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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第246話


メトレス=アン=ティートル
~
傾城(けいせい)の美しき人たち~

 フランス王国・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)のルイ15世(1710-74。王位1715-74)の治世。ルイ15世は5歳で即位したブルボン朝第4代の国王である。先代ルイ14世(王位1643-1715)の子どもたちのほとんどは夭逝し、唯一成人に達した王太子ルイ(1661-1711。グラン=ドーファン。大王太子。ドーファンは王太子の意味)も父に先立って没し(1711)、大王太子の息子ルイ(1682-1712)が次の王太子となった(小王太子。プチ=ドーファン)。しかし小王太子も1712年に病死し(天然痘?)、長男もすでに1705年に、次男は小王太子が没した直後にそれぞれ天然痘等で夭逝したため、次の王太子(ドーファン)は三男ルイがたてられた(王太子位1712-15)。これが1715年に王として即位するルイ15世である。ルイ14世の次期王位を曾孫が受け継ぐのはこのような経緯があった。

 即位したルイ15世は、1725年、ポーランド王の娘マリー=レクザンスカ(1703-68)と結婚し、1737年までに11人の子を産んだ(うち1人は死産。2男8女)。しかしほぼ毎年のように妊娠を繰り返しては、王位継承対象となる男児よりも女児を多く出産することで、次第に王妃とは別の情愛を求めるようになっていく。
 フランスがカトリックを信仰する王国である関係上、王宮に側室を入れることは許されなかったため、ブルボン朝ではメトレス=アン=ティートル(Maîtresse-en-titre。メトレス=ロワイヤル、ロイヤル=ミストレス、公式寵姫、公妾(こうしょう)などの呼び方がある。国王の公式の愛人)の制度が採用されていた。メトレス=アン=ティートルは王室から生活と身分を保証され、重臣と同等の政務を行うことができた。ルイ15世はマリー王妃とは別に、ネール侯爵家の5人姉妹(ネール姉妹)と関係を持ち、うち長女ルイズ=ジュリー(1710-51。マイイ公爵夫人)ら3人をメトレス=アン=ティートルとして関係を持った(1734)。次女のポーリーヌ=フェリシテ(1712-41。ヴァンティミール公爵夫人)もルイ15世のメトレス=アン=ティートルとして権力を手に入れた後は、宰相などの重職に対しても介入し、宰相を置かずに親政することを国王にすすめた。

 オーストリア継承戦争(1740-48)中の1743年、ルイ15世は宰相が死去したのに伴い、親政を開始した。とはいえ政治にはあまり関心がなかった国王だったが、同戦争の一環でフランスは1744年にオーストリア領の南ネーデルラント(現ベルギー)に侵攻することになり、ルイ15世みずから親征した。このとき、ネール姉妹の5女で王のメトレス=アン=ティートルとなったマリー=アンヌ(1717-44。シャトールー公爵夫人)が同行した。宰相を置かず、しかも政治に無関心な王に対し、マリー=アンヌは姉たち同様、王の執務に口出しし、その存在は国内外にわたって強い影響力を及ぼした。しかしマリー=アンヌは病気のため同1744年末に没し、ルイ15世はその死を悼んだ。

 翌1745年、パリから出た一人の女性がルイ15世の目に留まった。その女性は平民身分でありながら上流ブルジョワ階級の出で、幼少期から才知に富み、類い稀な美貌に恵まれ、1730年の9歳の時に、占術師より「将来国王の公妾になる」と予言され、王室に通用する最高の教育を受けることとなった。名をジャンヌ=アントワネット=ポワソン(1721-64)と言い、父の莫大な遺産を受け継いで、1741年3月徴税請負人のシャルル=ギヨーム=ル=ノルマン=デティオール(エティオール。1717-99)と結婚した。エティオールの居館があるセナールの森は、ルイ15世もよく狩猟などで愛用する森であった。エティオール夫人となったジャンヌ=アントワネット=ポワソンは、、国王のメトレス=アン=ティートルになることを目指して、狩猟を楽しむためにこの森にやってきたルイ15世に接近を試みたが、当時マリー=アンヌがいたため、ルイ15世には当初は対面する程度であった。しかし、マリー=アンヌが急死して悲しみに打ち拉がれたルイ15世は、あらたな愛人となるジャンヌ=アントワネット=ポワソンに接近していくのであった。

