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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第267話


輝く戦歴・その4
~同志たちの最期~

  1. その1 "誕生と成長"はこちら
  2. その2 "帝国軍躍進"はこちら
  3. その3 "大家との遭遇"はこちら

 オスマン帝国(1299-1922)第10代スルタン、スレイマン1世(大帝。帝位1520-66)の"クズル=エルマ(Kızıl Elma。"赤いリンゴ"の意味で、西欧のこと)"の獲得の大きな好機として行ったウィーン包囲第一次ウィーン包囲1529.9-29.10)は失敗に終わったものの、西ヨーロッパに恐怖を植え付けた。また大帝に忠誠を尽くす寵臣で、大宰相パルガル=イブラヒム=パシャ(1493-1536。大宰相任1523-36。大宰相はウル=ヴェジールとよび、宰相を意味するヴェジール(ワズィール)の筆頭格)も大きな役割を担った。イブラヒム=パシャは1521年のベオグラード獲得によってヨーロッパ遠征の滑り出しに成功して以降、ロドス島陥落(1522)、エジプト対策(1522年以降の前エジプト総督の反乱を鎮圧)、ハンガリー王国(1000?-1918,1920-46とモハーチ戦(1526)での首都ブダ陥落、アナトリア南部対策(サファヴィー朝(1501-1736)支持派の反乱を鎮圧)などで活躍し、日を追うごとにスレイマン1世からの信頼度は高まっていった。

 パルガル=イブラヒム=パシャはキリスト教徒(ギリシア正教)の漁家に生まれた。西アナトリアにてデヴシルメ(キリスト教徒臣民の子弟を強制徴収して、イスラム教に改宗させて徴用)されたイブラヒムは奴隷として宮廷に入った。やがてイブラヒムは当時皇太子だったスレイマンと親しくなり、スレイマンの寵愛を受けて宮廷で教育を積んだ(スレイマンはイブラヒムに対し、「お気に入り」を意味する"マクブール"のあだ名で呼んだという)。イブラヒムは、スレイマンの皇帝即位に伴い1523年にウル=ヴェジールに就任、またエジプト対策によりエジプト総督に就任、エジプトでの諸改革に乗り出してスレイマン大帝より絶大の信頼を得たほか(総督任1524?,1525?-1525)、大帝の妹ハティージェ=スルタン(1494以前?-1538)と結婚して皇帝一族との永遠の契りを交わし、さまざまな重要職への昇格を大帝より賜るなどして、行政や軍の強権を掌握した。ウィーン包囲には失敗したが、スレイマンとの固い絆は壊れることがなかった。スレイマンは自身が君主として国家を統治する間は、如何なる場合であっても、決してパルガル=イブラヒム=パシャに死罪を与えないと誓ったほどであった。

