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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第269話


輝く戦歴・その6
~和平の代償~

  1. その1 "誕生と成長"はこちら
  2. その2 "帝国軍躍進"はこちら
  3. その3 "大家との遭遇"はこちら
  4. その4 "同志たちの最期"はこちら
  5. その5 "ターニング・ポイント"はこちら

 第二次ウィーン包囲(1683)の失敗による大トルコ戦争(1683-99)の敗戦、そしてカルロヴィッツ条約(1699)の締結によるハンガリー喪失、イスタンブル条約(1700)におけるロシアのアゾフ権益承認によって、国際的に劣勢に立たされたオスマン帝国(1299-1922)。オスマン帝国が大国ロシア(ロマノフ朝。1613-1917)と敵対することで、新たな時代を迎えようとしていた。

 アゾフ戦線における露土戦争(第3次露土戦争。1686-1700)は、大トルコ戦争の内の一戦としてロシア相手に戦ったが、その相手国のロシアは大帝ピョートル1世ツァーリ位1682-1725。1721年よりロシア皇帝として統治する帝政ロシアとなる。ロシア皇帝位1721-25)の治世下であった。ただしピョートルがまだ14歳で、兄と共同統治で、摂政は姉がつとめていた。1694年にピョートルは親政をはじめ、1696年に兄が没し、単独統治となった。黒海への南下を求めたピョートルは翌1695年にアゾフ遠征を敢行、オスマン帝国のアゾフ要塞を包囲したが、オスマン帝国海軍の抵抗が強く苦戦した。アゾフ戦線におけるオスマン帝国との戦いは、ピョートル大帝にとってとても考えさせられた一戦で、絶頂期を過ぎたオスマン軍であっても打ち崩せなかったこと、アゾフ要塞を包囲しても海からの攻撃を防げなかったことなど、根本からの改革を余儀なくされた。そこでピョートルは海軍の必要性を主張、アルハンゲリスク(ロシア北西部)に造船所を築き、ロシア帝国海軍を創設、翌1696年に仕切り直して陸海両軍で挑み、アゾフ要塞陥落を成功させたのである。アゾフ陥落により、黒海北東の内海であるアゾフ海から、黒海への南下が可能となった。

 わずか1年で強力な海軍を築き上げたピョートル大帝が指揮をとるロシア帝国は、オスマン帝国にとっては大きな脅威であった。こうした中で1703年、第23代オスマン皇帝としてアフメト3世(1673-1736)が即位した(帝位1703-30)。 領土の喪失、社会の不安定、財政の逼迫、政局の混乱、そしてイェニチェリを中心とする軍事力の低下と政局への批判といった、問題が山積した中での即位であった。アフメト3世にとっては、強敵ロシアへの対策はもちろんのこと、前皇帝で兄のムスタファ2世(メフメト4世の子。位1695-1703)が残したエディルネ事件(1703)の爪跡に対する修復作業が先決と考え、宮廷や政府に怒りや不満を投げつけるイスタンブル市民やイェニチェリへの対応に迫った。皇帝に取り入って一族を要職に就かせていたシェイヒュル=イスラム(イスタンブルのムフティー)のメフメト=フェイズッラー=エフェンディ(1639-1703)に対しては、一族の資産を没収、要職から外した。イェニチェリに対しては、グルジア(ジョージア)遠征の際に従軍した際の未払い給与分をフェイズッラー一族の資産で補填し、イスタンブル市民に対しては、エディルネへの遷都はないことを強固に伝え、宮廷をイスタンブルに戻した。これにより、エディルネ事件によって発生した騒動は収束に向かった。

 続く対外政策では、ロシアのピョートル1世がスウェーデン王国プファルツ朝(1654-1720)のカール12世(スウェーデン王位1697-1718)を相手にバルト海の覇権を争う北方戦争(大北方戦争。1700-21)で交戦中であったが、この戦争にオスマン帝国が巻き込まれる形でロシアと交戦した。1710年に始まったこの露土戦争(第4次露土戦争。1710-11)は"プルト川の戦い"と呼ばれる(プルト川は現在ウクライナ、ルーマニア、モルドヴァの境界河川)。結果、ロシア軍は作戦面で失敗し、7月のプルト川は猛暑ということもあって、戦局を有利に導いたオスマン帝国側が勝利を収め、プルト条約をロシアと結び、アゾフを奪還した。アフメト3世の治世下では、対露戦としては順調なスタートを切り、プルトの戦役でピョートル大帝も捕虜となる一歩寸前まで差し掛かったが、辛くも逃げおおせた。また、モルダヴィアやワラキアといった、オスマン帝国に属していたルーマニア地方一帯もプルト川の一戦では、反旗を翻してロシア側についていたが、これらも鎮めた。