 1745年2月、ルイ15世の長子でドーファンのルイ=フェルディナン(王太子位1729-65)がスペイン・ブルボン朝(1700-1931)のフェリペ5世(位1700-24,24-46)の娘であるマリー=テレーズ=ラファエル(1726-46)と結婚することになり、これを祝した仮面舞踏会がヴェルサイユ宮殿で開催され、ジャンヌ=アントワネット=ポワソンも出席した。ローマ神話に登場する狩猟の女神ディアーナ(ダイアナ)に扮したジャンヌは、国王が参上するのを心待ちにしていたが、妃のマリー=レクザンスカをはじめ、今回の主役で羊飼いに扮したドーファンのルイ=フェルディナンと彼に嫁いだ同じく羊飼い姿のマリー=テレーズ=ラファエルが姿を現しても国王は登場しなかった。やがて、彼らの後に登場したのは、8体のイチイの樹木に扮した人たちであった(【外部リンク】から引用。パリの美術家シャルル=ニコラ=コシャン作。1715-90)。王宮の女たちは国王の寵愛を求めて、そのイチイの樹木に扮した人たちに接近したが、さきにイチイの仮面を脱いでその場を離れた人物がおり、その場には7人しかいなかった。しかも、その7人は国王ではなかった。さきに仮面を脱いだ人物はすでにエティオール夫人であるジャンヌ=アントワネット=ポワソンに近づいていた。彼がルイ15世であった。ルイ15世はセナールの森でジャンヌを見初め、彼女を次なるメトレス=アン=ティートルとして迎え入れるつもりであった。事実、後日に開催された舞踏会でルイ15世はジャンヌを同行させ、その後王室の行事や会食に彼女を招いた。そしてジャンヌは夫のエティオールから離れて宮殿に居座るようになっていった。23歳にして、ジャンヌ=アントワネット=ポワソンの悲願が果たされたのであった。そして5月、国王よりポンパドゥールの爵位を賜り、同侯爵領を与えられ、ジャンヌはポンパドゥール公爵夫人ポンパドゥール夫人)と呼ばれるようになった。1745年9月14日、彼女は正式にルイ15世のメトレス=アン=ティートルとなったのである。ブルジョワの階級とはいえ、これまでの貴族階級とは違い平民階級から初の誕生であった。そして、ポンパドゥール公爵夫人の残したあまりにも有名な言葉、"私の時代が来た"を象徴する、フランスの歴史にその名が刻まれる数多くの実績を残すのであった。

 ポンパドゥール公爵夫人は次々と城館を与えられて国王の厚遇を受けた(有名なのは1753年に与えられた現フランス大統領官邸のエリゼ宮殿など)。夫人が30歳になった1751年頃から、体調面などの理由で情事を重ねることはなくなったが、夫人は国王の寵愛を失わないために、ヴェルサイユ市内にル=パルク=オ=セール(Le Parc-aux-cerfs。"鹿の園"、"鹿の苑"などの呼称がある)を活用した。ル=パルク=オ=セールはその名が示すとおり、もともと歴代の国王が趣味としていた狩猟で捕らえられた鹿を入れておく場所であったが、しだいに人々が住み着き、居住区となった。夫人はこの地を利用し、町の若い娘たちを言い聞かせて居館に住まわせ、情事を求める国王の相手を担った。これは、国王の寵愛を独占させて権力を維持し、新たなメトレス=アン=ティートルを求めなくとも国王の欲情は町の若い娘が充足してくれるという、ポンパドゥール公爵夫人の施した制度であった(ただし夫人が自発的にこれらを施したかどうかは諸説ある)。こうしたことから"鹿の園"は娼館、売春宿を表す場合がある。ポンパドゥール公爵夫人はこれを機会に、ヴェルサイユ宮殿から離れて自身の館に移った。