 一方、スレイマン大帝には第一夫人となった愛妾マヒデヴラン=スルタン("ギュルババル"とも。1500?-81)との間に長子ムスタファ(1515-53)がいた。パルガル=イブラヒム=パシャはムスタファをこの上なく愛し、ムスタファの養育にも携わった。ムスタファは軍功もあって当時のイェニチェリからの信頼もあり、スレイマン大帝の良き後継者として期待が寄せられていた。スレイマンの母ハフサ=スルタン(1479-1534)も子スレイマン、妻マヒデヴランそして子ムスタファの将来に期待していた。
 ところが、後宮として入ったヒュッレム=ハセキ=スルタン(西欧では"ロクセラーナ"の名でも知られる。1502?/1504?-1558)もまたスレイマンの寵愛を受けると、1521(?)年子メフメト(1521?-43)を出産、第二夫人となったことにより、徐々に波風が立ちはじめていった。ヒュッレムはその後1女4男をなし、第一夫人のマヒデヴランと皇帝の君寵をめぐって争うようになった。母后ハフサはヒュッレムを嫌い、第一夫人マヒデヴランを寵愛した。またパルガル=イブラヒム=パシャもまた、ムスタファを次期後継者にすべく、マヒデヴラン側につき、ヒュッレムと対立した。ヒュッレムは次男を疫病で失ったものの4人の皇子を武器に立ちはだかった。スレイマンの母后ハフサが1534年に没したのを契機として、ヒュッレムは皇后の地位をマヒデヴランと争い、スレイマンに支持されたヒュッレムが勝利をもたらしたとされる(一説によると、ヒュッレムは自身で顔にひっかき傷をつくり、それをあたかも口論の末にマヒデヴランによって打ち据えられてできた傷であるかのように大帝に讒言したとも言われるが諸説あり)。
 結果的にスレイマンの不興を買ったマヒデヴラン=スルタンは宮廷を追われ、ムスタファが総督をつとめるトルコ西部のマニサ(イズミルより北東方面)へ追放されただけでなく、ムスタファは大帝により次期後継者から外された。ヒュッレムはスレイマン大帝の皇后となった(皇后位1533?/34?-1558)。圧倒的な兵力で世界をおびやかすオスマン帝国にとっては筋書きのない出来事であり、この出来事をきっかけにその後の宮廷が響めくことになろうとは、いくら名誉と尊厳を兼ね備えたスレイマン1世にとっても予想だにしなかった。

 こうした中で、スレイマン大帝は父セリム1世の治世でも激しく戦ったサファヴィー朝(1501-1736)対策に乗り出し、1533年に遠征した。オスマン帝国にとって、サファヴィー朝とは父の時代にチャルディラーンの戦い(1514)で無敵クズルハシュキジルバシュ。トルコ遊牧民からなる、赤いターバンを巻いたサファヴィー教団信徒が発端)の軍を打ち破った、輝かしい勲章があるが、帝国領のアナトリア半島では、オスマン帝国に反発する土着トルコ系遊牧民が依然として根強くサファヴィー朝を支持していたためである。この遠征は難なく終わり、1534年から35年にかけて、スレイマン1世とパルガル=イブラヒム=パシャの軍はバグダードとアゼルバイジャンを制圧した。この後の対サファヴィー朝との外交では、1555年には現トルコ北部のアマスィヤで講和が行われ、アルメニアやグルジア(ジョージア)等は東西分割され、その西部がオスマン領、東部がサファヴィー領となり、分割線から南へペルシア湾へ国境線を形成する他、バグダードを含むイラクの大部分はオスマン帝国が領有することになった。しかし北コーカサスのダゲスタン(現ロシア連邦のダゲスタン共和国)方面や南コーカサス(ザカフカース)のアゼルバイジャンなどはサファヴィー朝が維持できたため、オスマン帝国におけるサファヴィー朝の完全制圧とまではならなかった。

 レイマンの東方遠征と同時期、北アフリカ海域や地中海域で海賊行為を行っていたバルバロッサ(ハイレッディン=バルバロッサ。1475-1546)が、オスマン帝国に帰順を申し出た(1533.12)。彼は西欧で"赤髭バルバロッサ"の異名を持つ海賊であり、兄とともに海賊活動を行い、チュニジアやアルジェリアを制していた。スレイマンは海軍増強を計画していたため、願ってもいない機会であった。謁見が許されたバルバロッサはオスマン海軍の最高司令官(大提督)およびパシャ(オスマン帝国の高官や高級軍人の称号)を賜った。バルバロッサの帰順によって、オスマン海軍の兵力はいっきに巨大化した。

