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世界史の目

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ギャラリー

第255話


運命の1989
~東欧の民主化~

 ドイツ連邦共和国西ドイツ1949.5.23-1990.10.3。首都ボン)は、ヘルムート=シュミット首相(任1974.5-1982.10)のドイツ社会民主党SPD)とドイツ自由民主党FDP)の連立政権のもと、フランスと協力して設立したヨーロッパ理事会(1974設立)やヨーロッパ(諸)共同体EC)での西欧との連携、アメリカとの関係強化といった国際路線を歩んだ。ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦。1922-91)とは1970年締結のモスクワ条約(1970.8。ソ連・西ドイツ武力不行使条約)以降経済協力が進み、1975年のヘルシンキ宣言における国際社会の協調で、冷戦体制からの緊張緩和(デタント)はすすみ、冷戦終結は急速に解決へ向かうと思われた。
 ところが、1979年にソ連がアフガニスタン紛争(1978-89)での軍事介入をきっかけに、アメリカも北大西洋条約機構NATO)に軍事面での協力を増大化させるなど軍拡計画を露わにしたことで、デタントは停滞、再び緊張が走った。この結果は西ドイツのシュミット政権も少なからず影響を見せ、野党に回っていたヘルムート=コール党首(党首任1973-98)の率いるキリスト教民主同盟CDU)の猛烈な勢力増加に苦しんだ。そして、政権内においてもSPDとFDPとの政治的見解の相違が表面化し、FDPはSPDと決別、CDUと同調姿勢を見せた。結果不信任が決議されたシュミット内閣は1982年に瓦解(シュミット首相退任。1982.10)、コールが首相に就任した(首相任1982.10-98.10。コール首相就任)。CDUが与党に復帰し、FDPとの連立政権が始まった。

 一方、ドイツ民主共和国東ドイツ1949.10.7-1990.10.3。首都は東ベルリンだが、東側では単に"ベルリン"とした)では、国家元首をつとめるドイツ社会主義統一党SED)書記長エーリッヒ=ホーネッカー国家評議会議長任1976.10-1989.10。SED書記任1971-89。国防評議会議長任1971-89)が国家的な中心人物であった。政治的には前議長で首相(閣僚評議会議長)に再任したヴィリー=シュトフ(議長任1973.10-76.10。首相任1964-73,76-89)が政権の中心であったが、実質的な権力者はホーネッカーであった。

 当時の東側諸国は、中心であるソ連と、その衛星国を中心に構成されていた。ここでの衛星国とは、それぞれ独立した主権国家でありながら、ソ連という強い支配力と影響力のある大国に付き従っている国家のことをいい、当時の東ドイツをはじめとして、チェコスロバキア社会主義共和国(1948-89。1960年までチェコスロヴァキア共和国)、ハンガリー人民共和国(1949-89)、ルーマニア社会主義共和国(1945-89。1965年までルーマニア人民共和国)、アルバニア社会主義人民共和国(1946-92。1976年までアルバニア人民共和国)、ブルガリア人民共和国(1946-90)、ポーランド人民共和国(1952-89)、モンゴル人民共和国(1924-92)などの社会主義国が挙げられる。かつては、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国(1945-92。1963年までユーゴスラヴィア連邦人民共和国)も、1948年にコミンフォルム(1947-56。共産党・労働者党情報局。コミンテルンの後身)から除名を受け離脱するまではソ連の衛星国であった。