 こうして宮殿を離れた後も、ポンパドゥール公爵夫人はルイ15世によって王政の助言を求められ、権力は維持された。また同1751年には啓蒙思想の風潮から登場したドゥニ=ディドロ(1713-84)やジャン=ル=ロン=ダランベール(1717-83)ら百科全書派による『百科全書』の発刊を支援し、結果『百科全書』は1772年までに全28巻刊行されることとなる。夫人はサロンを開いて、ディドロやヴォルテール(1694-1778)ら啓蒙思想家と交友を結んだ他、絵画、歌、演劇など芸術を奨励し、当時流行したロココ芸術のパトロンとなり、フランス文化を積極的に振興させた。
 また、高級な磁器収集を趣味とするポンパドゥール公爵夫人は、国内の磁器が材質が悪いため、マイセン(ドイツのザクセン州都ドレスデン北西。現在でも陶磁器の名産地で有名)の陶工が1738年にヴァンセンヌ(パリ東部)に開いた磁器製陶所に着目し、ルイ15世を口説いて王室がこの製陶所を買い取り、1756年製陶所をセーヴル(パリ~ヴェルサイユ間の都市。1920年のセーヴル条約で知られる)に移し、優秀な陶工を招き入れ、1759年国家事業として磁器の製造を奨励した(セーヴル焼)。夫人はセーヴル焼をフランス国民の誇れる産業とするため、徹底してこの事業に取り組んだ。

 しかしオーストリア継承戦争での戦費だけでなく、王室の財力を壟断していくポンパドゥール公爵夫人の存在は、国家の経済情勢を切迫させていった。財政問題解決のため、歳入の捻出を当時の財務総監ジャン=ド=マショー(任1745-54)に命じて増税を全ての身分に課した。貴族や聖職者ら免税特権身分までも課税対象となったことで、貴族階級を擁護するパリ高等法院も増税に反対した。こうした状況の中で、ルイ15世は1756年、プロイセンやイギリスを敵とする七年戦争(1756-63)に参戦した。この戦争は、フランスは、ロシア、そして長年の宿敵だったハプスブルクオーストリアと手を組むという、いわゆる"外交革命"が果たされて勃発した戦争だが、この"外交革命"は、オーストリアのマリア=テレジア(1717-80。オーストリア大公位1740-80)、ロシアの女帝エリザヴェータ(帝位1741-62)、そしてフランスのポンパドゥール公爵夫人ら3人の有力な女性たちがプロイセン打倒という共通の意志でもって為し得た革命的同盟であり、これまでの固定された国際関係が大きく変わった瞬間であった。これを"3枚のペティコート作戦"と呼んだ。こうしてポンパドゥール公爵夫人は国際情勢を動かすほどの存在となっていった。そしてこの革命の後、フランスのブルボン王家に、マリア=テレジアの11女であるマリ=アントワネット(1755-93)が、1765年のフランス王太子ルイ=フェルディナン没後、子ルイ=オーギュスト(ルイ15世の孫。1754-93。王太子位1781-89)に嫁いだのである。

 こうしたことから、ブルボン王家は行政、軍事、財政のすべての面において無頓着のルイ15世に対し、これらに介入したポンパドゥール公爵夫人の意のままとなった。ルイ15世はフランス国王としての人気が凋落していき、ブルボン王政の国家運営に不満が立ちこめてきた。七年戦争が勃発して半年後の1757年1月、ルイ15世は、貴族に仕えていた使用人ロベール=フランソワ=ダミアン(1715-57)に襲撃され、世間を震撼させた(ルイ15世暗殺未遂事件。1757.1)。腹部を刺されたが、傷は浅く命を取り留めた。ダミアンは捕らえられ、八つ裂きの公開刑に処された。