 盤石な軍事力で、次こそ"赤いリンゴ"は射程内に入ったかに見えた。しかし、思いがけない出来事が起こった。1536年3月15日、スレイマン大帝と強い絆で結ばれ、いかなる場合においても在位中は決して死罪を与えないと誓われた、大宰相パルガル=イブラヒム=パシャがスレイマンの命により処刑されたのである(パルガル=イブラヒム=パシャ処刑。1536.3.15)。これまでのスレイマンの快進撃は、イブラヒムの活躍なしでは有り得なかったことであり、内外の行政、軍事だけでなく、日常生活におけるスルタンの良き理解者として、大帝を支えた存在が死でもって刑に処せられたのである。
 しかも一説によると、在位中にはイブラヒムを処刑しないと謳ったスレイマンは、ムフティー(イスラム法であるシャリーアを、解釈面や法の遵守に際して意見が言える資格のある上級ウラマーのこと)にファトワーを求めたとも言われている。ファトワーとはムフティーの公式見解をいい、上級ウラマーの公式見解を発表すると言うことは、イスラム社会にも影響を及ぼす大きな裁断や判例になる。いわばムフティーの意見は最高裁判所での確定判決級の効力があり、この場合では、スレイマンの在位中にイブラヒムを処刑しないと誓ったことを、シャリーアに基づいて取り消すことができるか、スレイマンはムフティーに判決を求めたのであった。ムフティーは帝にイスタンブルにモスクを建築することで誓いを取り消すことができるといい、スレイマンはムフティーの見解どおり、イスタンブルにモスクを建立したのである。
 では、それほどまでしてスレイマン1世が、あれだけの頭脳明晰で比類なき軍事力を現出した盟友をなぜ死に追いやったのか?それほどまでに昵懇の間柄であったにもかかわらず、スルタンは死罪を言い渡すほどの君寵を失ってしまったのか?パルガル=イブラヒム=パシャの処刑の理由は現在も謎のままであるが、後世においてさまざまな憶測が流れた。たとえば1533年の遠征で、指揮をとっていたパルガル=イブラヒム=パシャ大宰相が、「統治者」「総司令官」などに相当する"セラスケル"という称号を自称した態度にスレイマン1世の怒りに触れた説、強権な地位にのぼりつめた大宰相が、戦略や方策、戦費の使徒などで他の行政官と衝突があり、これが災いしてサファヴィー朝の完全制圧とならず、増長した大宰相にスレイマン1世に友情が冷めてしまった説、大宰相がスレイマン1世の第一夫人マヒデヴラン=スルタンの子ムスタファ・マニサ総督を支持していた一方、この母子を捨てたスレイマン1世が、大宰相と敵対していた第二夫人から皇后となったヒュッレム=ハセキ=スルタンに執心し、この背景に皇后の策略で第一夫人マヒデヴランとその子ムスタファ、そしてパルガル=イブラヒム=パシャをスレイマン1世から遠ざけようとしていた説などがあるが、結果的には父である大帝の寵愛を失って後継者から外され、また最大の庇護者を失ったスタファが、1553年10月6日に大帝の命で処刑される一方で(ムスタファ処刑。1553)、ヒュッレム皇后の長男メフメトが一時皇太子として擁立されたのであった(ただしメフメトは1543年に天然痘で夭逝)。
 スレイマン1世が自身最大の友を失ったことは、赤いリンゴを求めて領土拡張に挑む大帝の意志を引き継いだ名宰相の采配までも失ってしまったことと同様であった。これにより、スレイマン1世の軍事はバルバロッサの指揮する海軍による、地中海の制海権に焦点が向けられた。 