 この衛星国で、民主化運動にいち早く目覚めたのはポーランドであった(ポーランド民主化運動)。1978年、第264代ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世が即位(位1978-2005)したが、教皇はカトリック国のポーランド出身であった。ヨハネ=パウロ2世はまさに"空飛ぶ教皇"の異名をとるにふさわしく、異教、非カトリック関係なく、積極的に世界各地を歴訪、平和をうったえた教皇として知られ、20年余の間に100カ国以上の訪問を行った。1979年に故国ポーランドの首都ワルシャワの訪問では熱烈な歓迎を受けた。この結果は自由と平和をうったえる国民の心をくすぐり、民主化が叫ばれるようになっていった。
 当時のポーランドでは、統一労働者党(PZPR)による共産主義政権が一党独裁の国家主導を行っており、労組も国家に認められなければならなかったため、労働者は反体制運動を続け、民主化を叫んだ。ヨハネ=パウロ2世訪問から1年経ち、政府が食料品価格の値上げを発表(1980.7)した翌日から全国規模でストライキが発生、グダニスク(旧名:ダンツィヒ)やドイツ国境のシュチェチンでは反政府派らによる「連合委員会」を発足させて労組の自由化を目指し運動をおこした。政府との何度も交渉の末、反政府派の連合委員会は1980年9月、ソ連の衛星国で、社会主義圏から初めて、共産主義/社会主義政権から独立した大規模な自由労働組合を誕生させた。これを独立自主管理労働組合連帯」(略称:NSZZ)と呼び、初代議長レフ=ワレサ(正式には"レフ=ヴァウェンサ"。議長任1980-90)がその中心であった。政治経済的民主化を主張した「連帯」は、規模が拡大化し、1000万人近い組織となって民主化運動の精神的支柱となった。直後に首相に就任した統一労働者党第一書記で国防大臣のヴォイチェフ=ヤルゼルスキ(首相任1981.2-1985.11。書記長任1981.10-89.7。国防大臣任1968.4-83.11)はこれらを反政府派分子として厳しく弾圧し、1981年末に戒厳令(1981-83)をしいて「連帯」非合法化を発表、ワレサ議長も拘束された(のちに釈放)。その後も「連帯」は民主化運動を続け、反政府派として抵抗を続けた。ヤルゼルスキは権限を伸ばして1985年11月に首相を辞任、国家元首(国家評議会議長。任1985.11-89.7)となり、翌1986年6月に行われた統一労働者党大会では国家の正常化を主張したが、経済停滞はその後も続き、1987年2月には食料価格のさらなる値上げが決まったことで、大規模なストライキが続発した。
 ヤルゼルスキが国家元首となった1985年、ソ連ではソ連共産党の書記長(正しくは"中央委員会書記長")として、ミハイル=ゴルバチョフ(書記長任1985.3-91.8)が就任、共産党一党独裁体制からの見直しとして、国内政治の大改革、いわゆる「ペレストロイカ」と情報公開「グラスノスチ」が実践されたが、これがロシア国民にとっては大きな民主化運動につながっていき、東欧諸国にもその波が押し寄せていった。

 ポーランドでは1989年2月から4月にかけて政府代表(チェスワフ=キシチャク内務大臣。任1981.7-90.7)と「連帯」代表(ワレサ議長)が会談・協議を行い、円卓を囲んで対談形式で行われた(円卓会議)。この会議はテレビなどを通じて放送された。ここでワレサは「連帯」の合法化、言論の自由化、二院制の議会体制、国民の参政権緩和、権限のある大統領職の新設などを中心とする民主化を政府にうったえた。ソ連の政情もあったためポーランド政府も「連帯」側の要求に歩み寄りを見せ、結果4月に選挙法の改正が決まり、「連帯」の合法化が認められた。1989年6月に上院(セナト)下院(セイム)の議員選出のための選挙を行うことが決まった(1989.6。ポーランド議会選挙)。セイムは全460議席のうち、統一労働者党およびその支持政党が299議席を事前に配分されるが、残りの161議席は新たに設けられた"自由選挙枠"で選出され、新設のセナトは全100議席が自由選挙枠となった。部分的ではあるが、民主化の波が押し寄せる社会主義圏で、自由選挙が実現できたのである。

 選挙の結果、セイムの自由選挙161議席すべてと、セナト全100議席中99席が、当選した「連帯」の支持する候補者で埋まる大勝利を得て、非共産党系の政権が誕生した。ポーランドの民主化運動はこの結果で示されたのである。「連帯」派はただちに会派「市民議会クラブ(OKP)」を結成、のちにポーランド国立銀行総裁となる経済学者レシェク=バルチェロビッチ(総裁任2001-07)による、インフレ収束のための経済民主化政策「バルチェロビッチ=プラン」に取りかかった。ヤルゼルスキは国家元首から退き(1989.7)、初代大統領として選出され就任(ポーランド人民共和国大統領任1989.7-89.12)、1989年12月29日、統一労働者党の一党独裁体制が破棄され、社会主義国であったポーランド人民共和国が消滅、新たにポーランド共和国ポーランド第三共和国)が成立した。ヤルゼルスキは1990年12月に大統領職を退任(ポーランド共和国大統領任1989.12-90.12)、2代目大統領としてワレサが就任した(ワレサ大統領就任。任1990.12-95.12)。ポーランドはNATO加盟(1999)、EU加盟(2004)を果たしていく。