 ポンパドゥール公爵夫人はかつての増税政策で王室不支持者が増加し、さらには夫人自身の浪費や権益の壟断への非難も高まったことで、その増税政策の実施者で財務総監退任後、海軍大臣を務めていたジャン=ド=マショー(任1754-57)を罷免させた。この出来事はルイ15世は心に深い傷を負うこととなった。七年戦争は結果的に敗北を喫し、新大陸で展開されていた英仏植民地争奪戦争の一環であるフレンチ=インディアン戦争(1755-63)も敗北して広大な植民地を失い(1763年パリ条約)、フランスは内憂外患こもごも至る状態となった。

 そして、1764年4月15日、ついにこの日が訪れる。フランスを混乱に陥れ、社会不安が増大する中で、どうすることもできないルイ15世に厳しい追い打ちをかけたのであった。ポンパドゥール公爵夫人は、肺と心臓の疾患によりヴェルサイユ宮殿にて没したのである(ポンパドゥール公爵夫人死去。1764.4.15。享年42歳)。ルイ15世が夫人のためにヴェルサイユ宮殿内に離宮として建築中であったプティ=トリアノン宮殿の完成を見ることができなかった(1768年完成)。"Après moi le déluge !(我が後に大洪水あれ!。後は野となれ山となれの意味) "の言葉はルイ15世、あるいはポンパドゥール公爵夫人が呟いたか、時の情勢を嘆く言葉として流布されたものとされる。そして、前述の通り、夫人没後の翌1765年にはドーファンのルイ=フェルディナンも没し、ルイ15世の後継者はルイ=オーギュストに託すこととなった。そして1768年には王妃マリー=レクザンスカも没した。ポンパドゥール公爵夫人没後はマリー=アデライード(1732-1800。ルイ15世とマリー妃の四女)が執務を担った。

 ルイ15世は次なる愛を求めて、マリ=ジャンヌ=ベキュ(1743-93)という女性に会う。ポンパドゥール公爵夫人とは異なり、ジャンヌ=ベキュは、シャンパーニュの貧しい家に生まれた。幼少時、男性遍歴の多い母に捨てられて叔母に引き取られるが、母の再婚先に再度引き取られ、修道院で教養を身に付けた。修道院での教育を終え、侍女として仕えるも、生まれつきの美貌に周囲の男性が誘い寄せられ、これが素行面に影響して侍女の仕事をやめさせられた。その後ジャンヌ=ベキュは仕立屋で針子として働くも、ここでも男性が惹き寄せられ、母と同様に男性遍歴を重ねていった。その中にはロベール=フランソワ=ダミアンを処刑した死刑執行人、シャルル=アンリ=サンソン(1739-1806)もいた。
 ジャンヌ=ベキュが20歳の頃、子爵のジャン=デュ=バリー(1723-94)と出会う。この子爵は特に上流階級などを対象に売春斡旋(いわゆるポン引き)を行っており、ジャンヌ=ベキュを娼婦として子爵の屋敷に住まわせた。ジャンヌ=ベキュは贅沢な貴族の生活を経験すると同時に、高級な娼婦としての人生を歩み始めた。そして上流階級の貴族と接することにより、社交界の知識教養を身に付けていく。1768年、ジャンヌ=ベキュが25歳のとき、紹介によりルイ15世と出会うことになり、同年秋デュ=バリー子爵の弟ギヨーム=デュ=バリー(1732-1811)と形式上の結婚をしてデュ=バリー夫人と呼ばれるようになった。一方で2年後の1770年5月には、マリー=アントワネットとルイ=オーギュストの結婚式が挙行された。

