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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第270話


輝く戦歴・その7
上からの近代化~

  1. その1 "誕生と成長"はこちら
  2. その2 "帝国軍躍進"はこちら
  3. その3 "大家との遭遇"はこちら
  4. その4 "同志たちの最期"はこちら
  5. その5 "ターニング・ポイント"はこちら
  6. その6 "和平の代償"はこちら

 スルタンに即位したオスマン帝国(1299-1922)の第28代皇帝セリム3世(帝位1789-1807)は、衰退が顕在と化した国家の再建に挑み、近代化・西欧化の改革に乗り出した。セリム3世はもともと西欧志向で、当時フランス・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)のルイ16世(王位1774-92)と書簡を交わしたこともあった。セリム3世が即位した1789年には自身が心酔するフランスにおいて勃発した大革命(7月14日)に触発され、傾きつつある我が帝国の再建に取りかかったのである。

 平和な時代と強力なロシアの脅威が交互に訪れた18世紀のオスマン帝国では、軍事力の低下、主としてイェニチェリの腐敗が激化した。過去の戦歴において軍事的成果をあげたことで発言権が肥大、行政介入が高圧的になり、スルタンの廃位や大宰相(ウル=ヴェジール。宰相を意味するヴェジール(ワズィール)の筆頭格)の交代を要求する事態も発生した。そして、平和の象徴であったチューリップ時代(1718-30)を終わらせたイェニチェリ出身のパトロナ=ハリル(1690?-1730?/1731?)の反乱(1730)によって大宰相は殺害され、平和を現出したスルタン・アフメト3世(位1703-30)も退位する結果となった。またイェニチェリは各地方の商業組合(ギルド)やアーヤーン(地方有力者)と結びついて権力売買がすすみ、巨万の富を得る者も現れたり、戦闘時においても戦地の住民への略奪行為を行うなど、ならず者の無頼・無法的な振る舞いにも通じる悪行も顕著と化し、もはやオスマン帝国にとってイェニチェリの存在は大きな障壁であった。
 そこで、セリム3世は改革をまず軍事に向けた。軍人育成のために西欧式陸海軍技術学校を創設したほか、当時のフランス軍を模範に歩兵隊を組織した。これは軍装や兵器だけでなく軍紀軍律まで西欧式に再構成され、"新しい秩序"を意味する"ニザーム=ジェディード"と呼ばれた。
 既得権益を守るイェニチェリや、彼らにより潤っていたアーヤーンなどはこうした軍隊再編を認めるわけがなく、反乱の指導者であったカバクチュ=ムスタファ(1770?-1808。ボスフォラス海峡北端のルメリフェネリを預かる部将)を先頭にイェニチェリの反乱が続発、激化した。この事態に大宰相は退任させられ、セリム3世も廃位させられた(セリム3世廃位。1807年5月。1807年クーデタ)。先代のアブデュルハミト1世(位1774-89)の子ムスタファ4世(位1807-08)が即位したが、反乱勢力は勢いは止められなかった。これにより、ニザーム=ジェディードは活躍の場をなくし、解体となった。スルタンの構造改革は、保守勢力によって挫折させられる結果となった。

