位852-889)やセルビアはギリシア正教に改宗していった。

 東ローマ帝国ではイサウリア朝が802年に断絶、アモリア朝(820-867)を経て、アドリアノープル(現在はトルコのエディルネ市)の貧民層からでたバシレイオス(812/827-886)が創始したマケドニア朝(867-1057)の治世を迎えた。バシレイオスはアモリア朝時代にコンスタンティノープルに入って宮廷の馬丁となった。その後宮廷の護衛を務めるようになり、アモリア朝皇帝ミカエル3世(位842-867)に認められて皇帝側近となった。やがて皇帝との対立を生んだバシレイオスは867年、ミカエル3世を暗殺してアモリア朝を終わらせ、貧民から皇帝まで昇り詰めた皇帝バシレイオス1世(位867-886)としてマケドニア朝を創始したのであった。マケドニア朝においては政治・経済・軍事・社会・文化の全分野で発展して国力が安定し、版図も拡大、東ローマ帝国の絶頂期を現出した。盛時は9代目バシレイオス2世(位976-1025)の時で、ブルガリア政策に徹底し、1014年にはクレディオン峠での戦役で圧勝、捕虜となったブルガリア人総勢1万4千は両眼あるいは片眼を潰された。送還の際、1万4千のブルガリア人捕虜が盲人の姿でぞろぞろと帰還する光景を見たブルガリアのサムイル帝(位997-1014)は事態に驚き、発作を起こして死去したという。結局バシレイオス2世は1018年に第一次ブルガリア帝国を軍管区制(テマ制。セマ制)に従い、テマ=ブルガリアとして組み込んだ(第一次ブルガリア帝国滅亡1018)。これによりバルカン半島は帝国の手に戻り安定したが、一方でバシレイオス2世は"ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)"と渾名された。

 988年、バシレイオス2世はロシアのキエフ大公国(882?-1240)に接近して妹アンナ(963–1011)をキエフ公国の大公ウラディミル1世(聖公ウラジーミル1世。大公位978/980?-1015)と結婚させた。これを機にウラディミル1世はギリシア正教に改宗してキエフの国教とした(988?/989?。ウラディミルの改宗キエフ公国のギリシア正教国教化)。これによりキエフの教会はコンスタンティノープル総主教の配下となり、ロシアやウクライナ両地方のギリシア正教の信仰が広がり、東方教会の勢力が増した。

 1025年のバシレイオス2世没後のマケドニア朝では皇帝権が安定せず、宮廷でも内紛が絶えなかった。さらに1054年における東西教会分裂後の東ローマ帝国は西欧との関係も急激に悪化した。東欧でもブルガリアなどの軍管区(テマ)に組み込まれた被征服勢力が反乱を起こし、外敵の侵入も加わって大混乱となった。こうした情勢であるために軍管区制度は崩壊し、軍事は傭兵制を導入したため、テマは単なる行政単位となって軍司令官(ストラテゴス)も文官が任命されるなど地位の低下は避けられなかった。帝国領であった南イタリアもノルマン人に征服されるなど東地中海における危機も続発した。

 マケドニア朝は1057年に血統が断絶し、ドゥーカス朝(1059-81)が始まった。この治世からセルジューク朝(1038-1194)の侵入が目立ち、特に同王朝スルタンのアルプ=アルスラーン(名前はテュルク語で"勇猛な獅子"の意。位1064-72)は積極的に東ローマ帝国を侵攻した。1071年の小アジア東部のマンジケルト(マラズギルト。マンツィケルト)での戦役で当時ドゥーカス朝の皇帝ロマノス4世(位1068-71。ロマノス=ディオゲネス)は捕らえられ目を潰された(マンジケルトの戦い1071)。東ローマ帝国の敗戦によって小アジア(アナトリア)はトルコ人に占領されてしまった。

 1081年にドゥーカス家がクーデタで倒れ、ドゥーカス朝と同じく軍事貴族のコムネノス朝が始まった(1081-1185)。初代皇帝アレクシオス1世(位1081-1118)の治世では、軍管区制を中心としていた中央集権国家体制から、貴族の軍事奉仕を条件に土地およびその管理権を分与させる(ただし譲渡や相続は不可能)制度を採り入れた。東ローマ帝国における封建制度の導入である。これをプロノイア(プロニャ)という。プロノイア制の導入で軍事貴族の連合体制が整い、帝国は幾分安定した。しかしセルジューク朝からの圧迫は依然として続いた。ちなみにセルジューク朝では地方分権化しており、占領した小アジアではニカイア(ニケーア。現イズニク)を首都にルーム=セルジューク朝(1077-1308)がおこされた。