 60歳を目前にしたルイ15世は、20代半ばのデュ=バリー夫人の美貌に惹かれていき、翌1769年、正式にルイ15世のメトレス=アン=ティートルとなり、彼女はルイ15世における唯一の心の拠り所となって、王太子妃のマリー=アントワネット以上の権力を掌握した。アデライード王女、マリー=ヴィクトワール王女(1733-99。五女)、ソフィー王女(1734-82。六女)たちは、デュ=バリー夫人の出自や経歴に対して快く思わず、さらには妹を次のメトレス=アン=ティートルに推薦しようとしていた有力政治家のエティエンヌ=フランソワ=ド=ショワズール(1719-85。ショワズール公爵)からその存在を批判され、ハプスブルク=ロートリンゲン家出身のマリー=アントワネットにいたっては完全に身分が違ったデュ=バリー夫人を王宮入りさせることを許さず、しばらくは彼女を無視し続けた。さらにマリー=アントワネットはアデライードら3王女の接近により、デュ=バリー夫人への憎悪をいっそう深めていったとされる。しかし当のデュ=バリー夫人はその気さくで親しみやすい性格から、多くの貴族から好かれていた。
 ルイ15世はデュ=バリー夫人とアントワネット妃間の対立に悩み、これはアントワネットの母国オーストリアにも伝わった。母マリア=テレジアの説諭でマリー=アントワネットはデュ=バリー夫人に声をかける機会を得たものの、王女たちに阻止されて退場させられたという逸話がある。しかし、1772年の1月1日の新年の挨拶において、マリー=アントワネットはデュ=バリー夫人に"Il y a bien du monde aujourd'hui à Versailles.(=There are many people at Versailles today.今日のヴェルサイユはたくさんの人ですこと)"と話しかけたことで緊張関係は解けていった。ショワズール公爵との対立は結局ルイ15世に罷免を告げられて収束した。こうしてデュ=バリー夫人は権力を弱らせずに維持し続けた。

 1774年4月、ルイ15世は天然痘に罹患し、病床に伏すことになった。デュ=バリー夫人は懸命に看病を施した。しかし翌5月、国王は自身が助からないことを悟ったとき、夫人に王宮を去るように告げた。愛に溺れて国政を疎かにした罪を神に懺悔(告解。ゆるしの秘跡)するため、そしてデュ=バリー夫人の身を守るためであった。次期国王となるルイ=オーギュスト、つまりルイ16世(王位1774-92)の治世になったとき、デュ=バリー夫人が、国王即位と同時に国王妃となるマリー=アントワネットの権勢から退けられるのは明白であった。
 最後まで国王に尽くしたデュ=バリー夫人は、最後まで国王に愛されたメトレス=アン=ティートルであった。10日、ついにルイ15世は崩御し(ルイ15世死去。1774.5.10)、ヴェルサイユを追われたデュ=バリー夫人はルイ15世を看取ることもできずにパリ郊外のクィイ=ポン=オー=ダム(セーヌ=エ=マルヌ県)の修道院に送られた。これにて、絶対王政期のブルボン王家におけるメトレス=アン=ティートルの制度は消滅した。デュ=バリー夫人はメトレス=アン=ティートル時代の人脈を使って同じくパリ郊外のルーヴシエンヌ(イヴリーヌ県)に移り(1776)、多くの貴族を相手に以前のように男性遍歴を積み上げ、自由に人生を過ごした。その中にはパリの軍事総督(ブリサック公。1734-92。総督任1780-91)もいた。