 しかしクーデタはこれで終わりではなかった。この背景にはルスチュク(現ブルガリア北部のルセ)を拠点とするアーヤーン出身の将軍バイラクダル=ムスタファ=パシャ(アレムンダル=ムスタファ=パシャ。?-1808)の存在があった。アブデュルハミト1世には成人した息子が2人いて、それがムスタファ4世と、弟のマフムト(1785-1839)であった。しかし宮廷ではマフムトはセリム3世と同様にフランスに心酔しており、セリム3世と同様の治世となって混乱を極めると想定されたため、精神面で不安定ではあったがムスタファ4世の擁立を掲げた。
 バイラクダルは中央のイェニチェリがすでに役に立たないことを悟っており、セリム3世の改革を支持していたことで、ムスタファ4世の即位は不満であった。バイラクダルは将軍としてセリム3世よりドナウ下流域の支配を任されていた。そのため、セリム3世が廃位となったこの時、ムスタファ4世を退かせてマフムト擁立のクーデタを起こす計画を立てた。
 1808年7月、バイラクダルはムスタファ4世の要請に応じて、反乱の指導者でセリム3世を退位に追いやったカバクチュ=ムスタファを粛清し(ちょうどカバクチュ=ムスタファの結婚式の披露宴中に急襲、殺害したとされる)、反乱を鎮めた。しかしバイラクダルの真の目的とは、ムスタファ4世の廃位とマフムトの即位、そして大宰相の座を得ることである。しかし一方のムスタファ4世はセリム3世の治世では君主に忠実であったバイラクダルを見ており、セリム3世の復位を謀って、自身は廃位され殺されるかもしれないという不安に陥っていた。ムスタファ4世はバイラクダルの恐怖から逃れるため、幽閉中であった当事者のセリム3世を強引に絞首刑に処した(セリム3世暗殺。1808)。マフムトへも刺客を差し向けたが、危うく難を逃れた。宮殿に入ったバイラクダルはマフムトを保護し、ムスタファ4世を退位させた(ムスタファ4世廃位。1808.7)。同時にマフムトを第30代皇帝マフムト2世として即位(帝位1808-39)、バイラクダルは大宰相に任じられた(任1808。1808年クーデタ)。
 クーデタを成功させたバイラクダルであったが、手下の軍勢に労をねぎらいルスチュクに帰してしまったことを嗅ぎ付けた反体制派が、1000人ものイェニチェリを大宰相官邸に向かわせこれを包囲、バイラクダルは覚悟を決め、火薬保管庫で自爆、400ものイェニチェリを巻き込み爆死した。バイラクダル=ムスタファ=パシャの大宰相は3ヶ月半の任期で終わった。
 マフムト2世は内乱を終わらせるためと、廃位後のセリム3世の末路が自分にも巡るのを回避して、帝位を固守するため、ムスタファ4世の殺害を命じた(ムスタファ4世暗殺)。バイラクダルと同じ、1808年11月15日であった。

 マフムト2世は18世紀においてヨーロッパの各国君主がおこした改革を目指した。世に言う「啓蒙専制君主」が試みた"上からの近代化"である。マフムト2世自身が心酔した当時のフランスでは、ナポレオン=ボナパルト(1769.8.15-1821.5.5。皇帝ナポレオン1世。帝位1804-14,15)のフランス第一帝政(1804-14/15)で、この影響で西ヨーロッパが一変する情勢であったが、ヨーロッパ各国のナショナリズムが叫ばれ、自立解放運動が起こっていた時期でもあり、この情勢はオスマン帝国にも多大に影響を及ぼし、オスマン帝国領ギリシャなどキリスト教徒らの地域では宗教や民族の差別から自立解放運動が行われていた。中央から離れた地域では、アーヤーンや地方武士などが強権を行使して中央に盾突く姿勢を見せており、こうした運動と結びついて中央政府を打倒する危機も孕んでいた。またフランスやロシアなど先進ヨーロッパ諸国の干渉もおこりつつあった背景から、オスマン皇帝の中央集権化を実現させるため、まずは皇帝に近い要人要職の改正が必要であり、セリム3世時代より拡張してきたアナトリアのアーヤーン勢力、近代化を阻み続けたイェニチェリ勢力の改革が急務となった。

 マフムト2世は地方のアーヤーンを中央の統治下に配置させる改革を主導した。アーヤーン勢力を削減するには、彼らを中央の要職につけて統制、これに反対するアーヤーンは資産没収を余儀なくされた。もともとアーヤーンはオスマン帝国より徴税請負(イルティザーム)を許された立場であるため、マフムト2世は請負を許可した御恩を楯に、統制することができたのである。
 そして続く"上からの改革"は、"イェニチェリの廃止"である。セリム3世の治世では、近代兵器を装備した西欧式軍隊"ニザーム=ジェディード"の計画は失敗に終わったが、マフムト2世はこの計画を継承すべく、西洋の軍装、兵器、軍紀軍律、体制を整備した軍隊の創設を促すとともに、これに反発するイェニチェリに対しては一方的に弾圧する策をとらず、ある程度の保障を配慮した。しかし、不安は消え去ることのないイェニチェリは、結局マフムト2世に盾突いて反乱を続発させた。このため1826年、イェニチェリの抵抗は結成された新しい軍隊、"ムハンマド常勝軍"の砲兵隊によって玉砕された。こうして、約400年もの間、数々の輝かしき戦歴を残し名声をあげた軍隊・イェニチェリはついに終焉を迎えた。
 その後もマフムト2世は1831年にはティマール制度の廃止を宣言、大宰相の専横など行政権の肥大化にともなう中央政府の省庁をはじめとする行政組織を再編(特に内務省・外務省・財務省の再編)し、権力を分立させた。そのほか、郵便など通信制度の拡大、教育産業の奨励、官報の創刊、ヨーロッパへの常設大使館の設置、強権になりすぎたシェイヒュル=イスラム(イスタンブルのムフティー)の閣僚化、スルタンの御前会議を閣議に切り換えるなど、上部の改革を中心に近代化が行われた。こうした新しい改革の中には、過去のイェニチェリや、それに関わる官僚の付け入る隙はなかったのである。