 アフメト3世の治世下では、大宰相(ウル=ヴェジール。宰相を意味するヴェジール(ワズィール)の筆頭格)は安定せず、短命政権が続いた。外交面ではロシアの脅威は和らいだが、海の覇権で争うヴェネツィアヴェネツィア共和国。697-1797)とはペロポネソス半島をめぐって対立が深まり、オスマン帝国とヴェネツィア共和国との間で戦闘が再開された(1714-18)。対ヴェネツィア戦では同半島やクレタ島で交戦、戦局はオスマン帝国が有利であった。しかしヴェネツィアを支援していた、オスマン帝国における長らくの敵で"クズル=エルマ("赤いリンゴ"の意味で、西欧のこと)"の代表格であるハプスブルク家(国家としてはオーストリア。当時はオーストリア大公国。1457-1804)もこの戦争を契機に、ヴェネツィア側について参戦した(墺土戦争。1716-18)。墺土戦争における敵陣の総指揮は、大トルコ戦争(1683-99)で指揮を務めオスマン軍を敗北させたプリンツ=オイゲン(1663-1736)であった。一方オスマン大宰相であったシラーダー=ダマト=アリ=パシャ(大宰相任1713-16)は4万のイェニチェリを中心に軍を指揮し、セルビア北部のペーターヴァルダイン(ペトロヴァラディン)で激戦を展開したが、オイゲン率いるオーストリア軍に撃破され、シラーダー=ダマト=アリ=パシャはあえなく戦死、1717年夏にはベオグラード(現セルビア首都)もオーストリア軍に包囲され、同市は陥落した。このベオグラード包囲戦を勝利に導いた主将のプリンツ=オイゲンは、オーストリアでは英雄と讃えられた。

 ヴェネツィアおよびオーストリアとの戦役は、中央セルビアのパッサロヴィッツ(現ポジャレヴァツ)で講和となり、オスマン帝国は対ヴェネツィアではペロポネソス半島の維持は果たせたものの、対オー-ストリアではワラキア西部のティミショアラ(現ルーマニア西端)やベオグラードなどセルビア北部を失った(パッサロヴィッツ条約。1718年)。バルカン半島の支配域が縮小したオスマン帝国は、カルロヴィッツ条約(1699)の屈辱に続く、軍事力の衰退を再度国際的に知らしめることになった。しかしアフメト3世は、自身の治世ではエディルネ事件解決を端緒に、民への信頼回復を重要課題としていたことで、民衆社会の安定をつかむために領土喪失と引き替えににもたらされた和平社会を現出することに力を尽くした。アフメト3世は、彼の娘ファトマ=スルタン(1702-33)を妻に持つ大宰相ネヴィシェヒルリ=ダマート=イブラヒム=パシャ(任1718-30)とともにパッサロヴィッツ条約により安定した外交関係と国内和平を中心に諸政策をすすめた。これまでは西欧との親交はフランスが中心であったが、ロシアやオーストリアといったかつての敵国に使節を積極的に派遣して修好を結び、さらなる異文化交流が行われた。一方で1719年、トルコ北西部のイズミット(旧名ニコメディア)を震源におこった大地震(イズミット地震)で首都イスタンブルも甚大な被害をもたらしたが、イブラヒム=パシャはこれを契機にイスタンブルの再開発に尽力、社会インフラの修復改善を基盤に、造幣所および貨幣鋳造所の設置、印刷所の開設、西洋風の木造建築物の増設などを行った。
 また当時の宮廷がチューリップ鑑賞および栽培を好む傾向にあり、八百数十種にもおよぶチューリップがオスマン帝国で登録された。そもそもチューリップは西アジアやアナトリアなどが原産で、17世紀(特に1630年代)ではオランダ(当時はネーデルラント連邦共和国。1581-1795)を中心とするオスマン帝国産のチューリップが西欧で人気となり、ヨーロッパでのチューリップ球根の価格が急騰する、"チューリップ=バブル"現象がみられたが、西欧にもたらされたチューリップ栽培の文化が、異文化交流の1つとして逆輸入され、オスマン帝国にも富裕層を中心にチューリップ栽培が流行した。ただし、ヨーロッパのようなバブル高騰を回避するため、公定料金化されて市場は安定した。こうしてチューリップの流行はオスマン帝国にとって、平和の象徴となった。アフメト3世時代の、パッサロヴィッツ条約以降のオスマン帝国は戦乱が抑えられると同時に軍事支出が減退した分、財政は社会資本に充てられたことで、社会は安定して首都イスタンブルは華やぎ、アフメト3世の治世後半はチューリップ時代(1718-30)と呼ばれた。イブラヒム=パシャ大宰相もこの社会や文化に浸り、文芸や芸術を手厚く保護した。
 しかし、この華やいだ時代はある人物によって急激に打ち砕かれた。その人物はパトロナ=ハリル(1690?-1730?/1731?)という、アルバニア出身の元イェニチェリであった。アフメト3世の治世、戦争のない平和な時代を現出したネヴィシェヒルリ=ダマート=イブラヒム=パシャ大宰相であったが、イスタンブルを中心に、このチューリップ時代を謳歌する市民もいれば、これに反対する市民もいた。つまり反体制派はイブラヒム=パシャ大宰相、そしてアフメト3世の現出した豪勢な治世が、厳粛なイスラーム社会に定着せず、イスラム法にも反するというのである。パトロナはまさしく後者のチューリップ時代反対者で、しかも平和路線で激減した兵役に対する不満もあり、大多数のアルバニア人イェニチェリがパトロナの志に従った。