 1789年、フランス革命が勃発した(7月14日)。勃発前に没したソフィー王女を除くルイ15世の王女だったアデライード王女、ヴィクトワール王女の2人はローマに亡命し、その後ナポリ、トリエステと渡った。旧制度(アンシャン=レジーム)は破壊され、ブリサック公もパリ軍事総督の地位をおろされたため、ブリサック公の愛人だったデュ=バリー夫人はロンドンに亡命した(1791.1)。そして翌1792年のいわゆる8月10日事件で王権が停止され、ルイ16世を筆頭とする王族たちは幽閉処分を受け、ブルボン王政は崩壊した。反革命分子は徹底的に捕らえられ、ブリサック公も九月虐殺に巻き込まれて殺害された。9月より始まる国民公会によって第一共和政(1792.9-1804.5)がしかれたフランスでは、翌1793年1月にルイ16世の死刑が決まり、同月21日、シャルル=アンリ=サンソンによってギロチンによる斬首刑が執行された(ルイ16世処刑。1793.1.21)。こうした乱世であるにもかかわらず、デュ=バリー夫人は同年3月、危険を承知の上で帰国を決断、ルーヴシエンヌに戻ることになる。帰国の理由は諸説あるが、最もよく知られているのは、革命によって差し押さえられた王族の資産、たとえば、王宮、城、家具、宝飾が気がかりだったというものである。1768年から1774年までの愛すべきルイ15世と送った優雅な生活の中で賜った、デュ=バリー夫人の居城、宝石、家具などの資産を返還してもらうための帰国であったとされている。国家財政が逼迫し、国家の存亡も危うい中で築き上げた財産であった。しかしこの決断が彼女にとって命取りとなってしまった。

 1793年9月末、デュ=バリー夫人は革命派に逮捕された(かつて彼女の下で働かされていた使用人の密告とされている)。彼女はマリー=アントワネットが幽閉されていたコンシェルジュリー牢獄(世界遺産であるパリのセーヌ河岸の中州にあるシテ島にある司法機関パレ=ド=ジュスティスにある)に投獄された。革命裁判所の裁判によって、まず王宮内での敵であったマリー=アントワネットが死刑を宣告され、10月16日にギロチン台に送られた。このとき彼女は下肥を運ぶ荷車に乗せられるも、毅然たる態度で死に臨み、シャルル=アンリ=サンソンの執行によってギロチンの露と消えた(マリー=アントワネット処刑。1793.10.16)。刑が執行されたのを聞いたデュ=バリー夫人は号泣したという。そのデュ=バリー夫人もついに死刑が宣告され、12月7日にギロチン台に送られることになった。デュ=バリー夫人は、先に処刑されたアントワネットとは対照的に、死におびえて涙が枯れるまで泣き叫び、ギロチン台をまともに見ることができず(革命裁判によって死刑が執行された女性の中でただ一人見ることができなかったとされている)、かつての愛人だったシャルル=アンリ=サンソンに何度も命乞いをした。恐怖政治期(1793年5月31日から1794年7月27日のテルミドール9日のクーデタまで)だけで、およそ2,700人以上の要人の死刑を執行してきたシャルル=アンリ=サンソンもさすがに彼女を直視できず、息子に執行を任せることになった。そして泣きじゃくるも数人に取り押さえられたデュ=バリー夫人は、同年同月、ギロチンにてついに斬首された(デュ=バリー夫人処刑。1793.12.7)。ルイ15世を愛した最後のメトレス=アン=ティートルの悲哀に満ちた最期であった。

 ルイ15世の愛したメトレス=アン=ティートルの存在は、政治においても、経済においても、社会においても、そして王朝存続においても関わったため、ルイ14世時代の絶対王政の絶頂期から大きく転落した結末に待ち受けていた、大革命勃発の遠因となってしまった。絶対王政の絶頂期に君臨したルイ14世が"太陽王(ル=ロワ=ソレイユ。Le Roi Soleil)"だったのに対し、ルイ15世は"最愛王(ルイ=ル=ビヤン=エメ。Louis le Bien-Aimé)"と呼ばれたのであった。