 このポーランド民主化運動を契機に、ハンガリーでも1988年に社会主義労働者党(MSZMP)のヤノシュ=カダル(第一書記任1956.10-88.5)、それに続くカーロイ=グロース(第一書記任1988.5-89.10)らが、社会主義政策を終わらせる政治改革を始めた。代表的な改革は、隣国オーストリアとの鉄条網で封鎖された国境線の開放である。1989年5月に鉄条網の撤去が行われた。ハンガリーの国民のために開かれたこの国境であったが、1989年8月、1000人に及ぶ東ドイツ国民がなだれ込み、オーストリアを超えてこれを経て西ドイツに亡命する事態となった(この事態は"ヨーロッパへのピクニック"と呼ばれた。「ベルリンの壁」が東西ドイツ間に存在する意味が問われることになる)。1989年10月、社会主義労働者党は党大会でハンガリー社会党へと改名し、人民共和国の一党独裁体制に別れを告げ、"ハンガリー共和国(別名「第三共和国」)"の誕生となった。ポーランドと同様、NATO加盟(1999)、EU加盟(2004)を成し遂げた。

 またバルカン半島にあるブルガリアにおいても、ブルガリア共産党の一党独裁体制が続いていたが、1989年11月10日には、35年間党書記長を務めたトドル=ジフコフ(ブルガリア国家評議会議長任1971-89、共産党書記長任1954-89)が書記長を辞任、1週間後の17日には国家評議会議長を辞任した。1990年2月に共産党は一党独裁を放棄してブルガリア社会党となり、11月に"ブルガリア共和国"となった。

 チェコスロバキアでもチェコスロヴァキア共産党の一党独裁体制であったが、東ドイツ国民のピクニック事件を契機に、チェコスロヴァキア国内でも東ドイツ国民がなだれ込んだ。しかし東ドイツのホーネッカー議長は事態を重く見なかったため、1989年9月、東ドイツのライプチヒ(ザクセン州)において8000人にも及ぶデモ隊が、社会主義歌の"インターナショナル(The Internationale。かつては戦前のソ連国歌でもあった)"を口ずさみながら市内を行進、日ごとに民主化を叫ぶ東ドイツ市民が顕著となり、デモは拡大化していった。彼らは、政治、経済、社会などあらゆる東ドイツ国家体制の批判を行い、民主化を志した。1989年10月には、東ドイツ建国40周年式典が行われた一方で、デモの規模もひと月でおよそ100倍にふくれあがった。ホーネッカーは武力でデモを抑えるよう党内に指示したが、ドイツ社会主義統一党(SED)内でもホーネッカーに対する批判と民主化移行を望む声が噴出しており、軍もホーネッカーの指示を拒否、ソ連軍も動かなかった。1989年10月17日、ホーネッカー議長は党の政治局会議の進行を行った際、シュトフ首相により議長の書記長解任を提案され、満場一致で解任が可決された。翌10月18日、ホーネッカーは議長、書記長ほかすべての職を退いた(1989.10東ドイツ、ホーネッカー退陣)。11月7日にはシュトフ内閣も総辞職した。これまで国家評議会副議長だったエゴン=クレンツ(副議長任1984.6-89.10)が国家評議会議長とSED書記長に就き(任1989.1-89.12)、SED党員ハンス=モドロウ・ドレスデン地区第一書記(任1973-89)が首相に就任することが決まった(任1989.11-90.4)。そして新体制となった東ドイツで同月、国外への出国規制緩和の法案が中央委員会にて発表されたのである。実際は11月10日にその規制緩和の暫定措置として記者会見発表されるはずであったが、前日である9日、記者会見に臨んだSED党ベルリン地区第一書記(任1985-89)だったギュンター=シャボフスキー(1929-2015)があやまって"ベルリンの壁を含めた、すべての国境通過点で出国がただちに緩和される"と会見したことで、正式に閣議決定されることとなった。