 コムネノス朝では帝国再興にむけて、前のドゥーカス家と手を結び連合体制をとった。軍隊を再建するため、かつての東ローマ帝国の自治領であり、その後独立した海洋国家ヴェネツィア共和国(697-1797。別称"アドリア海の女王")と提携して海軍拡張に努め、海の防衛を徹底的に行った。これにより、まず南イタリアを占領したノルマン人撃退に成功した。そして今度は各地の地方政権を従えたセルジューク朝対策にむけて、アレクシオス1世は大きな決断を行った。西欧のキリスト教世界を支配しているローマ教皇ウルバヌス2世(位1088-99)に向けて西欧の援軍要請を中心とした内容の書簡を送ったのである。結果的にこれがイェルサレム奪還に向けた第1回十字軍(1096-99)としてあらわれ、ニカイアは第1回十字軍により取り戻された(1097。これによりルーム=セルジューク朝はイコニオンに遷都。イコニオンは現コンヤ)。アレクシオス1世の兵力拡張策は功を奏し、領土も幾分は回復した。

 しかし12世紀になると、ブルガリア(第二次ブルガリア帝国。1185/6-1396)やセルビア(ネマニッチ朝。1171-1371)が独立するなど、コムネノス朝の失政が続き、同王朝はやがて滅亡(1185)、コムネノス家の遠縁にあたるアンゲロス家が引き継いだ(アンゲロス朝。1185-1204)。しかし初代皇帝となったイサアキオス2(イサキオス2世。位1185-95,1203)の行政力も無能で、実弟のアレクシオス3世(1156-1211)は兄イサアキオス2世を廃位して即位し(位1195-1203)、兄とその子(1182-1204。のちのアレクシオス4世)を幽閉した(子のアレクシオス4世はその後釈放された。この時アレクシオス3世は兄イサアキオスの両眼を失明させている)。しかしアレクシオス3世も兄同様に統治がひどく、ヴェネツィア共和国との外交関係を悪化させて首都コンスタンティノープルとは商業的にも外交的にも敵対した。これに乗じて第4回十字軍(1202-04)がヴェネツィア共和国、さらには十字軍に担がれたアレクシオス4世(叔父アレクシオス3世の廃位と父イサアキオス2世の復位を条件に、十字軍に協力)を従えてコンスタンティノープルに入った。結果、アレクシオス3世はルーム=セルジューク朝に亡命、1203年、イサアキオス2世の復位とアレクシオス4世(位1203-04)の父子による共同統治となった(父は盲目のため共同統治となった)。
 しかし父帝はもともと盛時に無能な皇帝であったことで、帝国の政情不安定は変わらず、両皇帝は亡命したアレクシオス3世の娘婿アレクシオス5世(?-1204)によって殺害され、そのアレクシオス5世も即位したものの(位1204)、十字軍を冷遇したために彼らに殺され、コンスタンティノープルの手に落ちたも同然であった。1204年、アンゲロス家はアレクシオス5世廃位後にラスカリス家(アレクシオス3世の娘の嫁ぎ先)からコンスタンティノス=ラスカリス(?-1211?)を即位させたが(位1204)、直後に十字軍が同家を追放させ、首都コンスタンティノープルを占領、ラテン帝国を建国した(1204-61)。これにより東ローマ帝国はいったん消滅した。

 首都を落とされたラスカリス家は小アジアのニカイアに落ち延び、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国ラスカリス朝をおこした(1205-61)。亡命政権は他にもトレビゾンド(現トラブゾン)やエピロス(バルカン半島南西部)でもおこされた。ラスカリス朝は4代続いたが、8歳で即位した4代目ヨハネス4世(位1258-61)の時、ジェノヴァの協力を得た皇帝の摂政ミカエル=パラエオロゴス(1225-82)がラテン帝国の弱体化に乗じてコンスタンティノープル奪回に成功(1261)、ラテン帝国は滅び、57年ぶりにコンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国が復活した(1261。東ローマ帝国再建)。この際、11歳のヨハネス4世は首都奪回の功労者である摂政ミカエル=パラエオロゴスに目を潰され、廃位・幽閉され、ニカイア帝国ラスカリス朝の統治は終わった。ミカエルはパラエオロゴス朝をおこし(パレオロゴス朝。1261-1453)、初代皇帝ミカエル8世(ミハイル8世。位1261-82)として即位した。