参考サイト:「ロココカナール(2018.3.31追記。リンク切れ"http://rococana.peewee.jp/")」 


 今回はルイ15世時代のブルボン朝をご紹介しました。この時代は歴史的には英仏植民地戦争やオーストリア継承戦争、七年戦争など乱世の時代で、高校世界史でも重要時期であるため、過去にも何度か取り上げましたが、国王ルイ15世自身についてはあまりメインで取り上げませんでした。精力絶倫の最愛王として有名なルイ15世ですが、実質は王政には無関心で大事な業務は部下に任せ、自身は女性にかまけたことで、国民にはあまり評価が高くなく、王政は転落してのちのフランス革命の原因にもつながります。ただ、ルイ14世の治世後半の失政(ナントの勅令廃止や、対外侵略戦争など)の克服がルイ15世の時代には果たせず、結局ルイ16世がその代償を処刑という形で果たすという結末は、王族としての持って生まれた運命と申しましょうか、時代が産み出した大事件だと思います。その中で、ルイ15世のメトレス=アン=ティートルの存在も大きく関わり、特に政治分野ではポンパドゥール公爵夫人が国際関係まで変えてしまい(外交革命)、オーストリア=ハプスブルク家のマリー=アントワネットがフランスに嫁いでくる事態を生んだことは歴史的に見て、その存在がいかに大きなものであったかを示してくれます。またルイ15世の老後の世話を、娼婦という低い身分だったデュ=バリー夫人が担当したがために、王族の1人として革命分子の標的とされてしまい、哀れな最期を迎えてしまいます。いずれも彼女たちが国王の庇護のもとに、奢侈で優雅な生活を満喫したがために、国庫を脅かし、王朝転落を招いてしまうとして、悪者扱いされることも少なくないですが、別角度で見ると、たとえばポンパドゥール公爵夫人は政治的には無能な国王を守って力量を発揮した重要な人物、デュ=バリー夫人はその無能な国王に見初められたがために処刑される哀れな人物ともいえます。

 さて、今回の大学受験世界史における学習ポイントです。まず今回の主役であります、メトレス=アン=ティートルという用語は受験には登場しないと思いますが、「公妾」「愛妾」「寵姫」などの別の呼び名が文中に出てくることはあると思います。若干意味は異なるかもしれませんが、側室のようなものだと思っていただけたらよいでしょう。しかしポンパドゥール公爵夫人もデュ=バリー夫人も、受験には超マイナー用語で、出ることはまれであるかと思います。ネール姉妹に至ってはほぼ出題されないと思います。
 そしてルイ15世ですが、ルイ14世とルイ16世は学習すべき事項がたくさんあるのに対し、あいだのルイ15世は受験世界史では非常に地味な存在です。ただし、前述の通り、重要な戦争や国際関係の変化が非常に多いので注意が必要です。これらはルイ15世関連として出題されることは少なく、オーストリアやプロイセン絡みでの出題が多いですね。ルイ15世はフランス絶対王政の絡みで出されることが多いです。

 ルイ15世はルイ14世の曾孫です。この時代は啓蒙思想の円熟期でもあります。18世紀フランスの啓蒙思想では、プロイセンのフリードリヒ2世大王。王位1740-86)とも親しかったヴォルテール、『法の精神』や『ペルシア人の手紙』を著したシャルル=ド=モンテスキュー(1689-1755)、『社会契約論』や『人間不平等起源論』、『エミール(または教育について)』を著したジャン=ジャック=ルソー(1712-78)などが上流社交界で活躍しています。この上流社交場をサロンといいます。このあたりも学習しておきましょう。ルイ15世のメトレス=アン=ティートルもこうしたサロンに顔を出して人脈を形成します。

 ちなみにポンパドゥールの名は女性の髪型の名前としてその名が残っています。またデュ=バリー夫人がメトレス=アン=ティートル時代に王室で人気のあったカリフラワーのポタージュスープはクレーム・デュ・バリーと呼ばれます。現在において名が残るのは、歴史的にも偉大だった証ですね。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。