 冷戦の象徴と言われたベルリンの壁は、分断されたベルリン中央のチャーリー検問所(チェックポイントチャーリー)をはじめとする国境検問所によって強力な監視体制がしかれ、東ベルリン側の壁周辺には東ドイツの国境警備隊が厳重な警備で見回っていた。そして、建設されてからこの日まで悲劇的な事件が数多く起こされてきた。
 まず建設が始まって間もない1961年8月、ギュンター=リトフィン(1937-61)という24歳の青年に悲劇が起こった。彼は東ベルリン出身だが、西ベルリンの服飾店で働いていたため、西ベルリンでの移転を考えていた。しかし壁の建設で東西ベルリンは分断されることが決まり、リトフィンは仕事と住む家を強制的に失われることになった。リトフィンは8月24日、壁を乗り越えられる場所を調べるために近くの運河周辺を探っていたが、東ドイツの国境警備隊に見つかり、制止を命じられた。しかしリトフィンはこれを振り切って運河に飛び込んだため、警備隊に狙撃されて死亡した。西ドイツでは、彼の死を悼み、壁構築によって起こされた悲劇として、射殺を正当化する東ドイツ側を非難した。
 さらに翌1962年8月、18歳の東ドイツ煉瓦職人ペーター=フェヒター(1944-62)が、家族のいる西ドイツへ逃げることを決め、仲間と壁を乗り越えようと試みたところ、国境警備隊に制止を命じられた。しかしフェヒターはこれに従わず必死に乗り越えようとしたが、警備隊によって背中を狙撃され、そのまま転落し、死亡した。
 そして1989年、同様の事件が起こった。新体制となった東ドイツがシャボフスキー会見で国境通過の緩和を発表した日からおよそ9ヶ月ほど前、2月6日未明のことだった。ちょうどこの日は東ヨーロッパでいち早く民主化の第一歩を踏みしめたポーランドで、政府と"連帯"の代表による円卓会議前述)が開催される日であった。この日、東ドイツにあるホテルの給仕人として働いていたクリフ=ギュフロイ(1968-89)なる20歳の青年は、東ドイツの体制に不満を募らせており、1989年2月5日夜、友人と脱出を決めたが警備隊に発見され、警備隊は2人を狙撃、ギュフロイは胸を、彼の友人は足を撃たれた。友人は助かったが、日付が6日に変わった深夜、ギュフロイは死亡が確認された。これにより、西ドイツをはじめ西側諸国の東ドイツへの非難はますます強まっていった。ホーネッカー退陣を加速させるきっかけにもなった。

 シャボフスキー会見後の1989年11月9日、東西のベルリン市民が「ベルリンの壁」の周辺に集まり始めた。国境検問所が次々とゲート・オープンし、東ベルリン市民は歓喜と拍手にまみれて西ベルリンになだれ込んだ。そして翌10日未明、ハンマーやつるはし、重機を用意した市民によって、ベルリンの壁は壊されていき、東西ドイツ間の交通制限、出入国制限は解除された(1989.11ベルリンの壁崩壊ベルリンの壁開放)。社会主義というイデオロギーが崩壊した東ドイツは、いっきに存亡の危機に立たされた。

 12月3日、地中海のマルタでアメリカのジョージ=H=W=ブッシュ大統領(任1989-93)と、ソ連共産党書記長ミハイル=ゴルバチョフ(任1985-91)による米ソ首脳会談、いわゆるマルタ会談が行われた(1989.12.2-12.3)。これによって、1945年2月のヤルタ会談によって構築されたヤルタ体制に端を発した冷戦構造は、44年の歳月を経て、終結を迎えることとなった。