 1528年、スペイン王カルロス1世(王位1516-56。神聖ローマ皇帝カール5世。帝位1519-1566)は、イタリアのジェノヴァ出身の軍人アンドレア=ドーリア(1466-1560)を採用した。ドーリアはこれ以前もフランス海軍に雇われ、華々しい戦歴を誇る有能な軍人であった。かつて"アドリア海の女王"と呼ばれ、海上貿易の発展と強力な海軍で知られたヴェネツィア共和国(697-1797)は、16世紀ではその規模は縮小と化しており、これに付け入ったオスマン帝国海軍の長バルバロッサは、スレイマン1世の命によりヴェネツィアに支配されているエーゲ海、ティレニア海、イオニア海などギリシア沿岸に浮かぶ島々を襲撃してこれを占領していった。ヴェネツィアは神聖ローマ帝国(962-1806)、スペイン王国(1492-1975。当時はハプスブルク家の支配国)と同盟してに支援を要請した。またバルバロッサは北アフリカのチュニジアにあったイスラム王朝、ハフス朝(1229-1574)の重要港湾都市チュニスを占領していったが(1534)、ハフス朝はスペインに支援を要請、翌年スペインに雇われたアンドレア=ドーリアの海軍によってチュニスはオスマン帝国から取り戻された。しかし怯むことなくバルバロッサの大艦隊は、今度はスペイン沿岸や南イタリアの港湾地域などを攻めていった。この事態にローマ教皇パウルス3世(位1534-49)は教皇領(752-1870)を守るため、ヴェネツィアおよびスペインらとキリスト教精神による同盟の結成を呼びかけ、彼らもこれに応じ、連合艦隊を結成、アンドレア=ドーリアがこれを指揮することになり、地中海の覇権に挑むバルバロッサ率いるオスマン帝国海軍と海戦を交えることとなった。

 1538年9月末、海戦はギリシャ北西部、アンヴラキコス湾からイオニア海へ流れる沿岸地域で始まった。舞台となった戦場は、古くは"アクティウムの海戦(B.C.31)"で知られるが、今度は、アクティウムの北の対岸に位置するプレヴェザである。バルバロッサ率いるオスマン帝国海軍は百数十隻のガレー船と、6万の兵力で、一方、アンドレア=ドーリア率いる連合艦隊は百隻余のガレー船および2万の兵力(両軍とも戦力規模には諸説ある)であった。バルバロッサはヴェネツィア船、スペイン艦、教皇艦を数隻を破壊または拿捕したのを受けて、カルロス1世(カール5世)は、アンドレア=ドーリアに連合艦隊の損失を防ぐことを優先させ、オスマン海軍への攻撃を仕掛けることを中断、撤退を命じた。これによりオスマン帝国は地中海のほぼ全域を制覇することに成功した。これがプレヴェザの海戦1538.9)である。この海戦に勝利したスレイマン1世はヴェネツィアと和約を成立させた。地中海を制覇したオスマン帝国海軍は、紅海とインド洋にも進出し、この海域を握っていたポルトガルとも対立した。これらの制海権は失敗に終わったが、紅海からインド洋に出るイエメンの港湾都市アデンを獲得したことで、ポルトガル船の通航を牽制する重要な拠点となった。
 バルバロッサ率いるオスマン帝国海軍は神聖ローマ帝国と敵対するフランスから要請を受け、神聖ローマ帝国側についていた南フランス海域を同盟したフランス艦隊と協力して攻略、重要港湾都市ニースを陥落させた。バルバロッサは1545年にスペイン東部沖のバレアレス諸島への遠征を最後に引退、その後1546年に没した(バルバロッサ没。1546)。スレイマン1世は、パルガル=イブラヒム=パシャに続く偉大な軍師を失った。東地中海域の制海権の掌握は、オスマン海軍を強化したバルバロッサの功績が非常に大きい。帝国史上、最も誇り高い軍事力を備え、「赤いリンゴ」を求めて行ってきたスレイマン1世の大規模な遠征事業は、これを機にひとまずの区切りを付けた形となった。