 ミカエルは東ローマ帝国の版図拡大に奮闘し、また外交では1282年、当時フランスのアンジュー伯に支配されたシチリアに対して、シチリアの反仏運動、いわゆる"シチリアの晩鐘事件"を煽動した人物として知られる(しかしながら、事件勃発後にミカエル8世は病没している)。
 パラエオロゴス朝は東ローマ帝国のみならずローマ帝国史における最長期王朝としてその名を残したが、しかしその威力に昔日の面影は既になく、宮廷内での内乱の発生と共に国力を弱らせ、小アジア西北部から新しく誕生したオスマン帝国(1281-1922。当時の首都はアドリアノープル)の進出によってローマの領土は次第に縮小していった。かつて東ローマ帝国が服属させたセルビアやブルガリアが次々とオスマン帝国に呑み込まれていき、西欧勢力もニコポリスの戦い(1396)で敗退するなど、歴史的にこれまで見たことのない強国の出現であった。

 そして1453年、オスマン帝国第7代スルタン、メフメト2世(位1444-45,45-46,51-81)の率いるオスマン軍が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへの侵攻を開始、ついに首都陥落となり、パラエオロゴス朝最後の東ローマ皇帝コンスタンティノス11世(12世、もしくは13世とする見方も。位1449-53)の陣没と共にパラエオロゴス朝は断絶、そして1000年もの間、東方世界の覇者として君臨した東ローマ帝国は滅亡し、B.C.27年のアウグストゥス(位B.C.27-A.D.14)から始まった帝政ローマは1453年でもって姿を消した。

 ローマの都として栄えたコンスタンティノープルも長い歴史にピリオドがうたれ、イスタンブルとしてオスマン帝国の新しい首都となるのであった。


 とうとう199話目まで来ました。大台突入を前に、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)1000年の歴史を2編に分けてご説明いたしました。どの時代も東ローマ帝国は重要ですが、後半も非常に大事な事項が多く登場しましたね。実は1453年という大事な年、この年を中心としたお話は現在作成中で、また別の機会にでもご紹介したいと思います。これがオスマン視点か東ローマ視点かはまだ決めておりませんが、大変面白いところなので、楽しみにしていて下さい。

 さて今回の受験世界史の学習ポイントです。レオン3世の聖像禁止令は726年、東西教会の分裂は1054年、カールの戴冠は800年、第1回十字軍は1096年、第4回十字軍は1202年、ニコポリスの戦いは1396年、そして東ローマ帝国滅亡は1453年、以上、重要な年ですので覚えましょう。聖像禁止令は"なにムリしてかレオン3世(726)"、"苦労の第1回十字軍(1096)""一夜(ひとよ)ごみだらけビザンツ帝国(1453)"などの覚え方があります。
 あと、聖像禁止令のビザンツ皇帝レオン3世とカール戴冠のローマ教皇レオ3世は言うまでもなく別人です。

 最後に、中世西欧諸国と東ローマ帝国のそれぞれの特色も覚えておきましょう。

  1. 国家体制
    • 中世西欧諸国・・・封建制度
    • 東ローマ帝国・・・中央集権制(軍管区制)→12世紀頃よりプロノイア制
  2. 宗教
    • 中世西欧諸国・・・ローマ=カトリック
    • 東ローマ帝国・・・ギリシア正教
  3. 政教関係
    • 中世西欧諸国・・・政教分離
    • 東ローマ帝国・・・政教一致の皇帝教皇主義
  4. 建築
    • 中世西欧諸国・・・ロマネスク式。12世紀よりゴシック式
    • 東ローマ帝国・・・ビザンツ式
  5. 公用語
    • 中世西欧諸国・・・ラテン語
    • 東ローマ帝国・・・ラテン語→7世紀頃よりギリシア語

 最後に文化ですが、伝統的なローマ文化、キリスト教がもたらした文化、そしてヘレニズム文化が融合したのがビザンツ文化の特徴といえそうです。ハギア=ソフィアに代表されるドームとモザイクが特徴的なビザンツ様式は覚えましょう。