 壁崩壊後、西ドイツのコール首相は東西ドイツの統合に向けて動き出し、1989年11月28日には東西統一にむけて10項目のプログラム構想を発表した。一方、東ドイツの社会主義指導政党であるSED(ドイツ社会主義統一党)は、東ドイツ憲法で第1条に明記される"労働者階級およびそのマルクス=レーニン主義政党の指導下に置かれる"という条項によってこれまで守られていたが、同年12月1日にモドロウ政権の下でこの条項の部分がそっくり削除され、SEDはSED-PDS(社会主義統一民主社会党)と改称、一党独裁体制を終わらせる宣言を行った(その後PDSに変更。民主社会党)。またクレンツは国家評議会議長を退き、東ドイツ自由民主党(LDPD)の党首で国家評議会副議長のひとりであったマンフレート=ゲルラッハ(党首任1967-90。副議長任1960-89)が議長に選出された(議長任1989.12-90.4)。
 ホーネッカーが退陣し、ベルリンの壁が崩壊したことをうけ、東ドイツ国民の移入が急増していたチェコスロヴァキアでも民主化デモが拡大化し、共産党の一党独裁体制を放棄(1989.11。ビロード革命。ヴェルヴェット革命。他国の革命と違い、非暴力的な革命であったとしてこの名がある)、12月10日、大統領グスターフ=フサーク(第一書記任1969.4-87.12。大統領任1975.5-89.12)も退任した。
 東欧の共産圏が次々と倒れる中、ルーマニア共産党書記長であるニコラエ=チャウシェスク(任1965.3-89.12。大統領任1974.3-89.12)の独裁が続いたルーマニアにおいても12月22日、革命が起こされ(ルーマニア革命1989.12)、チャウシェスク夫妻および支持幹部は次々と逮捕・拘束され、死刑判決を受けた夫妻は25日、銃殺刑に処された(チェウシェスク処刑1989.12)。ルーマニア社会主義共和国は"ルーマニア"の国名となり、2007年にEUへ加盟した。また東欧ではないが、モンゴル人民共和国でも民主化運動が発生し、ジャムビン=バトムンフ・モンゴル人民革命党書記長(任1984.8-90.3)が改革に着手、書記長を辞任し、一党独裁体制から複数政党制へと移行していった。1992年にモンゴル人民共和国は"モンゴル国"と改称された。

 こうして、東欧の社会主義圏は各国の民主化運動によって次々と消滅の一途をたどっていった。1989年東ヨーロッパにおこった一連の出来事をまとめて東欧革命という。

 一党独裁体制が崩壊した東ドイツでは、翌1990年3月に人民議会議員を選出する選挙が行われた。もはや社会主義政党の指導の下で行われる選挙ではなく、自由選挙であった。開票の結果、東ドイツ・キリスト教民主同盟(東ドイツ側のCDU)がドイツ社会同盟(DSU。1990年1月創設の反共・保守系政党)および民主主義出発(DA。1989年10月創設の反共・保守系政党)と組んだ政党連合("ドイツ連合")が400議席中、計192議席を獲得する躍進を遂げ、かつてのSEDが改称したPDS(民主社会党)は66議席にとどまった。東ドイツのCDUは、西ドイツCDU党首であるコール首相の激励も大きなバックサポートとなった。自由選挙後の4月、ゲルラッハ国家評議会議長とモドロウ首相が辞任、改憲によって国家評議会の廃止が決まり、人民議会議長ザビーネ=ベルクマン=ポール(任1990.4-90.10。東ドイツ側CDU)と新首相兼新外相ロタール=デメジエール(任1990.4-90.10。東ドイツ側CDU)によって、残された東ドイツの体制と、早期の西ドイツとの統一に向けて力を尽くした。7月1日には西ドイツ・コール首相の働きかけで、通貨統合が行われ、東ドイツマルクはドイツマルク(西ドイツの通貨単位)に統合された。翌日、東西ドイツ統一樹立への条約締結に関する協議が行われ、1990年10月3日において、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に編入される形で統一することが決まった(ドイツ統一条約。調印は1990年8月31日)。ドイツでは最初の統一を1871年のドイツ帝国(1871-1918)の成立を指すため、この条約は"再統一"の条約である。