 遠征事業に区切りを付けたとはいえ、スレイマン1世の軍事改革は大きな意味を持った。スレイマンの時代から、親征ではなく、大宰相(ウル=ヴェジール)が陣頭に立つ機会が増えていった。イエニチェリを初めとする軍隊が強固であったこと、大宰相や総司令官が帝による全幅の信頼を受けていたことに他ならないが、16世紀のヨーロッパでは、封建制度に取って代わった絶対王政が主流であり、過去のように有事にのみ騎士層が編制されるのではなく、平時であっても国家としての軍はしっかり組織される、いわゆる常備軍体制が敷かれていたため、オスマン帝国もその重要性を痛感し、カプクル軍団、とりわけイェニチェリの常備軍化をもたらした。スレイマンの治世では、カプクル軍団を48,000人、うちイェニチェリを20,000人まで増強を行っている。一方で、火砲の普及に伴い、弓術や剣術が中心で火砲を使用しないシパーヒーにとっては、ウィーン包囲失敗を機にその必要性が徐々に失われていった。ヨーロッパでいう過去の騎士層の役割を示したシパーヒーは衰退し、同時に彼らに与えていた分与地とその徴税権、いわゆるティマール制度も縮小へ向かい、次第にイルティザームと呼ばれる徴税請負制度に変貌を遂げていった(競売にかけられた徴税権を競り落とす地方の有力者を"アーヤーン"という。イルティザームの進展は16世紀後半に顕著となる)。またバルバロッサの後継者に、名高い兵士としてスレイマンと共に数々の戦場を渡り歩いたソコルルソコルル=メフメト=パシャ。1506-79)を指名し(1546)、1565年には大宰相に任じた(任1565-79)。スレイマン1世は大宰相を筆頭に官僚の整備、そして兵制や税制の改革から中央集権体制の強化をはかり、君主の絶対化を確立して、帝国の黄金期を現出したのである。

 しかしその黄金期を現出したスレイマン大帝も晩期にさしかかり、自身の後継者を定める時が来た。ところが、長子ムスタファは前述の通り1553年に処刑、ヒュッレム皇后との間にできた、メフメトら男児たちの幾人かは早世し、残ったのは三男のセリム(1524-74)と四男のバヤズィト(1525-61)に絞られていた。ムスタファを支持していたイェニチェリは、ムスタファが1553年に処刑されたのはヒュッレムの策略であるとして皇后と対立(諸説あり)、イェニチェリの反乱が続発した。ヒュッレム皇后は有能なバヤズィトを推していたため、イェニチェリはセリムを次期後継者として支持した。しかしセリムは父スレイマンと比べて明らかに凡庸で、生来の道楽者であったことで("大酒飲みのセリム"と呼ばれた)、没落したシパーヒー層らはバヤズィトを支持し始めた。兄弟の争いはしばらく静穏状態であったが、後継者争いの決着を見届けることなくヒュッレムは1558年に没したことで(ヒュッレム=ハセキ=スルタン没。1558)、両者の対立は激化した。

 セリムは支持者を使って父スレイマン大帝に讒言、セリムを支持したスレイマンはバヤズィトの信用を失い、彼を左遷した。1559年、これに異を唱えたバヤズィトは挙兵、スレイマン大帝はソコルル=メフメト=パシャにて、セリム側に援軍を派兵するように命じた。結果、バヤズィトは敗走、サファヴィー朝へ亡命したが、スレイマンの命でバヤズィトは引き戻され、1561年、処刑された(バヤズィト処刑。1561)。皮肉にも、皇后の望まなかった皇子が後継者となり、結局父帝の冠を戴くこととなったのである。

 家族の不遇に見舞われたスレイマンは最後の輝きを取り戻すべく、1565年にマルタ遠征を敢行し包囲するも、プレヴェザで敗戦したスペインに援助されたマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)の固い防備で失敗に終わった。そして、自身13回目の出陣となる、翌1566年のハンガリー遠征(ハンガリー西部のシゲトヴァール包囲戦)の最中、71歳で没した(スレイマン1世死去1566.9.7)。スレイマン1世の亡骸は、帝が生前に宮廷建築家のミマール=スィナン(ミマーリ=シナン。1489-1588)に命じて建造させたスレイマン=モスクスレイマニエ=モスク)に埋葬された。そして後を継いだセリムがセリム2世(位1566-74)として即位した。