 こうした中で、1723年、全盛期が過ぎ去ったペルシアのサファヴィー朝(1501-1736)の混乱が激化、アフガニスタンの勢力(ホタック朝。1709-38)によって首都イスファハン陥落し、名目上の存在になった。こうした状況をみた和平派のイブラヒム=パシャ大宰相はペルシア侵攻を決断した。
 イブラヒム=パシャ大宰相は平和的外交の行政は手腕を発揮するが、軍事の扱いは慣れておらず、長らく戦歴を空欄にし、勘が鈍っていたイェニチェリを操るもうまくいかず、1727年ペルシア西部のハマダーンで条約を締結した。外交的にはイブラヒム=パシャ大宰相の尽力で勢力縮小はなかったものの、軍事力では圧倒的にアフガニスタン勢力の方が上であり、外交に勝って軍事に負けた形が浮き彫りとなった。直後にペルシアではサファヴィー朝完全打倒とアフガニスタン勢力の阻止を図って立ち上がったナーディル=クリー=ペグ(1688-1747)の勢力がオスマン帝国軍と一戦を交えることになり、戦争が長期化に突入すると(1730)オスマン帝国軍は持ちこたえられず劣勢に立たされていった。こうした中で登場したパトロナ=ハリルはイスタンブル市民を煽動し、西洋文化排斥と宮廷を批判する行動に出て、市民は暴徒と化した(パトロナ=ハリルの乱。1730)。イスタンブルをはじめ各地は火の海となり、略奪や破壊が横行、チューリップ時代で築き上げた離宮などが破壊された。パトロナはこの乱で殺害されたが、反乱側に身柄を引き渡されたイブラヒム=パシャ大宰相は反乱側の手で処刑され、責任を取る形でアフメト3世も退位した(ネヴィシェヒルリ=ダマート=イブラヒム=パシャ没。アフメト3世退位。1730)。これがきっかけでチューリップ時代は終焉を迎えるが、アフメト3世は王宮であるトプカプ宮殿で幽閉生活を余儀なくされ、1736年に没した。ちなみに没した1736年にはナーディル=クリー=ペグがアフシャール朝ペルシアを建国し(1736-96)、初代君主ナーディル=シャーとしてシャーの位に就いた(シャー在位1736-47)。

 対外戦だけでなく国内で起こった反乱を解決できなかったことで、帝国内においてもはっきりとした軍事の形骸化が浮き彫りとなった。アフメト3世の甥で第24代スルタンに即位したマフムト1世(帝位1730-54)は、パトロナ=ハリルを処刑し、乱を平定した人物で、チューリップ時代で培われた西欧式文化や社会は、以前ほどではないにせよ継続に努め、腐敗し弱体化したオスマン帝国軍の抜本的改革を目指した。しかしロシアと結んだオーストリアと交えた戦争ではオーストリアには優勢であったもののロシアに敗れ、結果外交によってベオグラードを奪還した(1739)。イラン方面では相変わらず交戦が続き、アフシャール朝に代わっても戦闘は長期化するものと思われたが、1747年ナーディル=シャーが家臣に暗殺される事件が起こると、和平を結びペルシアとの戦争はひとまず終わった。その後マフムト1世の治世下では対外戦争はなく平和な時代を迎えた。しかしチューリップ時代と同様、和平が現出されると戦争に出向かないイェニチェリの腐敗を招く悪循環が続き、アーヤーン徴税請負で富裕化した地方有力者)などに権利の売買が行われるなど、実態はかなり悪化していった。