 ドイツ再統一は9月12日に調印した、ドイツ最終規定条約(2プラス4条約)でもって、完璧となった。東西ドイツとベルリンはもともと米英仏ソの4カ国による分割管理領域であったため、完全な主権回復と、現存の国境維持を決める必要があった。東西ドイツ2カ国と米英仏ソ4カ国の条約である(発効は1991年3月15日)。国境に関しては、戦後に米英仏ソによって放棄させられたオーデル=ナイセ線(戦後ドイツとポーランドの国境とされた線)以東の東方領土を完全に放棄することを東西ドイツが認めることとなり、ドイツとポーランド間では別に国境条約を後に締結した(1990年11月14日調印。1992年1月16日発効)。

 こうして1990年10月3日、西ドイツの憲法であるボン基本法(1949制定)の第23条(ヨーロッパ連合への協力事項)に基づいて、ドイツ再統一は実現した(ドイツ再統一)。東ベルリン市も西ベルリンに編入され(ベルリン統一)、ベルリン市として統一ドイツの首都として定められた(2001年5月にボン市からの政局移転が完了し、首都ベルリンとして完全復帰)。

 1953年6月17日に東ベルリンで発生した暴動(ベルリン暴動)の時、西ドイツは東ドイツ国家に盾突いた当時の東ドイツ市民を大いに称え、"ドイツ統一の日"という祝日を設置した。1990年10月3日を迎えて、6月17日の祝日は10月3日に変更され、新たな"ドイツ統一の日"として、ドイツ連邦共和国の建国記念日となった。

 そしてドイツ再統一から1年、ソ連は1991年8月19日に起こった8月クーデター(1991.8)を契機に共産党は解散(1991.8)、ソ連を構成する全共和国の独立宣言、特にバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)がいわゆる"歌う革命(1987-91)"によってソ連から独立しこれを承認(1991.9。バルト三国独立回復)、12月21日、ソ連は解体を迎えることになる(ソ連消滅1991.12)。東欧社会主義圏を消滅させた、東欧革命達成後の最大の波及であった。これに対し西側は、1991年12月9日、オランダのマーストリヒトにおいて、ヨーロッパ(諸)共同体EC)の加盟国による欧州連合条約マーストリヒト条約)締結に向けての協議が行われ、翌1992年2月7日に調印され、翌々1993年11月1日に発効、欧州連合(European United。EU)が誕生した。東西ドイツ再統一後、ヨーロッパ全体もまた、統合へ向かって前進していくのであった。


  ヨーロッパでいう本当の近代史の終点および現代史の出発点がこの"東欧革命"です。スペースの都合で革命の内容をすべてご紹介できませんでしたが、前回のお約束通り、ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一を中心に、ポーランドその他の東欧諸国も随所に織り交ぜて、ご紹介しました。この時代は私が成人になったころの出来事であり、メディアでも大いに報道されたのでよく覚えています。当時の大学受験にはリアルタイムの内容のため、受験範囲からは当然出題されることはあまりございませんでしたが、当然のことながら現在では歴史分野や現代社会においての重要な時代として出題も珍しくなくなっております。

 さっそく大学受験の世界史学習ポイントを見て参りましょう。東欧革命という用語は、現在では"東欧社会主義圏の消滅"と置き換えられている用語集もありますが、ポーランドではワレサ率いる自主管理労組"連帯"とヤルゼルスキ率いる政府とのバトルから、1989年6月の自由選挙実現によってヤルゼルスキの辞任とワレサの大統領就任るまでの過程、ルーマニアではチェウシェスクの処刑等が出題されやすいです。ただ厳密な詳細を把握するより、まず、ポーランド"連帯"関連ではワレサとヤルゼルスキ、ルーマニアではチェウシェスクが出てくればよろしいでしょう。

 そしてメインのドイツですが、まず人名では西ドイツのコール首相は絶対に覚えましょう。東ドイツではホーネッカー(一部用語集ではホネカー)の退陣が重要です。その他の人物(シュトフ等)は出題されることは非常に稀ですが、2015年11月1日、ベルリンの壁の崩壊を加速させた会見でその名が知られたギュンター=シャボフスキー氏がお亡くなりになっています。

 ベルリンの壁開放は1989年、東西ドイツの統一は1990年、そしてソ連の消滅は1991年です。この3つの年代はとても重要です。中学社会においても取り上げられますので、受験生は必ず知っておきましょう。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。