 しかしセリム2世は陣頭に立つことなかった。生来放蕩に耽るセリムは政治や軍事に関心がなく、すべて大宰相を筆頭とする官僚に委ねようとした。結局スレイマンの遺志は、大宰相のソコルル=メフメト=パシャが引き受け、ハンガリー遠征を成功に導いた。このハンガリー遠征はハプスブルク家が条約に違反してハンガリー侵攻を企てたことに対しての遠征であったため、"赤いリンゴ"の中核でもあるハプスブルク家に対して、戦勝をもたらした大事な一戦であった。大宰相の名誉ある功績により、オスマン帝国の行政や軍事が、大宰相の大きな権限として決断されるようになっていき、さらにセリム2世の帝国統治の無定見も手伝い、大宰相としてのソコルル=メフメト=パシャは帝国の統治を一身に背負うことになった。帝国の皇帝権の絶頂期はこれを機に下降線をたどっていくことになる。

主要参考文献

  1. 講談社現代新書『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 鈴木董著
  2. 新紀元社『オスマン・トルコの軍隊 1300-1774 大帝国の滅亡』 デヴィッド・ニコル著
  3. 中経出版『オスマン帝国600年史』 設樂國廣監修 齊藤優子執筆

 優れた人材を見抜く名伯楽ぶり、帝国の黄金時代を築いた、スレイマン大帝の治世後半における戦歴を中心にご紹介しました。世界一の軍隊を誇るオスマン帝国の最盛期を現出した名君をとりまく人たちをベースに話は進行しましたが、対外的な戦歴は華やかであっても、些か宮中では穏やかではなかったようですね。

 それでは、学習ポイントを見てまいりましょう。パルガル=イブラヒム=パシャ、バルバロッサ、ヒュッレム=ハセキ=スルタン、ソコルル=メフメト=パシャといった、スレイマン1世に関わる人たちを受験で書かせることはないと思います。スレイマン=モスクを建造したスィナンも"シナン"の表記で記載されていますので要注意ですが、むしろ書かせる問題は稀で、どちらかと言えば、シナンが登場すると、スレイマンの時代であり、スレイマン=モスクを書かせる(または選択させる)問題が出題されるケースはあると思います。
 プレヴェザの海戦はオスマン海軍の勝利です。交戦相手はスペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊です。1538年も覚えましょう。語呂合わせで"一行惨敗(いっこうざんぱい→1538)プレヴェザ海戦"などと覚えたこともございますが、良ければご利用を(惨敗とは、もちろん戦敗した連合艦隊を指します)。
 あと、スレイマン大帝が在位した時期(1520年から1566年)、ヨーロッパでは絶対王政期に徐々に確立しつつある時期でもあります。イギリスはテューダー朝(1485-1603)のヘンリ8世時代(王位1509-47)、エドワード6世時代(王位1547-53)、メアリ1世時代(王位1553-58)、エリザベス1世時代(王位1558-1603)の間で、豪華絢爛な時代です。フランスはヴァロワ朝(1328-1589)からブルボン朝(1589-1792,1814-30)へと移る時代で、ヴァロワ朝では前回登場のフランソワ1世(王位1515-47)、シャルル9世(1560-74)、アンリ3世(王位1574-1589)ら、ブルボン朝では創始者のアンリ4世(位1589-1610)といった、こちらも豪華です。ハプスブルク家では、前回登場の神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝カール5世(帝位1519-1566。スペイン王カルロス1世。王位1516-56)、フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝位1556-64)、そしてスペインのフェリペ2世(スペイン王位1556-98)という面々です。有名所が集まる時代であるだけに、横のつながりもしっかりチェックしておく必要がありますね。

 また新課程では、徴税請負から発展したアーヤーンと呼ばれる地方権力者も用語集として登場しています("徴税請負制"も記載)。マイナー分野ですが、余裕があれば知っておくと得です。このアーヤーンはのちにも登場しますので、徴税請負と合わせて、おぼえておいて下さい。

 さて次回、これまでの輝かしい戦歴を誇ったオスマン帝国ですが、大きな変化へと向かいます。プレヴェザ海戦に続く、あの大海戦も登場し、国家は新たな展開へ!

【外部リンク】wikipediaより

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。