 "上からの近代化"をめざし、新しい軍隊で近代のオスマン帝国を期待したマフムト2世であったが、やがてギリシア独立戦争(1821-29)に始まる列強の介入(世に言う"東方問題")で再び動揺が起こり、1839年、失意の内にマフムト2世は病没した(マフムト2世没。1839)。そして、即位した子のアブデュルメジト1世(1839-61)の治世では、マフムト2世の上からの近代化、および西欧化改革を継承し、経済、行政、司法、産業、軍事、地方、教育、社会といったあらゆる面で次の舞台へ駆け上がる大規模な改革が施され、国際的に必死に生き抜くことを追求していくのであった。

主要参考文献:中経出版『オスマン帝国600年史』 設樂國廣監修 齊藤優子執筆


 7編に渡ってご紹介致しましたオスマン帝国の戦歴も最終回、ついに270話の本編でイェニチェリは解散となります。いちおうはイェニチェリを中心とした歴史をご紹介したかったため、イェニチェリ解散で完結させていただきますが、その後のギリシアの独立や東方問題、アブデュルメジト1世の恩恵改革(タンジマート)以降のオスマン帝国は以下でご参照いただけたらと思います。

  1. 第26話 ギリシア独立戦争
  2. 第86話 東方問題・その1~ムハンマド=アリーとエジプト=トルコ戦争~
  3. 第87話 東方問題・その2~「瀕死の病人」とクリミア戦争~
  4. 第88話 東方問題・その3~ベルリン条約と新たな国際関係の成立~
  5. 第89話 ヨーロッパの火薬庫~大戦前夜の騒擾~
  6. 第150話 祖国解放と大革命 

 さて、今回の学習ポイントですが、セリム3世の"ニザーム=ジェディード"は用語集の最新版では登場しており、セリム3世も記載されております。いずれもマイナー事項ですが、イェニチェリ解散までの道程では避けられないお話ではあります。入試で答えさせる問題は少ないと思いますが、余裕があれば知っておくと便利です。
 イェニチェリ解散は超重要用語です。マフムト2世の治世で行われます。必ず知っておきましょう。マフムト2世は序盤の東方問題に巻き込まれていき、せっかくの近代化改革も対外戦争による奮闘で奔走する結末となります。ギリシアの独立運動ムハンマド=アリー(1769-1849)の登場がなければ、素晴らしい治世を送ることができたと思いますが。世の中はうまくいかないものです。しかし、ヨーロッパの名だたる啓蒙専制君主と、堂々と肩を並べるほど存在感たっぷりの皇帝です。
 また267話での学習ポイントでも話しましたが、アーヤーンの用語も近年重要語句になりつつあり、アーヤーンの肥大化を産んだ徴税請負(イルティザーム)は、次のアブデュルメジト1世におけるタンジマートの一環で廃止の方向へと向かいます。入試には出ないと思いますが興味深く、オスマン帝国が必死に生き残ろうとしているのが分かります。しかし第一次世界大戦(1914-18)の敗戦でイェニチェリに取って代わったムハンマド常勝軍も廃止され、1923年の共和制移行によって、オスマン帝国軍もついに御役御免となり、トルコ軍として生まれ変わります。

【外部リンク】wikipediaより

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(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。