 マフムト1世没後、弟のオスマン3世(位1754-57)、従弟のムスタファ3世(位1757-74)、ムスタファ3世の弟アブデュルハミト1世(位1774-89)と続くが、ムスタファ3世の治世ではロシア皇帝エカチェリーナ2世(帝位1762-96)の治世下にあるロシアとの戦闘が再開し(第6次露土戦争。1768-74)、アブデュルハミト1世がスルタンに即位した時にはオスマン軍は劣勢に立たされており、その後完全に撃破された。数万の軍が玉砕され、勝者であるロシアはオスマン帝国に対し、有利有益な条件を突きつけた。これがキュチュク=カイナルジ条約である(1774。キュチュク=カイナルジは当時はオスマン領ブルガリアにあり、ブルガリア東部)。
 この条約でロシアはアゾフを含む黒海北岸を獲得し、ピョートル大帝がプルトの一戦で残した汚名を挽回した。またロシア商船の黒海自由航行権の獲得、オスマン帝国が1475年から支配していたクリミア半島のクリム=ハン国(15C半-1783)の解放(その後ロシアに併合。1783)、バルカン半島のロシア領事館設置、ルーマニアを構成するモルダヴィアワラキアは、ロシアが同地の正教会教徒の保護権を所有すると明文化された。
 1787年には再度露土戦争が再発(第7次露土戦争)、オスマン帝国は敗戦しヤッシー条約(1792.1。ヤッシーはルーマニア北東部、モルダヴィア中央部)を締結することになり、オスマン帝国は黒海の制海権を完全に失った。一方ロシアは軍船も含めた、黒海の完全自由航行を勝ち取り、黒海沿岸にオデッサをはじめ、港湾都市を次々と建設していった。アブデュルハミト1世は終戦を待たずして没し(1789)、ムスタファ3世の子セリム3世(位1789-1807)が即位した。

 混迷が続くオスマン帝国で、18世紀最後に即位したセリム3世は帝国の近代化政策を継承し、オスマン帝国の軍隊であるイェニチェリに大鉈を振るうことになる。 

主要参考文献:中経出版『オスマン帝国600年史』 設樂國廣監修 齊藤優子執筆


 平和な時代を現出した一方で、軍隊の弱体が始まる、なんとも悪循環なオスマン帝国の18世紀でした。18世紀はロシア帝国が大きく立ちはだかりますが、18世紀前半はピョートル大帝からアゾフを奪還し、後半はエカチェリーナ2世の治世において、黒海をアゾフごと奪われます。その間、軍隊であるイェニチェリは弱体がすすみ、アフメト3世治世における、平和の象徴であるチューリップ時代を迎えたことでイェニチェリの反乱(パトロナ=ハリルの乱)が勃発、その後も軍隊の近代化が図られても思うような成果があがらない状態が続きます。この背景には、発言権や権力だけが強く残った当時のイェニチェリが、宮廷と政府を苦しめる存在となっており、そうする間にもロシアやペルシアやオーストリアなどオスマン帝国の領土を狙う外敵と立ち向かわなければならず、まさに内憂外患状態です。

 さて、今回の学習ポイントを見て参りましょう。大学受験で学ぶ点では、オスマン帝国視点で見た場合、1699年のカルロヴィッツ条約後はチューリップ時代で18世紀が始まる中、ロシアの南下が進み、結果1774年のキュチュク=カイナルジ条約で黒海北岸喪失、制海権を失うといったところで宜しいかと思います。過去にはキュチャク=カイナルジャ条約と合わせてヤッシー条約もおぼえる必要もありましたが、キュチャク=カイナルジャ条約自体がマイナーで、用語集に載るケースも数少ないため、"18世紀、ロシアに黒海を奪われる"といった感じでよろしいかと思います。キュチャク=カイナルジャ条約と響きが似たような条約では、1833年、第一次エジプト=トルコ戦争(1831-33)での、ロシアとトルコ間で1833年に締結され、ロシアはオスマン帝国保護を約したウンキャル=スケレッシ条約がありますが、かつては私大入試でも重要キーワードとして登場しましたが、最近では用語集にも記載されておりません。

 さて次回はいよいよ19世紀の東方問題の犠牲となる時代、オスマン帝国の軍事改革が迷走します。そしてイェニチェリが......「輝く戦歴・第7話<完結編>」をお楽しみに!!

【外部リンク】wikipediaより

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(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。